骨董建築写真館
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旧作補遺大阪篇〜其ノ弐

 

左・右:旧作補遺大阪篇の第二篇は2002年撮影分から。まずはこれ、旧川崎貯蓄銀行大阪支店、現「堺筋倶楽部」である。12月11日にコレギウム・ムジクム・テレマンのディナー付古楽コンサートに行った時のもの。昭和6(1931)年に川崎貯蓄銀行建築課設計にて竣工、銀行時代の最後は京都共栄銀行大阪支店として使用されていた。同行の破綻でどうなることかと危惧していたのだが、レストランとして見事に再生されている(^o^)丿


 

左:旧電話交換室。現在は個室として使われているが、こういう歴史を感じさせる小道具をそのまま使っているところ、センスがいいし見識も高い。昔のインテリアをまったく残さず大正時代の名建築を台無しにしてしまった「シェ・ワダ」とはえらい違いである。
右:一階、旧銀行営業室。吹き抜けの見事な空間に古風な扇風機がマッチしている。


上:階段室の吹き抜けを見下ろす。


上:ディナーコンサートが行われた三階大広間の天井装飾と照明器具。


 

左:堺筋倶楽部の昼間の姿。ちょっと遡って2002年1月16日の撮影である。
右:以下同日。堺筋倶楽部の向かい側にある、旧第一勧業銀行南船場支店跡。無残に柱とメダイオンのみが残されている。こんな残し方は殆ど無意味である。元の建物は西村好時の設計で大正15(1926)年に竣工、悪徳守銭奴銀行の手により1992年に破壊された。


 

左:堺筋倶楽部の内部空間。
右:堺筋倶楽部の玄関付近を内側から見たところ。

 

左:窓を内側から見る。ランチを食べたときなので外が明るい。窓枠もオリジナルがそのまま使われている。
右:金庫がワイン庫になっている。リノベーションされた銀行建築によくある、金庫の再活用の好例である。


上:めちゃくちゃ高くて気持ちのいい天井。装飾も美しい。


 

左:玄関。
右:玄関からファサードを見上げる。


 

左:故・浪花座。二千三年一月を持って消滅してしまった(T_T)。元禄時代から、江戸三座・浪花(道頓堀)五座と呼ばれていた弁天座・朝日座・角座・中座・浪花座(竹本座)はもう一つも残っていない。ただし角座跡地のビルに映画館「B1角座」が復活し、浪花座跡地には寄席「ゑびす座」が復活しているので、名前的には道頓堀五座の内二つは残っていることにはなる(ゑびす座も浪花座も竹本座の後進)。なお、この写真の浪花座は戦後の再建ながら古典様式建築であった。
右:中座亡き後、大阪における歌舞伎の中心的劇場となっている大阪松竹座。元々は映画館である。大正12(1923)年に大林組にあって劇場建築の名手として名高い木村得三郎の設計で建てられた、ネオ・ルネサンス様式の大楼でだが、当時は映画が娯楽の王様だった時代。こういったアメリカンスタイルの華麗な映画館はムービーパレスと呼ばれ娯楽の殿堂だった。この劇場は主に洋画封切館として使用され、よってモボ、モガが集うハイカラなところで、また新たに勃興してきた都市インテリ層の溜まり場となっていったのである。若き日の淀川長治氏がここで松竹の雑誌編集をしていたことでも有名。モダン都市大阪にあって、その都市文化を発信する最先端の場所だった訳だ。映画のほか、大阪松竹歌劇団(レビュー)などの講演でも知られている。映画館としての使命は1996年に終え、外壁保存による改築を経て、1997年より歌舞伎やミュージカル用の劇場として再スタートを切った。なお、僕は学生時代、ミロシュ・フォアマン監督のアカデミー賞受賞映画、「アマデウス」の封切上映をここで観たことがある。内装もオペラハウスのように華麗なこの劇場で観るに相応しい作品であった。


