大阪健脚ツアー篇・其ノ壱
骨董建築写真館

大阪健脚ツアー篇・其ノ壱

上:阪急百貨店梅田本店一階正面、華麗な大ドーム。旧梅田駅コンコースである。設計は阿部建築事務所(あべけんちくじむしょ)と竹中工務店と伊東忠太(いとうちゅうた)、竣工は1929年(昭和4年)である。

二千年三月二十一日の午後、当時の友人と大阪市内を梅田から西へ西へと安治川のの河口方面まで歩くという都市探険を実行した。
まずは出発点となった、世界初のターミナル百貨店として商業史上に名高い阪急百貨店梅田本店である。昭和の最初に建てられ電鉄系デパートとしては一番の老舗であるここは、外観はモダニズム様式で殆ど装飾のないビルヂングだが、やはり戦前の建物だけあって内部には実に豊潤な装飾が施されており、圧巻がこの旧コンコースなのだ。四隅には華麗な金色タイルのモザイク画があるが、築地本願寺の設計者で、法隆寺の柱にギリシャ由来のエンタシスを見出したことでも名高い伊藤忠太博士のデザインである。地下一階や八階などにも、アールデコ調の天井飾りがよく保存されている。特に大食堂は素晴らしい。ステンドグラスの嵌まった船のような丸窓が無数に取り巻く空間で、開店以来変らぬレシピで作り続けられているライスカレーなどを味わうことが出来るのだ。まさに王道を行く「デパートの大食堂」である。
しかし文句がない訳ではない。最近の阪急は、はっきり言ってセンス悪いのだ。大食堂は昔のままの素晴らしいインテリアなのに、それより高級な特別食堂は「宝塚大劇場の大道具さんが作ったのか?」と思わせるちゃちで嘘っぽい内装だし、阪急系列である神戸電鉄の有馬温泉駅もひどいことになってしまった。昭和初期の実に味わい深いハイカラな駅舎だったのが無残に破壊され、田舎のパチンコ屋の如きけばけばしく悪趣味なものに建て替えられてしまったのだ。温泉情緒もヘッタクレもあったものではない。あれを「良い」と思うセンス、猿以下といわれても仕方なかろう。愛媛県のローカル私鉄伊予鉄道は、夏目漱石の「坊ちゃん」にも登場する明治建築、道後温泉駅を一旦解体した後、そっくりそのままの姿で、それも木造で復元している。見識の違いがここまで顕著に現れる例も珍しかろう。同業者で、しかもどちらも歴史ある古湯の駅で、両社対応の差がまるっきり逆なのであるから。そして阪急東宝グループのシンボルである宝塚少女歌劇にしても、宝塚大劇場、東京宝塚劇場とも貧相極まりないコンクリートの箱と化してしまっている。建て替え後、僕は一度も宝塚を観に行っていない。

追記T・・・馬鹿で無能で最低のセンスしかない現在の阪急グループは、実に愚かにも阪急百貨店の中でも一番美しい空間だった大食堂を2002年9月を持って閉鎖してしまい、四機残っていた骨董エレベーターも二機を見るも無残なデジタル式に取り替えてしまった。文化の破壊行為以外の何ものでもない。(二千三年正月記す)
追記U・・・残り二台のアンティークエレベーターも、二千三年秋までに何の変哲もない新型に取り替えられてしまった。本当にこのセンスを見ていると、阪急東宝グループの倒産も遠くないような気がしてくる。末期的である。(二千四年正月記す)
追記V・・・とうとう阪急百貨店の錯乱は終局に向かっているようだ。2005年初夏より、梅田本店の破壊、建て替え工事が始まってしまった。自社の文化、そして大阪の文化の破壊に他ならない。(2005年8月16日追記)

左:コンコース入口の優美な漆喰レリーフとシャンデリア。
右:自動式に改造されてはいるが、針式階数盤、籠、扉ともオリジナルが残る同店エレベーター。同型のものが四基並んでいる。

ところで、皆さんは手動式エレベーターというものをご存知だろうか? 「えっ、古代ローマのガレー船みたいに奴隷が巻き上げるの?」とかいってはいけない(笑)。現在日常的に見かけるエレベーターの殆どは、自動式エレベーターである。運転手がいなくても、利用者が一人で操作することのできるエレベーターのことだ。従って手動式とは、専従運転者がいないと動かないエレベーターのことをいう。三十代以上の方なら、行き先階の釦を押すのではなくハンドル一丁で動かすエレベーターをご記憶なのではないか? この梅田阪急のエレベーターも、二十年ほど前まではエレベーターガールがハンドル一丁で操作していた。
手動式も更に何種類かに分けられる。

