骨董建築写真館 大阪都心近代建築探訪講座・上
骨董建築写真館

大阪都心近代建築探訪講座・上

2007年3月10日、友人であるヒロポンこと銀聲舎代表松尾寛君が講師を務めているNHKりんくう文化センターの講座の特別講師を委嘱され、丸一日かけて大阪、船場界隈の近代建築を駆け足で見て回るウォッチングツアーを実施した。そのときの様子を写真でレポートしたい。

上:朝十時、地下鉄本町駅@番出口にて集合である。ビルの中の表示が、1970年代に設置されたのだろう、古風であった。




 

左:同上。
右:まずは御堂筋を北上、中央大通りを渡って、南御堂前の旧大谷仏教会館又一ビルである。竹内緑の設計で大正8(1919)年に建てられた総テラコッタ張りの華麗なビルだが、1985年に御堂筋側の外壁と南側の正面玄関周りを残して建て替えられた。外壁保存としては比較的初期の例である。今にして思えばもっとましな残し方があったとも思うのだが、86年には第6回大阪都市景観建築賞(愛称・大阪まちなみ賞)の『奨励賞』を受賞している。




 

左:又一ビル。久太郎町通りに面した玄関。なお、船場エリアの町名はすべて「まち」と発音する。
右:そのまま久太郎町通りを東進。商家の前にあった古めかしいゴミ箱。




上:久太郎町通りと丼池筋(どぶいけすじ)との北東角に建つ無名のビルヂング。外装材で覆われてしまっているが、元々はゼセッション風のタイル張りビルヂングであったように記憶している。大正末頃のものと推測する。なお、大阪の旧市街は京都同様完全な碁盤目状の町割りで、南北の道を筋、東西の道を通りと呼称する。ニューヨークのアベニューとストリートの関係もそうである。丼池というのも浪速商人を象徴する地名で、この界隈は糸偏(繊維産業)関係の問屋街となっている。




上:丼池筋を南下し、北久宝寺町を西へ進むと、心斎橋筋とのに登録有形文化財、大阪開成舘がある。1825年創業の老舗楽器店、三木佐助商店(三木楽器)の本店である。1924(大正13)年に増田清建築事務所の設計で建てられた鉄筋コンクリート四階建てのビルヂングであるが、近年のリニューアルでちょっとぴかぴかにしすぎたきらいがある。




 

左:北久宝寺通りを挟んで三木楽器の真向かいにあった喫茶店。このモノグラム、ちょっとまずいんではなかろうか(^_^;)。一同に大受けであった。
右:三木楽器のテラコッタ装飾と軒蛇腹。




 

左:壁の装飾テラコッタ。
右:北側通用口の表札。

 

左:通用口から入ったところ。エレベータはオリジナルの古式ではなく、付け替えられたもの。
右:階段の吹き抜けを見上げる。




上:壁面装飾を見上げる。すべて北面。正面である西面は心斎橋筋のアーケードがあって非常に見えにくい。




上:正面玄関のステンドグラス。奥に室内の天井装飾が見えている。




 

左:開成館一階営業室。
右:船場心斎橋筋商店街で見かけた旧漢字の看板。




上:心斎橋筋と南久宝寺町通りの南東角にある木造三階建ての町家。大正末〜昭和初期と思われる。




上:そのはす向かい、北西角にあるそっくりの建物、山本幸。同時期だろう。




 

左・右:山本幸ビル細部。

 

左・右:南久宝寺町通りと丼池筋の北西角に、現金問屋「萬榮」の二号館がある。かなり改装の手が入ってはいるが、どう見ても戦前までの近代建築である。しかしどこをどう調べても全く資料が出てこない、謎の建物。




 

左・右:同じく萬栄二号館。




 

左・右:丼池筋にて。




 

左・右:丼池筋の街並み。




 

左:どんな肉が出てくるのか知れたもんではないが、食べ放題でこの値段は結構良心的である。
右:御堂筋線一番出口。この標識もレトロである。ここで遅刻した三人を合流、総勢十三人となった。




 

左:1番出口から安土町通りをまっすぐ東へ行くと、三休橋筋との交差点鹿児島銀行大阪支店がある。詳しいデータが見つからないが、戦前、昭和初期のものに間違いないだろう。非常にモダンで、アール・デコ調のステンレス装飾が大変美しい。




上:昭和初期の近代建築だとほかに朝日新聞大阪本社などでもステンレス装飾が見られるが、当時はほとんどSF的と言っていいぐらい未来的に見えたことだろう。




 

