古式エレベータ集成




 当サイトには、あちこちに古式のエレベータの写真がある。それをまとめて一篇を構成しようと思う。
 まずは「大阪健脚ツアー@」からの転載。


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@完全手動式・・・・・・各階の外扉、籠についている内扉とも手動で、操作も完全手動、というタイプである。ハンドルを右に回すと上、左に回すと下(もしくはその逆)という単純極まりない形式で、停める時には目的階の床面とエレベーター籠の床面をぴったり揃えるのにかなりの熟練を要する。扉は籠扉は蛇腹戸で、外扉は蛇腹戸かさもなくばガラス窓のついた鉄製三枚扉(うち一枚は実は戸袋で動かない)であることが多い。かつての大丸京都店の従業員用エレベーターがそうであった。現存(静態保存)するものとしては大阪・中之島公会堂舞台袖のものが最も凄い。籠扉、外扉とも蛇腹戸、中には裸電球一個という古色蒼然たるもので、何よりエレベーターシャフトが金網張りで外から動いている様子がよく見えるところが素晴らしい。古いギャング映画やフランス映画などに出てくるタイプのものである。大体において戦前の近代建築のエレベーターシャフトは階段の吹き抜けに設けられることが多いが、日本の場合シャフトは大抵コンクリートで固められ金網式のものは極めて珍しいのだ。
なおこのタイプでは、神戸・旧居留地の商船三井ビルには外扉が窓付き鉄製のもの、神戸・元町通の松尾ビルには両扉とも蛇腹戸のものが現役で動いている。1922(大正11)年に設置された商船三井ビルのエレベーターは、現役のものとしては我が国最古であろう。
※大阪市立中央公会堂は先年の度を越した大改修により、この貴重な産業遺産たるエレベーターを動かないオブジェにしてしまった。なお新装当時の館長は居丈高で小心でケツの穴の小さい典型的な小役人根性丸出しの下品な男で、実に嫌な見下げ果てたタイプの人間であるとのこと。

A自動着床装置付手動ドア式・・・・・・目的階の手前でハンドルスイッチをオフにすると、目的階の床面にぴったり合わせて止まるようになっているもの。完全手動式と比べると運転が格段に楽になっている。扉については完全手動式と同様である。現存のものとしては、京都・四條大橋西入ルの東華菜館のエレベーターがこのタイプ。

B自動着床装置付自動ドア式・・・・・・扉の開閉まで自動式になった、手動エレベーターとしては最も進化したタイプ。蝶番のついたハンドルの握りがスイッチになっていて、それを倒すと扉が閉まるようになっているものが多い。扉は外扉は上記@Aと同じ鉄製窓付き扉で、内扉は真鍮のパイプを束ねた安全扉か鉄製窓付き二枚扉である。真鍮パイプ式のものは日本橋の高島屋東京支店(自動式に改造)や京都の祇園甲部歌舞練場(残念ながら籠、扉、階数表示板の全てが取替えられてしまい現存せず)、鉄扉のものはこの阪急梅田本店(自動式に改造)、松坂屋上野支店、三越日本橋本店などにあったが、殆どが自動駆動に改造されており、現役のものは2008年12月29日の段階では未確認。

C自動駆動式手動ドア・・・・・・変則的なものとして、@Aから自動釦式に改造されたため、扉が手動なのに運転手なしで操作可能となっているものもある(どうやら改造ではなく、最初から自動駆動なのに扉は手動というものもあったよう)。神戸・旧居留地のチャータード銀行ビル(ノッチ式手動操作盤とボタンしき自動操作盤の両方がついている。またイギリス式のB-G-1-2-3という階数表記を日米式のB-1-2-3-4にあとから書き換えた跡も残っている。)や、大阪・天王寺区の大阪赤十字病院付属看護学校寮(2006年頃に破壊)、京都の旧鮒鶴旅館、東京・銀座の奥野ビルなどのものがそう。江戸川乱歩の「三角館の恐怖」に登場するのもこのタイプである。
※長らく廃墟同然で倉庫として使われていたチャータードビルだが、2002年に一階旧営業室部分にブティックとカフェレストランが入り素晴らしく美しく再生された。んが、それはいいのだが、オーナーがそれで変な色気を出し、窓のサッシとガラスを全て取り替えた上、二機残っていた手動エレベーター(一機は数十年動いていなかった)をデジタル式に取り替えるという最低のセンスの改装を行ってしまった(T_T)。