@完全手動式・・・・・・各階の外扉、籠についている内扉とも手動で、操作も完全手動、というタイプである。ハンドルを右に回すと上、左に回すと下(もしくはその逆)という単純極まりない形式で、停める時には目的階の床面とエレベーター籠の床面をぴったり揃えるのにかなりの熟練を要する。扉は籠扉は蛇腹戸で、外扉は蛇腹戸かさもなくばガラス窓のついた鉄製三枚扉(うち一枚は実は戸袋で動かない)であることが多い。かつての大丸京都店の従業員用エレベーターがそうであった。現存するものとしては大阪・中之島公会堂舞台袖のものが最も凄い。籠扉、外扉とも蛇腹戸、中には裸電球一個という古色蒼然たるもので、何よりエレベーターシャフトが金網張りで外から動いている様子がよく見えるところが素晴らしい。古いギャング映画やフランス映画などに出てくるタイプのものである。大体において戦前の近代建築のエレベーターシャフトは階段の吹き抜けに設けられることが多いが、日本の場合シャフトは大抵コンクリートで固められ金網式のものは極めて珍しいのだ。
なおこのタイプでは、神戸・旧居留地の商船三井ビルには外扉が窓付き鉄製のもの、神戸・元町通の松尾ビルには両扉とも蛇腹戸のものが現役で動いている。
※大阪市立中央公会堂はこのたびの度を越した大改修により、この貴重な産業遺産たるエレベーターを動かないオブジェにしてしまった。なお現館長は居丈高で小心でケツの穴の小さい典型的な小役人根性丸出しの下品な男で、実に嫌な見下げ果てたタイプの人間であるとのこと。(二千三年二月十一日追記)

A自動着床装置付手動ドア式・・・・・・目的階の手前でハンドルスイッチをオフにすると、目的階の床面にぴったり合わせて止まるようになっているもの。完全手動式と比べると運転が格段に楽になっている。扉については完全手動式と同様である。京都・四條大橋西入ル東華菜館のエレベーターがこのタイプ。

B自動着床装置付自動ドア式・・・・・・扉の開閉まで自動式になった、手動エレベーターとしては最も進化したタイプ。蝶番のついたハンドルの握りがスイッチになっていて、それを倒すと扉が閉まるようになっているものが多い。扉は外扉は上記@Aと同じ鉄製窓付き扉で、内扉は真鍮のパイプを束ねた安全扉か鉄製窓付き二枚扉である。真鍮パイプ式のものは日本橋の高島屋東京支店(自動式に改造)や京都の祇園甲部歌舞練場(残念ながら籠、扉、階数表示板の全てが取替えられてしまい現存せず)、鉄扉のものはこの阪急梅田本店(自動式に改造)、松坂屋上野支店、三越日本橋本店などにある。

C改造自動式・・・・・・変則的なものとして、@Aから自動釦式に改造されたため、扉が手動なのに運転手なしで操作可能となっているものもある。神戸・旧居留地のチャータード銀行ビル(ノッチ式手動操作盤とボタンしき自動操作盤の両方がついている。またイギリス式の「B-G-1-2-3」という階数表記を日米式の「B-1-2-3-4」にあとから書き換えた跡も残っている。)や、大阪・天王寺区の大阪赤十字病院付属看護学校寮、京都の旧鮒鶴旅館などのものがそう。江戸川乱歩の「三角館の恐怖」に登場するのもこのタイプである。
※長らく廃墟同然で倉庫として使われていたチャータードビルだが、2002年に一階旧営業室部分にブティックとカフェレストランが入り素晴らしく美しく再生された。んが、それはいいのだが、オーナーがそれで変な色気を出し、窓のサッシとガラスを全て取り替えた上、二機残っていた手動エレベーター(一機は数十年動いていなかった)をデジタル式に取り替えるという最低のセンスの改装を行ってしまった(T_T)。

なお、手動式である限り、@〜Bとも運転手なしでは動かない。従って各階の呼出釦も、運転手への合図を送るための仕掛けであり、それを押すと自動的に籠が来るというものではない。つまり例えば三階から下に行こうと思って下の釦を押すと、籠の中でベルが鳴り、三階で下行きを呼び出しているということを表示するランプが点くのである。それを見て運転手が籠を三階まで動かす、という仕組みになっているのだ。

なお、各階にある階数盤(インジケーター)は針式が多いが、今のものとそう変わらない電光式もある。また針式は時計に似た円形、それを半分に切ったような半円形、それに針が横にスライドする長方形の三通りが見られる。
またメーカーについては、初期のものは当然に輸入品で、アメリカ製のOtisブランドやA.B.SEEブランドが多い。(二千三年二月十一日加筆)

