骨董建築写真館 京都篇・其ノ八(紅葉狩と大学病院)
骨董建築写真館

京都篇・其ノ八(紅葉狩と大學病院)

上:写真というのはどんどん溜まるので、旧作を使って第55章を作成する。これは2002年11月28日、風太といった紅葉狩りの時の撮影。東福寺の紅葉である。


上:東福寺、有名な通天橋を望む。東福寺は京都、東山の麓にあって、境内は西から東にかなり急な斜面となっている。洗玉潤という谷川が東から西に向かって流れており、下流から臥雲橋、有名な通天橋、そして偃月橋と三つの橋が架かっているのだ。これは臥雲橋から上流を見たところ。


上:臥雲橋から通天橋を見る。右端のおっさん、滅茶苦茶鬱陶しい傍若無人な素人カメラマンであった。他人のファインダーの中に平気で入ってくる無神経なアマチュアカメラマンにろくな写真が撮れるわけもないのだが、写真オタクにはオタクの特性として、こういう輩が多い。


上:東福寺の紅葉。既にピークは過ぎていたのだが、非常に美しかった。


 

左:偃月橋から洗玉潤を見下ろす。実は沢はコンクリートで固められており、水も流れていない。かなり興ざめだが、禅宗(臨済宗東福寺派大本山)なんて文化不毛の宗派の寺なので仕方ない。むさ苦しいハゲオヤジに棒でどつかれて悦ぶ宗教なんて、全く美意識がどうかしている。大体「質実剛健」など「文化不毛」と同義語である。
右:同じく偃月橋から塔中を見る。これは即宗院だったか。


 

左:偃月橋を渡ると龍吟庵、即宗院と二つの塔中があった。どちらも有料だったので、安い方の即宗院に入った。
右:即宗院の苔に散りばう紅葉。


 

左・右:いずれも即宗院の庭。


上:同上。


 

左・右:同上。裏手は更に登ると、幕末の薩摩藩兵の慰霊碑などがあった。山麓なのでもうあとは山かと思っていたら、更に住宅地があって吃驚。


上:もう一度臥雲橋から通天橋を見る。


 

左:東福寺の境内から出て、東山の麓に沿って北上する。これは東福寺近くの別のお寺。
右:赤煉瓦製の古風な塀のある民家。


上:かなり改造されているが、洋館つきの棟割長屋があった。


上:京都第二赤十字病院を裏手から眺める。戦前物件と思しきモダニズムスタイルの病棟があった。

 

左:赤十字病院から更に北上したところにあった個人病院の表示。「五時ごろ」とはまた随分アバウトな医者である。
右:逆光で非常に判りにくいが(^_^;)、洋館と蔵を持つかなりの規模の個人住宅。戦前物件である。


上:蔵の洋館から東へ、つまり山に向かって住宅地を登ると、行き止まりの様相。引き返す地点にあった洋館作りのアパート的建物。周りがすっかり更地だったし、もう現存しないかも。


 

左:これは東大路沿いだろうか、なんかいい名前の大衆中華料理店があった。
右:かなり薄暗くなってきたが、これは重要文化財建築である京都国立博物館。後日撮ったもっと鮮明な写真もあるが、とりあえずこの日の記録として。片山東熊博士の設計で明治28年(1895)に建てられたネオ・バロック様式の宮殿建築である。詳細は『京都篇・其ノ拾』の五ページ目へ⇒<増補>


 

左:旧京都帝室博物館。
右:僕は平気だったのだが、風太がかなりくたびれてきたので東山七條から市バスに乗り、百万遍で降りる。そこから今出川通の一筋北の通りを出町柳方面に歩くと、途中の餅屋兼食堂(京都には多い)の屋号が三高餅であった。教養人には説明要らないだろうが、三高とは旧制第三高等学校、今の京大教養課程のことである。


 