なお、手動式である限り、@〜Bとも運転手なしでは動かない。従って各階の呼出釦も、運転手への合図を送るための仕掛けであり、それを押すと自動的に籠が来るというものではない。つまり例えば三階から下に行こうと思って下の釦を押すと、籠の中でベルが鳴り、三階で下行きを呼び出しているということを表示するランプが点くのである。それを見て運転手が籠を三階まで動かす、という仕組みになっているのだ。

なお、各階にある階数盤(インジケーター)は針式が多いが、今のものとそう変わらない電光式もある。また針式は時計に似た円形、それを半分に切ったような半円形、それに針が横にスライドする長方形の三通りが見られる。
またメーカーについては、初期のものは当然に輸入品で、アメリカ製のOtisブランドやA.B.SEEブランドが多い。

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以上が引用である。



 

左・右:故・阪急百貨店梅田本店。愚かな阪急によって破壊されてしまい、跡形もない。設計は阿部建築事務所(あべけんちくじむしょ)と竹中工務店と伊東忠太(いとうちゅうた)、 竣工は1929年(昭和4年)であった。
※なお、手動式エレベータは籠内にインジケータがないので、現在位置の確認はシャフト内壁に書かれた文字を視認することになる。そのためには籠扉がシースルーである必要がある。蛇腹扉やパイプを束ねた安全扉なら当然ながら透けているし、スチール扉の場合も必ず窓が開けられている。
※右の写真でわかるように、外扉もプレスされ装飾されているものが多い。また、窓があることが一般的である。



  

上三枚:旧阪急百貨店梅田本店。インジケータ周りは黒大理石、扉周りも大理石で、非常に豪奢な造り。この頃には自動駆動に改造されていたが、1980年頃までは手動駆動であった。



  

左・中:大阪市浪速区日本橋(にっぽんばし)は、古くは宿屋街、近代以降は古書店街⇒電気街を姿を変えた街である。東の電気街秋葉原同様、今世紀に入って今度は「オタクの街」に変貌しつつある。そんな街のメインストリート、日本橋筋(堺筋)に面して、旧松坂屋大阪店(現高島屋大阪本店東別館)は白亜のファサードを見せて聳えている。アール・デコの清華とも言うべき美しい建物は、1934(昭和9)年に名古屋の名建築家鈴木禎次によって建てられたもの。この二枚は南側サブエレベータである。二台のうち一台は自動駆動に改造されつつも針式インジケータ、装飾付扉などを残している。
右:中央部のメインエレベータ。四台のうち二台が現役で、どうやらそのうち一台は手動式のままのようだ。インテリアはいずれもオリジナルを保持している。



 

左:高島屋東別館メインエレベータホールの装飾細部。
右:同じく一台のドア周り全景。



 

左:高島屋東別館(旧松坂屋大阪店)メインエレベータホール。このように四機のうち両サイドの二機はベニヤで塞がれている。大理石の壁、天井の装飾、照明など、贅を極めたつくりにも注目。
右:故・旧神戸商工会議所。1988年に破壊された。よってこれはアナログ一眼レフにて撮影したもの。都市探険家としての僕の原点となった建物である。1929(昭和4)年に古宇田實+原科設計事務所(神戸)の設計、施工は大阪橋本組、構造は鉄筋コンクリート造五階建で建てられた、和風ネオルネッサンス様式ともいうべき実にユニークかつ美しい様式の素晴らしい大廈であった。



 

左:同じく旧神戸商工会議所ビル。針式時計型インジケーターである。
右:大阪・船場のど真ん中、三休橋筋に面した重要文化財、日本綿業倶楽部(綿業会館)のエレベータ。えらくピンボケだがこの一枚しかない(´・ω・`)。籠は換えられ自動駆動になっているが、扉は恐らくオリジナル。1931(昭和6)年、巨匠渡邊節の設計で建てられた。昭和に入ってからの建物での重要文化財としては、明治生命館に次ぐ指定であった。