 

右・左:阪急百貨店のアンティークエレベーターとアール・デコ調の天井レリーフ。左は地下一階、右は八階である。

 

左:“元祖デパートの大食堂”である、阪急百貨店梅田本店八階大食堂。写真は厨房と客席を区切るカウンターに嵌められている見事なステンドグラス。(かつての大食堂時代に撮影。2002年9月に大食堂としての営業は終了してしまった。本当に阪急の現首脳陣は愚昧である。二千三年正月追記)
右:窓側上部は装飾レリーフの美しい梁に沿って丸窓が連なり、全てデザインの異なるアール・デコ調のステンドグラスが嵌め込まれている。

 

 

 

以上六枚:いずれも阪急梅田駅旧コンコースのモザイク装飾。デザインは当時の権威、伊藤忠太東京帝国大学教授である。

上左:梅田阪急前から御堂筋を南下すると、国道一号線と二号線の接続点である梅田新道交叉点を過ぎ、中之島に渡る大江橋の袂にこの堂島ビルヂング(堂ビル)がある。中之島の大阪ビルジング(大ビル)とともに大正期のオフィス建築を代表する、つまり東京でいえば三菱地所により無残に破壊された丸の内ビルヂング(丸ビル)に匹敵する大オフィスビルであり、近年の改装もクラシック建築であることを意識したものになっている。賛否の分れる外観であろうが、高度成長期の改装で全くの豆腐ビルにされていたのであるから、これでもマシになったのである。しかし、この不況のせいでさくら銀行堂ビル支店が閉鎖になったことは実に惜しい。旧三井銀行の頃より、この古いオフィスビルの名称を冠した由緒正しい支店名であったのに。設計施工は竹中工務店、竣工は1923(大正12)。
上右:堂ビルのすぐ北隣にある、大阪市交通局曾根崎変電所。昭和11(1936)年、旧電気局時代に建てられたモダニズムスタイルである。当時大阪市電気局は日本で二番目の大市電網を持つとともに既に市営地下鉄も経営し、更には電気供給事業も行いと、独立採算でかなりの収益を上げている一大企業体であった。恐らくこの変電所は、地下鉄御堂筋線のために建設されたものであろう。日本最初の地下鉄である東京の銀座線は東京地下鉄道という私鉄としてスタートしたが、大阪は市電も地下鉄も最初から市営であった。なお、戦前から地下鉄を持っている都市は、この二都市のみである。
下:同変電所のアップ。近年ポップな壁画が描かれた。この写真では判らないが、壁面には右から左に旧漢字で「曾根崎變電所」と書かれている。

左:大江橋北詰、阪神高速環状線下より堂島川対岸、中之島の大阪府立中之島図書館(手前)と大阪市立中央公会堂を望む。公会堂は1918年(大正7年)に相場師岩本栄之介の寄付により岡田信一郎の設計で建てられた大ホールで、戦前はクラシックの演奏会やオペラの公演も行なわれた。我が都市探検家倶楽部の設立大会は小ホールで行なったが、手入れは悪いものの実に優美な空間である。中ホールは天井がすべてステンドグラスという素晴らしさ。現在大改修中で、来年には建築当初の姿で甦るはずである。バロックのコンサートなどにも大いに活用されるのではないかと期待している。
※追記:2002年改修工事完成、国の重要文化財にも指定されたが、改修の結果はもう最低最悪、ディズニーランドの書割のようになってしまった(-_-;)。全く何一つ評価すべきところはない。(2004年3月17日記す)
図書館は明治37(1904)年に春翠・住友吉左衛門友純(ともいと)男爵の寄贈、住友臨時工作部(日建設計の前身)即ち少壮気鋭の建築家野口孫市(技師長)と日高胖(技師)の設計で建てられた国指定重要文化財。重厚なペディメントを四本のコリント式大列柱が支える威風堂々たる玄関の見事さは、日本の近代建築でも随一であろう。内部も壮麗で、高いドーム天井を頂く中央ホールに入ると誰しも息を呑む。

右:御堂筋を挟み大阪市庁と相対する、日本銀行大阪支店。代々理事(つまり役員)が支店長を勤める日銀の筆頭支店である。この建物は日本橋の日銀本店と同じく明治期に辰野金吾博士の設計で建てられたルネッサンス様式の館(竣工は明治36年、設計は辰野金吾、葛西万司長野宇平治)で、取り壊しの計画も出たが、結局後方に新ビルを建て、この本館は内部の建て直し(外壁保存)で景観は守られた(内部もかなり忠実に復元されている由)。増補⇒<増補>