上:松竹座ファサードを見上げる。


 

左:松竹座正面には左右対で、銅像の乗ったコリント式の円柱が立っている。前面テラコッタ貼りである。
右:アメリカ村で見つけた物件。かなり新しいビルだが、コーナーに曲面の窓を配置し、ほかの窓も上げ下げ式の縦長窓にするなど、戦前のモダニズムスタイルを髣髴とさせるデザインでまとめられている。


 

左:アメリカ村にて。大きな建物が撤去され駐車場になったため、隣接していた木造店舗群の裏側が丸見えになっている。
右:これは新世界・じゃんじゃん横丁の裏側。画面左隅のブロック塀より左がスパワールドの敷地になる。この新世界の写真からは2002年1月22日の撮影。

上:大阪市立博物館第六章でも紹介しているが、竣工は1936年、設計は大阪市建築課(伊藤正文・海上静一)で、住友男爵家の旧邸址である。岡崎の京都市美術館、上野の東京都立美術館と並ぶ公立美術館の老舗であり、第一級の展覧会も多い。高畑勲監督の傑作アニメ映画「じゃりン子チエ」にもそっくりそのままの形で登場した。美術館裏手の慶沢園も住友邸時代の庭園である。


上:美術館正面ステンドグラスを玄関ホールの吹き抜けより見上げる。回廊のアーチがイスラム風である。


上:美術館の最寄り駅、地下鉄動物園前駅には御堂筋線と堺筋線が乗り入れているが、そのうち御堂筋線のホームには様々な動物を描いたタイル壁画が全面に施されている。開通当初の作品らしいので、戦前物件である。(以上2002年1月22日撮影)


 

左:新世界の新名所として鳴り物入りでスタートしたものの、大赤字でどうにもならなくなっている市営遊園地「フェスティバルゲート」のエレベータ。インジケータは古風な半円時計式が採用されている。
右:さすが庶民の街新世界。このように百円均一食堂まである。


  

左:おのぼりさんの記念撮影定番スポット、ずぼらや本店前から通天閣を望む交差点。
右:これも第6章でも紹介しているが、この界隈はとにかく物価が安い。


 

左:通天閣より見下ろす、新世界公楽劇場。旧名である新世界座が屋根いっぱいに大書きされている。資料によると1947年築と戦後物件だが、完全な様式建築だし、空襲で焼け残った外壁を利用しての再建なども考えられる。
※新世界公樂劇場は2005年度末をもって閉館してしまったとのこと(T_T)⇒<増補>
右:通天閣の楼上に祀られている、新世界のシンボルにして守護神、ビリケンさん。なお雅やかで上品な関西語文化圏では、神仏に対しても「様」などという田舎言葉は使わず全て「さん」で呼ぶ。えべっさん、だいぶっつぁん、八幡さん、観音さん、お稲荷さん、といった具合である。

 

左:通天閣二階より見下ろす隣のビル。下層階はパチンコ屋や映画館、上層は集合住宅なのだが、ベランダが結構ものすごいことになっている。住人に人から見える場所だという意識が皆無らしい。(以上2002年3月24日撮影)
右:ここから、無能傲慢な大阪市役所の低劣極まりない再開発により街並みがどんどん破壊されている阿倍野地区の、もういつ壊されるか判らない貴重な街並みの写真を紹介する。旭町、洋食の老舗「マルヨシ」の界隈である。2002年5月5日撮影。

 

左:邪悪にして低能愚劣なる大阪市役所による再開発の魔手がすぐそこまで迫っている路地。アニメ「アベノ橋魔法☆商店街」の舞台そのままの光景である。
右:迷路のような路地の奥に突然出現する公衆便所。


 

左:路地より旭通商店街を望む。
右:阿倍野筋に通じる路地。赤い暖簾は老舗餃子チェーン店「aa」である。


 