  

上三枚:登録有形文化財生駒ビルヂング(生駒時計店)の古式エレベータ。籠も扉もインジケータも換えられて自動駆動の普通のエレベータになっているのだが、一階の旧扉周りのみそのまま保存されている。一階のみ北側に開口し、他の階では東側が開口するという二箇所扉のエレベータだったので、大改造時に一階も東側開口の一箇所扉(つまり普通の)エレベータとし、そのおかげで一階のこの北向き開口部だけ保存できたのである。なお、左の写真の鐘は、かつて同ビル屋上の時計台に設置されていたもの。このビルも北船場、堺筋平野町の角に位置しているアール・デコの高楼で、実に美しい。



 

左:生駒ビルヂング天井。1930(昭和5)年に名手宗兵建築蔵事務所の設計で建てられたもの。生駒氏とは懇意にして頂いている。
右:生駒時計店と並ぶ大阪の老舗時計店、石原ビルヂングのエレベータ。御堂筋と土佐堀通の角地にあって非常に目立っているのだが、超高層化の話が出ている(ーー;)。1935年竣工、文化財級の建築なのだが。自動式に改造されているが、元は手動だったと思われる。



 

左・右:2009年に破壊されることがすでに決定してしまっている、大阪・中之島の大阪ビルヂング(ダイビル)新館。巨匠村野藤吾の若き日の傑作であり、もはや全国的にも極めて少なくなってしまった戦前のモダニズム建築である。これは一階正面エレベータホール。自動駆動に改造されているが、扉、インジケータなどすべてオリジナルと思われる。この芸術作品を私利私欲、金のために破壊しようとしているのは大阪の恥、関西の守銭奴、日本の産業廃棄物そのものの悪徳企業、放射能汚染によって人類滅亡を画策しているガミラスのごとき悪の秘密結社である関西電力と、その狡猾極まりない姦計に乗せられた愚かな潟_イビルである。



 

左・右:これは番外であるが、目黒雅叙園のエレベータ。戦前期の建物は百段階段のみ保存され登録有形文化財となっているが、エレベータのあった鉄筋棟は全く残っていない。これはバブル期に新たに建てられた部分なのだが、かつての雅叙園のエレベータを髣髴とさせる、螺鈿細工の蒔絵が施されているのだ。



 

左・右:これも目黒雅叙園のエレベータ。業務用のもの意外は全て蒔絵である。



上:目黒雅叙園。内部もこのように前面蒔絵である。



上:目黒雅叙園ホテル棟エレベータホール。扉の衣装など、各階で異なっている。移っている人物は左が花女女史、右が猫八女史と思われる。



 

左・右:京都の老舗旅館だった「鮒鶴」のエレベータ。恐らく当初から手動扉・自動駆動式だったと思われる。1929年竣工、なんと木造五層四階(層と実際の階が異なるところなど、まるで天守閣のようである)で、「千と千尋の物語」に出てきた「油屋」を連想させるすごい建物なのである。一時東京資本のウェディングレストランになったのち、2008年からはレストラン「鮒鶴」として再出発した。これはウェディングレストラン「ザ・リバーオリエンタル」時代に食事に行ったときに撮影したもの。右は内部から撮影。自動駆動式だが、このときは係員がついてくれた。



   

左:インジケータは半円針式である。五層四階で三界の天井高がやたらあるため、インジケータを見ても三階と四階の間が離れている。
右:エレベータがいない時。



 

左:インジケータのアップ。
右:人を乗せて外扉を閉め、籠扉を閉めているところ。



  

