骨董建築写真館
骨董建築写真館

旧作補遺大阪篇〜其ノ参

上:旧作補遺、まずはかなり古いが、二千二年六月四日に撮影した写真から始めたい。これは摂津国一ノ宮、住吉大社の写真である。


上:住吉大社境内の有名な「太鼓橋」。神社のシンボルである。


 

左:境内の大木。
右:兎がモチーフであった。


上二点:社殿は住吉造りと呼ばれる様式で建てられている。


 

左:住吉の街で見つけた銅張りの古い民家。昭和初期だろう。
右:阪堺電気軌道住吉公園駅。明らかに戦前の駅舎である。路面電車である阪堺電軌だが、立派な駅舎が残っているところは少ない。開通は大正二年だが、さすがにその当時からの駅舎ではないと思われる。

上:日本の百貨店建築として最も大規模かつ最も美しいものの一つ、高島屋難波本店(南海ビルヂング)。ここは高島屋の本拠地だが、実はオーナーは南海電鉄で高島屋はテナントとして入っている。。竣工は1932年(昭和7年)7月9日、設計は久野節である。


 

左:大アーチをコリント式大列柱が支える威風堂々たる外観。ただし内装は少なくとも客用部分では殆ど残っていない。
右:千日前商店街のアーケードから高島屋本店を遠望する。屋上の観覧車がノスタルジックである。


上:千日前が興行街だった頃をしのばせる存在だった古風なポルノ映画館、故・テアトルA&P


 

左:これも千日前、旧千日デパート近くにある、戦前建築と思しき酒屋。自動販売機が主力となっている。
右:ちょうど蹴鞠の世界杯という愚かしい迷惑イベントをやっていた最中なので、道頓堀のかに道楽もこの有様。


 

左・右:それぞれひどい恰好をさせられている食い倒れ人形とグリコのおっさん。


 

左:記憶が定かではないが、恐らくこれはグリコのネオンの裏側、既に破壊されてしまった旧消防署分庁舎の階段であろう。戦前建築の香りが馥郁と漂ってくる美しい姿である。
右:このサイトで紹介するのは二度目になるが、松竹座の夜景である。


上:同じくライトアップされた松竹座。実に美しい。


 

左:建築マニアの間では有名な、オーガニックビル。実は大阪名物塩昆布(しおこぶ)の老舗、小倉屋山本の本社ビルである。
右:ここからは2002年の天神祭の写真である。大阪天満宮総門前の古いポンプ井戸。

上:祭でにぎわう天満宮境内から門外を遠望する。


上:大阪天満宮は拝殿がない。これは本殿である。伯爵のリュックを背負ってるのは風太、その隣は広末である。


 

左:獅子舞。
右:神馬。


上:天満宮門前は古い乾物問屋街であるが、空襲を免れて現存するものは非常に少ない。卯達もある、非常に立派な土蔵造りの商家。卯達がある上、更に両側をこれも戦前のものだろう、鉄筋の防火壁が残っている。これのおかげで類焼を免れたのかもしれない。


 

左:この界隈のシンボル的な存在となった、有名な藤原ビル。オーナーの藤原氏とは親しくして頂いているが、廃墟となっていたこのビルを自分の手でこつこつと修復し続けている執念の人である。設計者は不詳、竣工は1923(大正12)年。
右:藤原ビルの玄関。後姿は恐らく風太ブーブーと広末である。


上:フジハラビル玄関を内側から見る。風除け室天井のアーチがなかなか面白い構造である。


 

左:藤原ビル玄関ホールにて。開口部はエレベータの跡である。
右:上階の窓。


 

左:屋上にて。正面塔屋の壁面をスクリーンに映画会なども催される。伯爵の一澤帆布の鞄を背負っているのは風太。
右:屋上より防火壁と卯達の商家を見下ろす。屋根の物見台は堂島の相場を手旗信号で知るための設備とのこと。


 

左:四階にある、藤原氏手製のサンルーム。
右:祭で混み合う天満橋。巨大なビルは、1970年代初頭まで大阪一の超高層ビルだった大阪マーチャンダイズマートビル。

上二点:天神祭の船渡御(ふなとぎょ)。


上:ここからは2003年秋の写真。旭区で見つけた洋館付二軒長屋。ただしかなり改装されている。


 

左:同じく旭区、大阪市立芸術創造館の近くの洋館付長屋。
右:半鐘のある家。消防団か?