左:路地は複雑に交差している。「みんみん」の暖簾が右側にあるが、別の面である。
右:これが有名なグリル「マルヨシ」。「アベノ橋魔法☆商店街」では「ペリカン」という名前で登場していた。


 

左:路地にはこんなに狭くて薄暗いところもある。
右:「マルヨシ」。カレーからエスカルゴ、(かつては子牛の脳のフライもあった)まで、手ごろな値段で本格的な味が楽しめる。


 

左:「マルヨシ」正面。
右:ここからは場所が変わる。おそらく日本有数のラビリンスであろう、鶴橋高架下商店街である。これは夜の撮影なので店舗は殆どしまっているが、韓国・朝鮮半島系の焦点が多いのが特徴で、食材も非常に珍しいものがとても安価に入手できる。伯爵邸甲麓庵で鍋会をする時には大抵買出しにいくのだ(^_^)v。闇市時代の雰囲気を今なお濃厚に留めている。(2002年6月16日撮影)→鶴橋高架下は更に第62章で紹介


上:映画「夜を賭けて」の時代からそのままであろうと思われる、近鉄鶴橋駅東乗り場の案内看板。

 

左:高架下から、猪飼野方面へ南下するアーケード。これは市道なのでまだしも道幅がある。
右:建物の隙間のような路地から裏手に回ってみると、木造三階建ての複雑な建物だったりする。


上:鶴橋の商店街では二つほど、古いタイプのかねてつのてっちゃん看板に出会える。


 

左:鶴橋北之町二丁目二百三番地、今はない古い地名が残されている。
右:鶴橋署も今はない。左側の琺瑯標章、「遊藝稼人押賣寄附一切御断り」と書かれている。


上:上の二枚の写真と同じ建物の正面には、古い掲示板が残されている。


上:商店街に面して、装飾の美しい古風なアパートがある。中は木造二階建て、古色蒼然としていて、中庭もある。


 

左:同じアパートの入口に貼られた町名表示板。旧町名のままである。
右:商店街から少し路地に入ったところにある、素晴らしいアールデコ銭湯「鶴橋温泉」。これは側面から見たところ。

上:狭い道に面しているので正面全景が撮りにくいが、これが鶴橋温泉のファサードである。二階右端の丸窓、撮影当時(鶴橋篇は2002年6月16日)もステンドグラスがぼろぼろになっていたが、現在ではベニヤ板でふさがれている。


 

左:暖簾をくぐって上り口正面に、このように見事なステンドグラスとガラスタイルモザイクがある。ステンドグラスの向こうが番台である。なお、左側が男湯。
右:モザイクのアップ。扉がアルミサッシに換えられているのがちょっと残念だが、花も飾られて清潔な風呂屋である。


 

左:ステンドグラスのアップ。ちょっとひびが入っているのが惜しまれる。
右:玄関天井の中心飾り。今は何もついていないが、本来はここに照明がつくわけである。


 

左:割れてしまっている二階のステンドグラス。風呂上りには地元中小メーカー製の清涼飲料水を飲むのが雰囲気である。なぜだか○○鉱泉という名前の会社が多い。なお、生野区はいまだに非常にたくさんの銭湯が現役で頑張っているところで、戦前の名建築もここだけではない。参照⇒<増補>
右:鶴橋温泉のすぐ隣も、昭和初期に建てられたであろう、モダニズムスタイルの鉄筋ビルヂングを意識したデザインの木造アパートメント『吉田荘』が建っている。撮影時にはまだ住人がいたが、2005年頃に無人となって閉鎖されてしまった。


 

左:鶴橋温泉真正面の路地の置くより、鶴橋温泉を撮影。煙突が見える。
商店街を更に南下、都市計画道路を渡り、アーケードが途切れたところにある民家。明らかに戦前物件であるが、二階の窓には驚かされる。どうやらそんな古いテープではないようだが、まるで空襲に備えていた頃のもののように見えるのだ。


 