左:そして動き出した。
中:伸縮扉(蛇腹扉)の隙間からエレベータシャフトを見下ろす。
右:曹洞宗大本山永平寺大庫院のエレベータ。福井県吉田郡永平寺町にあるこの古刹だが、実は大半の堂宇が近代以降に建てられている。「永平寺大庫院」といっても塔中(たっちゅう=大寺院の境内に存在する小さな寺、子院)ではなく、永平寺本体の建物で、要するに台所兼寺務所。「鮒鶴」とほぼ同時期、1930(昭和5)年に「鮒鶴」同様木造和風で建てられた地下一階地上四階というすごい建築で、このように古式エレベータも現役で活躍している。「鮒鶴」のものと同様、籠扉、外扉とも蛇腹扉で、当初から自動式であったようだ。検索すると「日本で二番目に古い現役エレベータ」との記載もあったが、大正建築である神戸商船三井ビルヂングのものが恐らく現役最古である。そして「東華菜館」、「鮒鶴」、神戸・元町の松尾ビルなど1930年以前に建てられたビルで当時のエレベータが現役で残っているところはほかにもあるので、「二番目」ではないだろう。しかし貴重であることは間違いない。



 

左:永平寺大庫院のエレベータ。残念ながらピンボケ写真しかない。
右:京都大学医学部付属病院旧産婦人科病棟。このように見事な手動扉自動駆動式エレベータが二台、現役で残っている。



  

左:京大病院旧産婦人科病棟。インジケータのデザインも大変モダン。このように外扉はスチール製、そして籠扉は蛇腹扉である。手動ドアエレベータの場合、外扉がスチール製三枚だと殆どの場合一枚は動かなず、戸袋となっている。
中:一番左の一枚が戸袋であることがわかる。後姿は杣辺温さん
右:籠に入って、操作盤を撮影。このようにボタンで操作する自動式である。



 

左:大阪製鎖所製であることを示す銘盤。
右:籠の敷居にも製造会社名が刻まれていることが多い。O.C.とはつまり大阪チェーンである。



 

左:これも籠内から扉を撮影したもの。
右:もう一台の銘盤。同じように見えて定員が違うのが解る。



 

左・右:近い将来同志社大学医学部になる可能性もささやかれている、京都府立医科大学。古い建物は殆ど破壊されてしまった中、旧図書館だけ唯一ゴシック様式の荘厳なスタイルを守っている。内部には外扉、籠扉とも蛇腹で、恐らく完全手動駆動式だったと思われるエレベータが現存しているのだが、現状はこのように扉部分が塞がれ、インジケータのみが露出している。



 

左:京都府立医大旧図書館。この建物だけは破壊せず保存する方針のようだが、もう少し大切にして欲しい。
右:東京・銀座の奥野ビルヂング。昭和のはじめにモダンなアパートメントとして建てられたビルだが、現在は画廊だらけのビルとしても有名。自動駆動手動扉の古式エレベータが現役でがんばっているが、2008年にかなりの改装が施されてしまった。この写真は改装前の姿を記録する貴重なものである。一階、六階、七階のみに停止するように設定されていたので、そこだけ白く塗られていた。旧銀座アパートメントで、中央区の文化財指定を受けている。1932年、川元設計事務所の作品。



  

左:一階の扉はこのようにつるんとした今風のものに取り替えられている。ただし手動扉なので、窪み式の取っ手がある。
中:上階の扉はこのように窓付きのオリジナルである。
右:六階に停止中。籠扉が伸縮扉であることが判る。



  

左:外扉を開け、籠扉越しに操作盤を見る。
中:当時、このようなむちゃくちゃなボタン配列の操作盤であった(現存せず)。
右:同じく銀座にある、第一菅原ビルのエレベータ。1934(昭和9)年、吉田享二の設計である。これも手動扉自動駆動針式インジケータのもの。窓なしのつるんとした扉だが、オリジナルっぽい。



 

左・右:これは2007年に撮影した、改装されてからの奥野ビルのエレベータ。



 

左:第一菅原ビル一階は天井が低いので、インジケータはこんなことになっている。
右:二階より上はこうなっている。



  

左:籠に乗り込み、操作盤を撮影。
中:呼出ボタンに張られている注意書。
右:外扉を開けて撮影。



 

左・右:S電気ビルのエレベータの外扉に貼られている注意書。それぞれ手書きのようだ。



 

左・右:こちらも東京・銀座。銀緑館のエレベータ。かなり改装されてしまい、籠の蛇腹扉もステンレス製である。大正時代、1924年頃、つまり関東大震災の翌年の建物と推測されるそう。



 