上:旭区の旧消防署。消防署に火の見櫓が作られたのは1960年代ぐらいまでだろう。


 

左:同じく千林大宮付近にあったとても渋い喫茶店。
右:いきなり都心に飛ぶ。悪辣極まりない非道企業関西電力の魔手により破壊されようとしている大阪ビルヂング(ダイビル)。巨匠渡辺節の傑作であることは言うまでもない。第九章でも内部の写真など掲載している。渡辺作品は、これより新しい、昭和に入ってからの日本綿業倶楽部が重要文化財の指定を受けているのだ。東京の丸ビルなき今、現存する殆ど唯一の、大正期の大規模オフィスビルである。当然、重要文化財の価値がある。なんとしても残さねばなるまい。
大阪都心近代建築探訪講座・下にも大量掲載している。


上:ロマネスクスタイルの特徴は、豊かな装飾にある。通用口には狐がいた。


 

左:川べりなので、防水扉が備えられている通用口。
右:新館屋上から本館の軒蛇腹を見る。見事な装飾である。


 

左:渡辺の一番弟子、村野藤吾の傑作である新館の塔屋。
右:新館玄関ホールの郵便ポスト。上階から投函できるものである。


上:新館一階、階段室の表示。書体が美しい。

上:ダイビル新館玄関入って正面、エレベータ周り。実に美しい、村野藤吾のデザインである。


上:ダイビル新館一階エレベータホール全景。


 

左:ダイビル新館一階。公衆電話室。これがあるのは古風なビルの証だが、現在では使われておらず、扉の外に公衆電話がある。
右:今度は生野区鶴橋。当サイト「旧作補遺大阪篇・其ノ弐」に続き、有名な高架下商店街である。


 

左・右:鶴橋高架下商店街、通称国際マーケット。ハングルの看板が多い。


 

左:同じく鶴橋高架下にて。「めし」の書体が懐かしい。
右:夜の国際マーケット。


 

左:高架下から外れ、南下するアーケード商店街の途中にある、古い琺瑯看板。「諸藝人押賣寄附一切御断り」と書いてある。
右:同じ商店街の朝鮮寺院、「参尊寺」。普通の民家を改装して近年開刹された。


 

左:老舗パン屋に多い屋号、「木村家」。
右:都市計画道路に出たところにある、とてもユニークは学習塾「学習探偵団」。


上:学習探偵団全景。


上:まさか戦時中からそのままだったのではないのだろうが、テーピングされた窓。最近改装されてなくなってしまった。


上:猪飼野コリアタウンに入ると、こういう店がいっぱいある。これは疎開道路沿い。


上:またまたいきなり場所が飛ぶ。大阪市交通局曽根崎変電所。このサイトでの紹介は二度目、昭和11(1936)年、旧電気局時代に建てられたモダニズムスタイルである。


 

左:讀賣新聞より、燃え盛る政経ビル(>_<)。正面は昭和戦前、奥の中ほどが明治期の赤煉瓦、その奥が戦後のバラックという三つの時代の建物をつなげた実にユニークな建物だったのだが、2004年2月11日に焼失してしまった。
右:スパワールド前の大げさな噴水。(以上、政経ビル以外は2003年秋の撮影)

 

左:大阪市天王寺区の大阪教育大学天王寺キャンパス。建築関係の本やサイトで見たことがないので建築家や年代は判らないが、昭和二桁戦前、天王寺師範学校時代のインターナショナルスタイルだろう。(ここから2004年春先の撮影)
右:同じく大阪教育大学の門。タイル張りの門柱は校舎と同時代だろう。


上:暗くて判りにくいが、かつて梅田、泉の広場上ル付近に存在した「メソズエステ」である。「ズ」の窓が開いているので「メソエステ」になってしまっている。


 

左・右:旧東区、平野町通の堺筋より東側。何軒か、このような木造三階建て土蔵造りの商家が現存している。


 