左:鴨川を渡り、出町商店街に入る。「トマトからのお願い」が可愛かった。
右:そしてわが母校、同志社大学に至る。これは重要文化財、クラーク記念館。お雇い外国人として著名なドイツ人建築家リヒャルト・ゼールの手になるドイツ・ゴシック様式の傑作で1894(明治27)年の竣工。なお同志社では偶然にもEVE祭の最中であった。関西の学園祭のとりを締めくくる祭である。


 

左:すごく暗いが、これは重要文化財のハリス理科学館。1890(明治23)年にA.N.ハンセルの設計で建てられたヴィクトリアン・ゴシック様式の校舎である。
右:わが母校は基督教主義(プロテスタント)の学校なので、もちろんのこと毎年この季節はクリスマスツリーが美しい。

 

左:ここからは2003年の写真になる。これは二月十一日に東京から古式エレベーターマニア仲間である杣邊さんが上洛してきた時のもの。京大病院の南側に隣接する老舗眼鏡屋、吉川眼鏡店の看板である。浮世絵に出てくるような古風な眼鏡。
右:同じく吉川眼鏡店の看板。左の眼鏡と同じような、両耳に紐でかける大久保彦左衛門のような眼鏡のレンズの部分に、実際にギヤマンが嵌められている。


上:吉川眼鏡店全景。このように、町家に洋館が付設したハイカラな作りの構えである。


上:吉川眼鏡店。洋館と和舘との繋ぎ目部分には丸窓もある。大正建築であろう。


 

左・右:二月の冷たい雨の中、この日の第一の目的地である京都帝國大學醫學部付屬病院に入る。病棟はすっかりつまらない現代建築に建替えられてしまっているが、裏側には研究室などとして、旧帝大時代の建物がまだまだ残っている。


 

左:上段右のビル、明らかに戦前物件だが、入口に古い呼鈴の押釦が残っていて、しかも埃だらけの数珠がかけられていた。この汚れ方、相当な歳月このままなのだろう。病院なだけに、非常にいい味わいであった。
右:この麗しいモダニズム建築が旧産婦人科病棟。現在は放射線関係の実験棟になっているのでIDカードがなければ出入できないが、何とか内部の撮影にも成功した。以前は自由に出入できたので、タイル張りの柱が林立するシュールな屋上にも昇ったことがあるのだが。


上:旧産婦人科病棟の正面玄関。庇の曲線、タイル張りの柱、丸窓など、全てがお洒落で美しい。二階の曲線を描く連続ガラス窓もこの時代の建築の特徴。痺れる。この時代のモダニズムスタイルの建築は既に様式主義とは決別しようとしているのだが、それでもなお、実用一点張りの現代建築には見られない美意識と遊び心がある。


 

左:いよいよ内部に入る。一階廊下突き当りには、なんとオットー・ヴァーグナーばりの、金と紺との市松模様のタイル張り装飾を背景に黄金の裸婦像が立っている。世紀末ウィーンを思わせる装飾である。
右:裸婦像の両脇にある照明器具。和のテイストも感じられるデザインである。

上:玄関を入ってすぐ、エレベーターホールである。これを見にきたのである!! 大阪製鎖所製の手動ドア、自動駆動式、時計式インジケーターを持つ素晴らしい古式エレベーターが二台とも現役で残されている。これは玄関扉の硝子越しに撮影したもの。同社の後身、新日本機械製鎖株式会社のウェブサイトによると、大阪製鎖所は1935(昭和10)年には大阪製鎖造機と商号変更しているので、この建物はそれ以前のものであろう。
エレベータについてはこういうサイトもある⇒<増補>


上:時計式インジケーターのアップ。このように、壁面に直接貼られる形式である。


 

左:階段室の造形も美しい。
右:古式エレベータのアップ。インジケータの下の丸いランプは、エレベータの上行き下行きを点燈によって知らせるもの。


 

左:古式エレベータの外扉を開ける杣邊さん。見えている蛇腹(伸縮扉)は籠扉である。
右:中に入って操作盤を撮影。当初から自動駆動だったようだ。


上:「株式会社大阪製鎖所・オーシーエレベーター」と書かれた銘盤。


 