かつては上記の三棟の他、図書館と日銀の間の市庁舎も瀟洒な鐘楼を高く掲げたそれは素晴らしい大正建築であった。つまり中之島の東部は、赤煉瓦や石造の近代洋風建築が四つ並んで建ち、あたかもパリのシテ島の如き麗しい景観を形作っていたのだ。ところが美的センスゼロでとにかく無駄な公共事業に血道を上げることしか能のない官僚機構によって、現在の実に醜怪な建物に建て替えられてしまったのだ。嘆かわしいことこの上ない。市の要請により旧本館を残した日銀がかなり激怒したという話が伝わるが、当然のことといえよう。しかもこの醜悪な現市庁舎は、以前の敷地よりかなり図書館の方にはみ出して建っている。図書館の優美な玄関、洋館としては東洋屈指の美しさを誇る玄関がそのために正面からは見通せなくなってしまっている。ひどいとしか言いようがない。

左:淀屋橋から土佐堀川(旧淀川)下流、即ち西側を見る。正面の美しい石造橋は可動堰である錦橋、高層ビルは大同生命館、その手前の黄色っぽい近代洋風建築が住友財閥の本拠地、住友本館である。右側、高速道路のすぐ向こうのビルはフェスティバルホール、リサイタルホール、リーガグランドホテルなどが入っている新朝日ビル、その奥は昭和初期のモダニズム建築の代表作である、朝日新聞大阪本社(設計は竹中工務店、竣工は昭和6年)。なお朝日新聞社は西部、大阪、名古屋、東京の4本社を擁するが、商法上の正式な本社はこの大阪本社であり、東京“本社”など法的にはただの一支店に過ぎない。
右:淀屋橋南詰東側角にある、無名の雑居ビル。垂直線を協調したゼセッション風の幾何学的な様式からして、大正の終りから昭和の初めにかけての建物であろう。エレベーターは箱も扉も現代のものに替えられているが、上部壁面に半円形針式階数盤が残されている。(2002年春残念ながら破壊された)

上:住友本館・旧住友銀行本店(現三井住友銀行大阪本店)内、営業室。この建物の竣工は昭和5(1930)年、設計は長谷部鋭吉・竹腰健造である。僕は“けち友”こと住友吉左衛門男爵家の財閥が大嫌いなのだが、ここに自由に出入りしたいが為にこの本店営業部に口座を持っている。たとえ残高100円でも口座さえあれば「ワシは客やぞぉ!!」とでかい面して入ることが出来るからである(笑)。実際、バブル期に近代洋風建築、和風建築を問わず次から次へと地上げして破壊しまくり、日本の街並み、伝統的景観の破壊に多大なる貢献を果したこの銀行は、超悪徳銭の亡者、慾得づくで血も涙もない守銭奴そのもの、鬼畜外道の高利貸という印象すら振りまいていたが、本店の建物はかように素晴らしい。まだ住友財閥に見識や品格があった時代の建物なのだ。大正末から昭和の初めにかけ、長谷部鋭吉を中心に当時の建築界の俊英を集めていたことで名高い住友臨時工作部の作品で、財閥の本拠地たるに相応しい実に堂々たる石積みの大廈である。外観は極めてストイックで、雨樋のガーゴイルの他は正面玄関、東西の脇玄関に威風堂々たるイオニア式オーダーを持つ以外、殆ど装飾はない。しかし内部の営業室は、かくの如く豪華絢爛たる豊潤な空間で、イタリア産大理石製のコリント式オーダーがずらっと並ぶ様は壮観の一言。今や大手銀行の本店でこれだけの規模と内容を持つものはここだけしかない。住友も船場支店初め素晴らしい支店建築のかなりを破壊してきたが、この本店だけは建て替えず守る意志を固めているようだ。一階には他に外国為替部もあり、そちらはステンドグラス張りの天井がこれまた美麗である。
中:同じく三井住友銀行大阪本店営業部内。2001年3月31日までは住友銀行本店であったのだが、住友銀行により三井銀行が救済合併され三井住友銀行(SMBC)が誕生したことにより、4月1日より三井住友銀行大阪本店となっている。
下:同上。

左:三井住友銀行大阪本店。土佐堀通より正面玄関付近を見る。2000年3月、まだ住友銀行本店であった頃の撮影である。
右:正面玄関の見事な天井装飾を見上げる。

左:正面玄関上の旗竿。見事なブロンズ細工である。
右:雨樋と、それに水を吐き出すガーゴイル。

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