左・右:大阪を代表する近代洋風建築の一つといっていいだろう、堺筋平野町角の生駒時計店(生駒ビルヂング)。宗兵蔵の設計で1930年(昭和5年)に建てられたアールデコの高楼である。増補⇒<増補>


上:生駒時計店の細部。


上:平野町通、堺筋より西に入ったところにある旧東京貯蓄銀行大阪支店。銀行建築では珍しい、ネオ・ロマネスク様式である。僕が都市探検を始めたころからずっと日本短資椛蜊緕x店だったのだが、短資という業界はゼロ金利時代大変な不景気に見舞われていたそうなので、いつからか空き家になってしまっている。右側に見えているのは伊藤喜ビル。近代建築が並ぶ景観を維持するためにも、有効活用が待たれるところだ。1920(大正9)年の竣工、設計者不詳とのこと。なお、旧日本短資は合併によりセントラル短資となっている。増補⇒<増補>


 

左:その伊藤喜=イトーキクレビオビルヂング。これも詳細不明で伊藤喜製作所の所有となったのが1932年とのこと。それより以前、大正末から昭和初期の建物だろう。
右:イトーキビル入り口の天井装飾。とても繊細で美しい。


 

左:イトーキクレビオビルの玄関。インテリアを扱う会社なのだから、このようは素晴らしい建築こそショールームに使えばいいのに。
右:道修町通に残る、古い商家。鰻の寝床の敷地、奥には坪庭、そして土蔵がある。


上:伏見町通の伏見ビル(旧澤野ビル)。登録有形文化財で、大正12(1923)年竣工、設計不詳である。左隣は青山ビル。増補⇒<増補>

 

左:伏見ビルの東隣、青山ビル。全体を蔦が覆っているので外観がよく判らないが、スパニッシュスタイルのビルで、元々は個人住宅、野田屋三郎邸だったとのこと。1924(大正13)年、設計施工は大林組である。
右:青山ビル、階段室のステンドグラス。増補⇒<増補>


 

左:青山ビルの正面玄関。二階の出窓がスパニッシュであることがわかる。
右:内側から見たステンドグラス。


上:大阪市内に唯一現存する、大規模商家。重要文化財小西儀助商店。正面は反対側である。1903(明治36)年、基礎:渋谷五郎、意匠:本間乙彦の設計によって建てられた。コニシは登録商標「ボンド」で知られている世界的接着剤メーカーである。増補⇒<増補>


上:三井住友銀行大阪中央支店。元の三井銀行大阪支店であり、越後屋発祥の地に立つ由緒ある支店として、役員が支店長を務める格の高い店であった。1936年(昭和11年)に曾禰中条建築事務所の設計で建てられた、新古典主義の名作である。増補⇒<増補>


 

左:三井住友銀行大阪中央支店のジャイアントオーダー。柱頭はイオニア式である。
右:その真向かいに聳える、高麗橋野村ビル。増補⇒<増補>


上:規模の大きなビルなので全景を収めきれなかったが、高麗橋野村ビル。1927年(昭和2年)に鬼才安井武雄の設計で建てられた。安井作品としては大正期の大阪倶楽部とモダニズムの瓦斯ビルの間に位置する。


 

左・右:高麗橋野村ビルの玄関廻り。門灯のデザインが独創的である。


上:アールデコ調の六階窓廻り。


 

左:近代建築関係のサイトや本では見たことがないので戦後物件かも知れないが、様式建築の特色が結構色濃い岡三証券本店。大阪証券取引所のすぐ南、兜町と並ぶ証券街、北浜の一角である。
右:登録有形文化財、新井ビル。元々は報徳銀行大阪支店で、ゼセッションの名手河合浩蔵の設計で1922年(大正11年)に建てられている。本章での北浜、道修町界隈はとりあえずこれまで。増補⇒<増補>

 

左:同じ時期の撮影だが、場所は一気に南へ。お洒落ゾーン化が著しい堀江地区にある、北堀江病院。そっけないモダニズムスタイルだが、縦長の窓と、そして何より玄関周りの豊穣な装飾が、この病院が戦前の建築であることを教えてくれる。1929(昭和4)年の竣工で、設計は名匠木子七郎とのこと。。
右:入ってすぐのところにある、大きなアンティークエレベータ。インジケータも半円形時計式である。