左:外扉、籠扉とも閉めた状態で、籠内から撮影。
右:もう一台のエレベーターの銘盤。当然同じものである。モダニズムスタイルのビルと、朝鮮半島を含む日本地図のデザインに時代が反映されている。


上:エレベーターの敷居。手前が籠外で、僕の爪先と傘が写っている。籠側に銘盤がある。

 

左:旧産婦人科病棟を裏手から見る。全体に無装飾なインターナショナルスタイルだが、丸窓が時代を反映している。
右:同じく旧産婦人科病棟。左端の部分の内部は階段教室である。外付け階段の造形が美しい。


上:同・階段教室の窓。アルミサッシなどに取り替えられたりせず、オリジナルのスチールサッシがそのまま残っている。


上:冷たい雨に煙る産婦人科病棟。映画「ドグラマグラ」を思わせる光景であった。


 

左:旧産婦人科病棟裏手、近衛通側に、半ば撃ち捨てられたように「實驗動物供養碑」があった。
右:近衛通を西進する。京都市中にまだまだ沢山残っている仁丹製町名表示板。昭和初期のものである。


上:荒神橋を渡って、次の目的地、京都府立医科大学付属病院に至る。旧制京都府立医科専門学校である。これはゴミ捨て場。外部から簡単に出入できる場所に恐ろしげなものがあったσ(^◇^;)


上:左隣に醜悪極まりない新病棟が建っているが、この美しい正統ネオ・ゴシック様式の建物が、この日の第二の目的地、府立医大旧図書館である。1929(昭和四)年に京都府営繕課の設計(技師名は不明)で建てられた本格的な洋式建築なのだが、現在はかなり荒れ放題でもったいない使われ方である。


 

左:雨粒が光っているが、旧図書館の細部。窓が全てゴシックアーチで、スクラッチタイルも美しい。
右:オリジナルの照明器具が残っている玄関の天井。

 

左:階段室。
右:一応使用されている建物であって廃墟ではないのだが、使われていない部屋は悲惨な状態である。


上:大きな階段教室も完全に物置というか、ゴミ捨て場に近い状態である。


 

左:とても古風な消火栓。右書きである。
右:その扉を開けたところ。


 

左:ここの目玉はこれ。元々は外扉、籠扉とも伸縮扉(蛇腹戸)の古式エレベーターがあったのだ。今回の訪問では、扉部分がベニヤ板らしきもので塞がれ、その上から白く塗られた状態で残っていた。パイプが二本通っているが、その下に半円形時計式インジケーターがあって、針が左斜め下を指しているのが判る。これは二階の状態。
右:これは三階のエレベーターホール。インジケーターが塗られずに残っている。針はほぼ同じ位置を指している。


 

左:一階、中央廊下の突き当たり左側にエレベーターがある。
右:一階のインジケーター。籠は地下一階より下、つまりシャフトの底に落ちている状態のようだ。


 

左:三階から屋上に昇る階段は狭く、木製であった。
右:屋上から階段を見下ろす。このようにここも物置と化しており、非常に通りにくい。しかも鳩の糞だらけであった。


上:屋上にて。

上:旧図書館玄関ホールの装飾。鉄製か銅製だろうか? 繊細な透かしの奥にはアール・デコ調のステンドグラスが。


上:正面玄関ステンドグラスを内側から見る。所々割れているのがわかる。実にもったいない。


 

左:ステンドグラスのアップ。
右:構内にもう一棟現存する戦前の近代洋風建築。殆ど使用されていないようだが、実に美しい。資料が見当たらないので詳細不明だが、所謂「ライト式」の建築である。


上:同じ建物。雨の激しく降る寒い一日であった。


上:同じフォルダに入っていたが、これは快晴だし、明らかに後日の撮影であろう。岡崎公園の京都市美術館。帝冠様式の傑作である。京都篇 其ノ九にその他の写真有。

トップに戻る    京都篇・其ノ九