左:大阪のど真ん中にある東京庵。ラーメン、洋食もあるらしい。一度入ってみたいのだが、まだ入ったことがない。
右:つい最近まで東京庵の軒先を飾っていたレトロな照明器具。先日(2004年11月))通りがかったらなんと盗まれていた!! 許しがたい。京都にこういう照明ばかり扱っている非常にタチの悪いぼったくりガラクタ骨董商「タチバナ商会」があるが、まさか…。2004年7月12日の日記参照⇒<増補>

 

左:御幸森天神宮(珍しく天満宮ではない)で見つけた、旧漢字の石柱。猪飼野青年團と彫られている。疎開道路に面したこの神社が、コリアタウンのメインストリート、御幸通商店街の西の入口である。
右:御幸通商店街にて。この界隈、表通りにもまだまだ戦前物件がたくさん残っていて、景観としての美しさが保たれている。電線とは直角に、家々の軒先からワイヤ線が伸びているのに注目。


 

左:御幸通商店街。珍しくあまり人通りがないところを撮っているが、相当にぎわっている商店街である。上空のワイヤ線がすごい。
右:さて、そのワイヤ線の招待は、これである。アーケードよりもっとレトロな、日除けテントが現役で使われているのだ。


上:暗くなってからなのでよく判らないがσ(^◇^;)、御幸通商店街の中央付近にある朝鮮式楼門。近年コリアタウンとしての整備が進められている。


 

左:この界隈、御幸通以外でもハングル交じりの看板を当り前に見かけることができる。
右:最近、韓国仏教の寺院も増えてきた。普通の民家や商店を改装したところが多い。シャーマンもいるらしい。


 

左:これはまた鶴橋高架下に戻ってきての撮影。とてもお洒落なお店である。
右:いきなり場所が飛ぶが、とにかく古い写真を全部使い切ってしまいたいので、ご容赦願いたい。これは2002年七夕の撮影。この時期の日記がないので何をしていたかは不明だが、心斎橋界隈を散策したようだ。この物件はおそらく堺筋の一本か二本西側の筋に面した、小規模な近代洋風建築である。この界隈、ところどころまだこういう建物が残っている。


 

左・右:僕の大好きな洋食屋、「明治軒」の真向かいにある大丸百貨店心斎橋本店東別館。前面道路が狭いので全景写真を撮るのがむずかしい。最初から大丸の別館事務所棟として建てられたビルなので元々が松坂屋百貨店大阪店だった高島屋百貨店難波本店東別館と比べたら小さいが、ヴォーリズ設計の端正な建築である。長らく事務所や倉庫として使われており、大丸神戸店の南別館群のように建築を生かした客用施設にすればいいのに、もったいないと思っていたら、この頃から一階のみだが店舗として活用されるようになった。J.M.ウェストンという高級靴店になっている。


上:同上。テラコッタで大丸の紋章が象られている。


 

左:今は亡き、十合(そごう)百貨店心斎橋本店。最後の頃の勇姿である。大阪の名門呉服屋系百貨店の一つ、そごうは創業者一族ですらないのに企業を私物化し私服を肥やした破廉恥漢、明治のゴミ、水島広雄の無能愚劣な放漫経営によって倒産させられてしまったが、そのあと更に不幸なことに、西武セゾングループ、つまり邪悪で品性下劣な堤商店から送り込まれた番頭、武蔵野の肥溜めデパートの田吾作である和田繁明という知能拙劣な山猿の火事場泥棒行為により無茶苦茶にされてしまっている。山猿にかかれば村野藤吾の傑作もただの老朽ビル、なんら価値を省みられることもなく破壊されてしまったのだ。憤懣やるかたないとはこのことだ。
右;2002年9月29日に一枚だけ写真を撮っている。これは西成区山王地区、実に味わい深い下町にある古い商家建築である。2004年12月25日に前を通りがかった時には、正面部分を全面的に隠す形で補強がされていた。

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