左・右:鹿児島銀行大阪支店の玄関周り細部。

上:鹿児島銀行のところから三休橋筋を北上すると、備後町とのに重要文化財、綿業会館がある。戦前の日本の輸出産業の中心は繊維製品であり、この綿業会館は日本綿業倶楽部のクラブハウスというか、ギルドホールなのである。東京、丸の内の日本工業倶楽部が外壁保存とはいえ建て替えられた今、日本に現存するほぼ唯一の大規模ギルドホール建築であるといえよう。巨匠渡辺節の設計で、1931(昭和6)年に竣工した。意匠を担当したのは若き日の村野藤吾である。




 

左:玄関の表札と重要文化財の標章。昭和に入ってから建てられた建物として重要文化財に指定された最初期のものである。
右:繊細なレースのような鋳鉄製玄関扉。




 

左:玄関ホールにて。扉の向こうは玄関風除室である。
右:玄関ホール正面に据えられている銅像。綿業会館を建てるに当たって百万円を遺贈した岡恒夫の像である。当時日本を代表する超一流企業であった東洋紡(無論今でも一流企業だが、当時の東洋紡は現代でいえばトヨタのような存在だったのだろう)の専務取締役を務めた人物だが、オーナー社長ではなく役員だった人物が百万円を寄贈できたということからも、繊維産業の隆盛振りが偲ばれる。




 

左:玄関風除室のシャンデリア。
右:玄関ホールの大シャンデリア。




上:食事時でなかったので照明が消されており、とても暗い写真になってしまったが、一階の食堂である。




 

左:玄関ホールは二階まで吹き抜けになっていて、正面の銅像の奥に大階段がある。
右:各階から送信できるようになっている郵便ポスト。これは二階の差入口。




上:一階から回廊を見上げる。

上:二階の回廊から見た大シャンデリア。




 

左:消火栓も古風である。
右:トイレ前の床は擬石であった。




 

左:大階段。材質は全てトラバーチン(イタリア産大理石の一種)である。
右:ぼやけてしまったが、エレベータの扉も美しい。ただし籠や駆動装置は取り替えられていてつまらない。




 

左:上階からの郵便物を受け止める一階のポスト。ここに郵便屋さんが集めにくるのである。
右:玄関の門灯や庇。奥にシャンデリアが見えている。




 

左:面業会館の外壁。
右:戦後物件ではあるがそろそろ「レトロ」と呼んでいいぐらい、いい感じにしなびてきている個人商店。上階は住居のようである。




上:板谷ビルの表札。なんと右書きで「ドクトル」である。実に味わい深い。昨年タイルが張り替えられたときに、ステンレスの枠がつけられた。場所は淡路町心斎橋南西角である。




 

左・右:板谷ビルヂング全景。左にはヒロポンと直平が写っている。この通り、大正末期に建てられた三階建ての小さなビルで、一部スクラッチタイル張りというユニークなデザインである。実は三階に番組制作プロダクションが入っており、僕の出演番組を担当したこともあるので、何度か訪ねたこともある。

 

左・右:板谷ビルヂング。




 

上:板谷ビルヂングと淡路町通りを挟んで真北にある、清水猛商店。1923(大正12)年に小川安一郎の設計で建てられた洋風町家。検索すると鉄筋という記述が多いが、最近木造であることが判明したらしい。




 

左:清水猛商店の郵便新聞受。
右:同。美しい玄関庇と門灯。




 

左・右:心斎橋筋を北上。道修町通りとの南東角に、長らく空き家のまま放置されていた大きな町家があったのだが、「かんてきや 要」として見事に再生されていた。「七輪」などという鄙の方言ではなく、美しく洗練された都会的な言葉「かんてき」を用いているところも好ましい。いつ建てられたか不明なるも大正13年の記録があるのでそれ以前だろうとのこと。




上:「要」を南側から見る。隣地が更地になっているので鰻の寝床となっている敷地がよく解る。一番奥には土蔵まである。また表に面して煉瓦蔵もある。




 

左・右:更に北上、伏見町との交差点南東角に建つ、芝川ビル。西宮七園の一つ、甲東園に邸宅を構えていた貿易商芝川又右衛門氏が良家の子女の花嫁学校として設立した芝蘭社家政学院の校舎1927(昭和2)年としてに建てられた。設計は美しいアール・ヌーヴォー調の校舎で名高い大阪市立工芸学校の教師、渋谷五郎、本間乙彦のコンビで、フランク・ロイド・ライトの影響が濃く、南米の古代文明のモチーフが多用されている。ちょうど開催中だった、大阪アート枯れ井戸スコープの会場として、モダンアートの展示が行われていた。玄関上の装飾が破損しているのは材質が軟らかい龍山石である上、戦災を受けているからである。