上:僕のメインテリトリーである近代洋風建築ではなくもろに現代建築だが、なかなかにいちびった造りである道頓堀ホテルの玄関。決してラブホではなく、ちゃんとしたビジネスホテルである。


 

左:北堀江と並ぶ新興お洒落ゾーン、元々は糸偏の街大阪の中心的問屋街である南船場三休橋筋と安堂寺橋通の角にある1930(昭和5)年竣工の大規模オフィスビル、大阪農林会館。元々は三菱商事大阪支店ビルなので、設計は三菱合資会社地所部である。
右:農林会館の階段。親柱の装飾が美しい。このビル、僕が都市探検を始めた80年代は地味な事務所がいっぱい入っている雑居ビルだったのだが、最近はお洒落系の小売店舗や美容院などが沢山入って、とても楽しいことになっている。なお、一階の核店舗は今はサカエスーパーではない。すぐ西隣にある安永ビルも木造二階建ての戦前建築で、面白いテナントが多い。


 

左・右:各階の廊下に金庫室がある。雑居ビルではなく、三菱商事の単独使用だったことがわかる。


 

左:一階玄関ホールの階段親柱。
右:二階エレベータホールの表示。


 

左:大阪農林会館玄関ホール。郵便受と、上階から投函できるタイプの郵便ポスト。ただし使用されていない。
右:そのポストの投函口。


 

左:上述の安永ビル。ビルの名前は正面の安堂寺橋通に因むのか? いまや船場お洒落街の一員となっているが、見ての通り三階は戦後の増築。ビルヂング風なのは正面のみで、奥は瓦屋根である。
右:三休橋筋から安堂寺橋通を東に入ってすぐ北側にある、原田産業大阪本社ビル。小笠原祥光の設計で1928年に竣工している。


上:原発立地などで地域社会の文壇と破壊の限りを尽くし、悪逆非道なこと指定暴力団どころの騒ぎではない鬼畜企業、関西電力の文化破壊は留まるところを知らず、この旧大阪電灯西道頓堀発電所破壊され、マンションと化してしまった。大正二年に建てられた、重要文化財級の建物であり、水際のこの好立地である。しかも難波ハッチ、お洒落ゾーンの堀江地区の隣接エリアなのだ。いくらでも有効な、そして文化度の高い活用法はあったのに……。このサイトでも再三再四、関西電力の非道ぶりを糾弾しているが、同じ関西にあって、公的企業であっても、大阪ガスの立派な姿勢に比べて関西電力のレベルの低さは信じがたいほどである。しかも不祥事が相次いでもトップは一切責任を取らない。こんな電力会社の電軌など一切使いたくない、というのが本当のところだ。


上:同上。


 

左:西道頓堀橋の親柱。赤煉瓦の名建築のまん前には、これまた美しい近代土木構築物があるのだ。
右:悔しいので西道頓堀発電所のかつての雄姿をも一枚。


上:更に更にもう一枚。

 

左・右:日本橋筋にある貴金属店の自動販売機。貴金属の自販機なんて世界中でこれ一つではなかろうか?


上:第五章以来の紹介となる、旧松坂屋大阪支店、現高島屋大阪本店東別館。竣工は1934年(昭和9年)、設計は鈴木建築事務所(鈴木禎次)。 ネオ・ルネッサンスを基調にアール・デコを加味した壮麗なるデパートメントストアである。


上:高島屋本店別館。玄関扉上部の繊細な装飾。


 

左:日本橋筋(堺筋)に面した一階正面のポルティコ。
右:内部。大理石の柱に設けられた空調吹き出し口の装飾。


上:館内の客用エレベータは北入口横の二機(廃止)、南入口横の二機、正面奥のメインが四機(二機は廃止)の計八機であった。これはメインエレベータの一階部分。実に美しいアール・デコである。


 

左:メインエレベータ四連のうち、現在も使用されている二機。人間用の右は自動駆動に改造され、貨物用の左は手動駆動のまま用いられているようだ。
右:人間用のエレベータ。時計式インジケータが美しい。扉もオリジナルである。