左・右:ちょっと番外。これは古式エレベータではなく、船舶エレベータである。ダイヤモンドフェリーの船内にて。「乗り物の中にある乗り物」ということになる。



上:大阪市が悪辣な銀行の口車に乗って大赤字となった、悪名高い「フェスティバルゲート」のエレベータ。つまり古いものではないのだが、このように針式インジケータであった。



 

左・右:北九州市の門司港は神戸の旧居留地と同じく、近代洋風建築が建ち並んでいることで知られる。これは門司郵船ビルエレベータの籠、扉、インジケータはオリジナルではないが、エレベータシャフトはこのようにオリジナルの金網張りである!! 近代建築のエレベータはこのように階段室の吹き抜けを利用して設置されることが多いのだが、日本では金網張りのシースルーシャフトは極めて珍しい。大阪市中央公会堂のものは静態保存になってしまったし、神戸の故・山手ビルヂングはビル自体が現存しない。このタイプのもので現役なのはここだけではなかろうか? 1927(昭和2)年 、設計は八島知である。



 

左:門司郵船ビルに飾られていた、古い写真。これを見るとオリジナルのエレベータは針式半円型インジケータ、硝子窓付二枚引戸であったことが判る。
右:上でダイビル新館を紹介したが、こちらは大阪ビルヂング(ダイビル)旧館。新館と一体化している。渡邊節の代表作であるこの素晴らしいビルヂングは、東京の丸の内ビルヂング亡き今、現存する唯一の大正期の大規模オフィスビルなのだが、2009年に破壊されてしまう。エレベータは全て高度成長期に取り替えられたものだが、エレベータホールの写真を一枚だけ掲載する。この郵便ポストも見事。



 

左:京都・四條大橋の袂にある五層の大廈東華菜館。ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で大正14年から着工、1927(昭和2)年に竣工したスパニッシュ・バロック様式の傑作ビルディングである。戦前は南仏料理の「矢尾政レストラン」だったのだが、経営者浅井氏の親友だった于氏が戦後経営を引き継ぎ、北京料理の名店「東華菜館」となったのである。エキゾチックで東洋趣味の装飾も施された建物は、元から中華料理であったと言われても全く違和感のない老舗酒楼となっている。この写真は一階のインジケータ。アメリカ、オーチス社製の自動着床装置付手動駆動・手動扉の古豪が現役で元気に活躍している。手入れも行き届いており、素晴らしい。四階のみ南側に開口、他の階は東側に開口する二方向扉式である。
右:五階のみ、インジケータがこのように上下逆につけられている。



 

上:五階。扉を閉めたところ。籠の上端が下の窓から見えている。
右:五階インヂケータ。



  

左:このようにハンドル(ノッチ)一丁で動かす。これが手動エレベータなのである。
右:操作ノッチ。このエレベータは手動扉なので、ノッチの握りの蝶番はスイッチではないが、自動扉式手動エレベータの場合、この握りが扉スイッチになっており、倒すと閉扉する方式が多い。



上:東華菜館のエレベータ。籠内より運転中の扉を撮影。



 

左:大阪・医療法人日新会北堀江病院のエレベータ。乗ったことがないので自動式か手動式かは不明なれど、手動らしき扉と半円型針式インジケータである。1929年、名匠木子七郎の設計で建てられた。
右:ローマの中心、ヴェネツィア広場前に聳えるものすごい大建築、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世記念堂ヴィットリアーノ)の非常に優美なエレベータ。



  

左:ローマ市中心部、コロッセオの近くのアパート。玄関ホールの正面が階段室で、その吹き抜けがエレベータとなっている、日本の近代建築にもよく見られるパターン。
中・右:フィレンツェ市中心部の雑居ビルにて。ここもやはり玄関ホールの階段吹き抜けがエレベータシャフトである。なお、欧州ではこのように、金網張りのシャフトが多い。扉も引き戸ではなく扉となっている。



  