上:芝川ビル、西側壁面。

上:芝川ビルの西面。




上:窓の上部にもマヤ文明を思わせる人面彫刻が。




 

左・右:玄関の風除室に置かれていた二体の脱糞人形。アートカレイドスコープの展示である。




 

左・右:風除室の意匠。




 

左:風除室から外側を見る。玄関扉は全面硝子、外側に鎧戸である。
右:玄関ホールの天井装飾。




 

左:一階の廊下。
右:一階の室内。暖炉ではないのだが、不思議な装飾であった。床タイルは剥がされている。この部屋で展示されているアートは超つまらなかった。駄作である。というか、才能がないのだろう。




 

左:一階室内の壁面。
右:地下室の照明。ここの展示作品はまともであった。




 

左:地下室の照明をノーストロボで。
右:地下室の入り口にあった窓口。




 

左:一階玄関ホールより主階段を見る。
右:一階玄関ホールにあった伝声管。かつては来客の来意をそれぞれの部屋へ伝えたのだろう。

 

左:芝川ビルの東面。こちらは裏なので無装飾なのだが、えらく綺麗に化粧直しされていたので吃驚。でも雨樋はブロンズの古いものが残されていた。
右:裏通りの丼池筋にひっそりと残る洋風蔵。




 

左:その南隣にも戦前の近代建築が健在。更にその南に見えているのは旧藤沢薬品本社。今では山之内などという三流以下の関東企業と合併して東下りしてしまった裏切り者である。
右:二軒並んだ光景。歩いているのは受講者の皆さんである。




左:三休橋筋と高麗橋通りの南東角に建つ旧大中証券とその南隣、日本基督教団浪花教会。大中証券旧大阪教育生命保険館だが、明治の最後、1912(明治45)年に辰野・片岡建築事務所(巨匠辰野金吾が弟子の片岡安を共同経営者に大阪で設立した設計事務所))の設計で建てられた“辰野式”の名品であるが、今は値段ばかり高くてセンス最低の「シェ・ワダ」というひどいフランス料理屋になってしまった(-_-;)。何しろ内装はほぼ全部破壊され、玄関のステンドグラスなども失われてしまったのだ。ここまでひどいことをする料理屋の味に、誰がどんな期待をするというのだろう。行く価値が全くない。チキンラーメンにお湯をかけているほうがましである。




 

左・右:日本基督教団浪花教会。内部、塔の天辺まで写真に撮ってあるので、また章を改めて掲載したい。日本基督教団の中でも最もリベラルな、旧日本組合基督教会系の教会である。つまり僕と全く同じ、ということになる。ウィリアム・ヴォーリズの作品で1930(昭和5)年に竣工した、鉄筋コンクリート造のネオ・ゴシック様式である。




上:今橋通りと三休橋筋の南西角に建つ、八木通商ビル東面。大阪農工銀行本店として辰野・片岡建築事務所の設計で1917年(大正6年)に建てられたのだが、大中証券と違って赤煉瓦の「辰野式」ではない。実は元々はここも辰野式だったのだが、1929年(昭和4年)に国枝博の設計で、全面的にアラベスク調のテラコッタ貼りに改装されているのだ。芝川ビルの四階同様、ここの三階も戦後の増築である。なお、三休橋筋を挟んで西向かいにかつての鴻池銀行の本店、三和今橋ビルがあった。三和銀行当時は大切にしていたのに、名古屋の田舎銀行と合併し、更には東京の死の商人と合併する過程で、あっさり破壊されてしまった。




 

左:三休橋筋側玄関。
右:今橋通り側正面玄関。




上:八木通商ビル、今橋側の装飾。

上:「幼稚園建築の西の横綱」と称えられている、大阪市立愛珠幼稚園。伏見柳・中村竹松・久留正道の設計で二十世紀最初の年、1901(明治34)年に建てられた。純和風なので古い商家の転用かと誤解されるが、純然たる幼稚園舎である。今橋通りに冠木門を開き、丼池筋との角地に位置する。




 