上:ほぼ同時期に撮影した旧松坂屋大阪店。


 

左:使用されていないエレベータはこのように封鎖されている。
右:日本橋の名門、黒門市場で見かけて不気味な看板人形。国立文楽劇場が近いのだ。


上:ここからまた日が変わる。これは堺市東区日置莊原寺町、萩原天神境内の資料館。この日は堺市立工業高校教諭、明治建築研究会代表柴田正巳先生の主宰する戦跡研究会で、この地区の神社と軍人墓地を訪れたのである。


上:同上


 

左:天満宮なので牛の石像がある。
右:紀元二千六百年と刻まれた石柱。


 

左:これも紀元二千六百年。
右:こちらは武運長久。

 

左:戦前のものは「記念」ではなく「紀念」と書かれたものが多いそう。
右:日置莊は「泉州堺」市にあって和泉ではなく河内である。今年の合併で南河内郡美原町が堺市美原区となったが、合併以前から実は、堺市域に若干の河内領域が含まれていたのだ。まだまだ長閑な光景で、新築の豪農住宅があった。ぎらぎらの鉄筋よりははるかにましなセンスである。


上:日置莊の軍人墓地。普通の墓地の一角に、オベリスク型の軍人墓ばかり集めてあるところがある。


上:軍人墓のアップ。勲功と階級が書いてあるのが一般的。


上:また日が変わる。日本橋五階百貨店の一角、古着屋街である。このサイトでも第五章で少しだけ紹介している。右が松田屋


 

左・右:松田屋付近、迷路状になっていてとても楽しい路地が続く。大方は戦後のバラック建築だが、一部それより古いと思われる防火壁などが残っている。


左:そしてまた日が変わって、今度は北区の天五中崎商店街。入ってすぐのところにあるすごい看板。


左:浮田町の町工場。


上:旧歯科医院をそのまま使ったカフェ、「バンブークラブ」。


上:その近所で見つけた変な庇。


 

左:昔の地名地番の町名表示板。
右:残念ながら廃業してしまった、おばあさんが一人でやっていた大衆食堂。今は骨董カフェになっている。

上二点:廃業直後だったので、店の前に非常に貴重な木箱が捨てられていた。何しろ台湾精糖である。


 

左:廃食堂正面。
右:その近くにて。ゴムが護謨と漢字で書かれている。


 

左:都島通りが環状線の古風なガードをくぐるところにあった、大衆食堂の王道を行く存在であった北一食堂。長く伸びた「し」の書体が王道感満点であった。


上二点:2004年3月、阪急三番街、ヘップナビオ、ヘップファイブ合同バーゲンセールのポスターだが、コピーが非常にあざとく下品。いかにも阪急的である。


上:阿倍野区天王寺町北二丁目、寺田町駅すぐ近くにある大正時代後期と思しき洋館。個人住宅である。


 

左・右:同上。


上:同じ建物の側面。エンタシスしてないがイオニア式柱頭である。全景写真があったはずなのに見当たらない。


 

左・右:今や日本を代表する有名銭湯となった、登録有形文化財「源ヶ橋温泉」。戦時中にも自由の女神を降ろさなかったというつわものだが、路地の奥にあって非常に写真を撮りにくい。竣工は1937年である。


 

左:源ヶ橋温泉から生野区の下町を散策する。長屋で見かけた木製の牛乳箱。何しろ「ホモ牛乳」である。しかしエンゼルマークのみでホモちゃんがついていないのがちょっと残念。
右:大阪市内の下町を巡ると、まだまだこのような長屋が群として健在である。不燃化などというあほで下らないお題目によって破壊されることのなきよう、文化として守っていく必要がある。


 

左:寺田町から桃谷に向かって路地を抜けていくと、1950年代に建てられたと思しき古い鉄筋の建物があった。その表札だが、隷書で読めない(^人^;)。
右:このように蔦で覆われていた。


上:日本橋の南側の裏通り、黒門市場の近くで見つけた、ビルに張り付いたバラック。もう営業はしていない。


上:文献、近代建築サイトなどで見たことがないのだが、恐らく戦前の近代建築だと思われるビル。四ツ橋筋沿い、アメリカ村である。

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