左:東京・新橋にあった、故・新田ビルヂング。大阪のニッタ株式会社の東京における拠点として、創業者新田温山翁の娘婿である木子七郎によって1930(昭和5)年に建てられたロマネスク様式の華麗なる大廈であったが、2005年に取り壊された。新田家の好意により、最後に見学会が行われたので、そのために東下りしたのである。新田ビルには自動式の普段使われている人用エレベータと、本来メインエレベータだったのではないかと思われるこの手動式貨物エレベータの二台があった。しかし完全手動式であるにも関わらず、このエレベータは戦後再設置されたものだそう。確かに呼び出しボタンこそレトロだが、外扉もインジケータも極めてモダンである。
中:屋上階の呼び出しボタン。
右:定員四名の小さなエレベータなので、操作ノッチは側面に設置されている。運転手を除けば三人しか乗れない。



 

左・右:籠内の銘盤。真鍮製のようだ。



  

左:呼び出し表示板。真ん中の黒い丸は階数が記入されている。そして例えば三階で上行の呼出があればブザー音とともにBの右側の四角窓の色が変わり、運転手に呼出を継げるのである。
中:運転ノッチ。
右:籠内に入って籠扉のみ閉めて撮影。



  

左:屋上階に止まっているところ。籠扉のみ閉めてみた。
中:籠の天井には大きな換気扇と脱出口が。
右:屋上階からエレベータ機械室へ登る梯子。



 

左:手書きの表示。
右:もう一台の人用エレベータの操作盤。これも結構古めかしい。押しボタンがインジケータを兼ねているので、行き先階を押しても点灯しない。@が点灯しているのは、一階が現在位置であるという意味である。



 

左:敷物をめくると、敷居の銘盤が出てきた。東京の富士エレベータ製である。この会社は大阪の富士輸送機(フジテック)とは無関係とのこと。
右:途中階の呼出釦。



上:インジケータは極めてシンプルな電光式で、古式エレベータらしくはない。戦後のものだからだろう。



 

左:神戸・西元町松尾ビルヂングに現存する、完全手動式と思しき古式エレベータ。籠扉・外扉とも伸縮扉で、運転はノッチ一丁である。よって守衛さんの勤務時間帯しか運転されていない。階段の踊り場に設置されている例である。1925(大正14)年、竹中工務店の設計施工で建てられた。
右:ビルのテナント部玄関より、奥にチラッと蛇腹扉が見えている。



上:松坂屋東京上野店のエレベータ。籠内の天井に豪奢なシャンデリア兼換気扇がある。



上:同じく上野松坂屋本館エレベータの籠内。



 

左:上野松坂屋のエレベータ。一階のインジケータはこのように針が横にスライドする珍しいタイプ。
右:一階以外はこのように全円時計式インジケータである。



 

左:上野松坂屋エレベータ、一階外側全景。
右:一階以外の階はこのようになっている。



上:旧文部省庁舎震災復興庁舎として1932年に大蔵省営繕管財局の設計で建てられた、外観はゴシック調のビルヂングである。現在では新庁舎建設に伴い、三分の一ほど残して破壊されてしまった。このエレベータホールは保存部分である。このように、外観はゴシックだが内部はかなりモダンな雰囲気でまとめられている。2008年7月16日撮影。



インジケータと時計。



 

左:旧文部省庁舎のエレベータ。外扉はオリジナルか? ボタンや籠などは換えられている。
右:高島屋東京支店(日本橋)。1933年に高橋貞太郎らの設計で建てられた壮麗な百貨店建築で、自動式に改造されているが、真鍮のパイプを束ねた「安全扉」を籠扉とする古式エレベータが元気に活躍している。次章に沢山掲載。



 

左:レトロモダンなインテリアで知られる東京・神田の老舗「近江屋洋菓子店」にて。懐かしいバタークリームのケーキが食べられる、伯爵にとって東京でのお気に入りスポットの一つである。
右:なんと僕が生まれてから、1966年の建築なのだが、エレベータは籠扉に蛇腹扉を持つ、手動ドア自動駆動式である。この時代、既に乗用エレベータとしては手動扉は認可されてなかった楼から、これは「貨物用」だと思われる。



 

左:インジケータと呼び出しボタンは一体構造である。下の黒い大きなボタンが呼び出しボタン。
右:手動扉なので、取っ手の辺りの塗装が長年の使用によりはげはげになっている。



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