左:通りすがりに見つけた、ものすごく時代を感じさせる立て看板。
右:現役のオフィスとして使われている町家。道修町界隈は製薬会社が多い。江戸時代以来の薬種問屋街なのだ。「登記簿上の本社が大阪」でも実質的な本社機能は「法的にはただの支店なのだが名称として東京本社を名乗っている事務所」に置いている企業が増える中、製薬業界は今でも完全な大阪支配で、バイエル、チバガイギー、ゼナカ、P&Gなど外資系大手も多くは本社を近畿に置いている。中でも武田、田辺、塩野義の三社を「道修町の御三家」と呼ぶ。




上:製薬業界最大手、武田薬品工業(武田長兵衛商店=タケチョー)大阪本社。松室重光の設計で1927年に竣工したのが右側の三階建ての部分であろう。龍山石の列柱の部分が元の玄関であろうと思われる。この狭い一方通行の道修町通りに沿って、大小の薬品関係の会社がびっしり建ち並んでいるさまは壮観である。




 

左・右:いずれも武田長兵衛商店。




 

左・右:武田薬品のすぐ西隣にある、住友大日本製薬本社には、かつての大日本製薬ビルの外壁が一部保存されている。1930年、宗兵蔵の設計で建てられた素晴らしい建物であった。




上:大日本製薬の真向かいには、非常に奥行きのある立派な商家が残っている。




 

左・右:いずれも道修町界隈にて。

 

左:戦前はモボ、モガが闊歩し、心斎橋と同じようなハイカラモダンストリートだったという平野町通り。これは戦後物件ながらいい雰囲気のモダニズムスタイルである新和産業のビル。
右:このサイトで紹介するのは二度目になるが、ネオ・ロマネスク様式の旧東京貯蓄銀行と、その奥に見えているのはイトーキビルである。
※2007年7月12日追記・・・なんと、この旧東京貯蓄銀行ビルを所有している鞄本臓器は、保存を口約束していたのに本年春、いきなり破壊してしまった。倫理も道義も何もない、関西電力と同等の実にひどい悪徳企業である。




 

左・右:そして、この日の目玉の一つ、生駒ビルヂングに到着。ここもこのサイトで紹介するのは二度目、大阪屈指の老舗時計店の店舗として、宗兵蔵の設計で1930年(昭和5年)に建てられたアール・デコの高楼である。




 

左:レトロな書体の表札。
右:現在、一階にはイタリアンバルが入っている。




 

左:堺筋平野町の南西角に面して建っているファサード。
右:今回、マイミクのぺて吉さんこと当主の生駒社長に直接案内して頂けた。玄関ロビーに置かれているオブジェは、元のシャンデリアである。




 

左:一階主階段。
右:主階段踊り場のステンドグラス。




 

左:主階段を見上げる。
右:一階主階段前に保存されている、時計台の鐘。現在はこの鐘の音をデジタルサンプリングした音源が使われている。奥に見えているのは保存されている古式エレベータ




 

左:古式エレベータ。生駒ビルのエレベータはこの一階のみ北面、他の階は東面が開く二面式であった。手動式、蛇腹籠扉のオリジナルは失われ、自動式に置き換えられ、一階も東面が開くよう改造されたので、北面のこの旧扉口と時計式インジケーターが保存されている。
右:一階エレベータ横のステンドグラス。下の「G」はオリジナルで、上の「I」は推定に基づく復元。創業者「生駒権七」のイニシャルだろうとIにしたのだが、金と銀で「s」だったかもしれないとのこと。

 

左:古式エレベータを正面から。
右:主階段で地下へ降りる。




上:地下室から玄関床部の硝子タイルを見上げる。明り取りになっているのだ。




上:同じ硝子タイル。一階正面玄関前である。地下室のほうが若干広いので、地上では屋外になるのだ。




 

左:地下室に保管されている、オリジナルの門灯。昔の建築家は、こういった細部まで全てデザインしたのである。
右:一階に戻る。かつて、時計店時代に使用されていた金庫室の扉。




上:一階天井。時計店時代は営業室であった。右上、見事な捩れは主階段。その下には古式エレベータのインジケータが見えている。




 

左:もう一枚、主階段。踊り場のステンドグラスが見えている。
主階段の吹き抜けを見上げる。天窓は新設されたもの。




上:道修町一丁目交叉点に、船場を象徴する大商家建築、重要文化財小西儀助商店が威風堂々と聳えている。「ボンド」の商標で知られる世界的な接着剤メーカーコニシ株式会社の本社であり、明治36(1903)年に基礎:渋谷五郎、意匠:本間乙彦の設計により建てられた。右隣の空き地は旧三越大阪店(三井越後屋発祥の地)、その隣の近代建築が三井住友銀行大阪中央支店(旧三井銀行大阪支店)である。過去分⇒<増補>

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