骨董建築写真館 京都篇・其ノ九
骨董建築写真館

京都篇・其ノ九

久しぶりに「旧作補遺」ではない京都篇である。作成は二千五年一月で、使用する写真は二千四年一月以降、比較的最近に撮影したもので構成する。

上:まずは一月二十五日の北野天満宮。この日はなぜだか女性ばかりを引き連れて北野天満宮の巨大蚤の市「初天神」を訪れ、そのあと旧明倫小学校で武田五一展を見たのである。


 

左:天神さん境内のマンホール。右書きで「京都消防」「貯水そう」と書いてある。右書きにするなら槽ぐらい漢字にして欲しいものだ。
右:学生時代何度か行ったことがあるが、現在は廃業しているらしい(T_T)、千本通の古い古い玉突き屋さん。とても渋い雰囲気だったのだが。「ロー式」とは四つ玉ではなくローテーション式の台である、という意味。


 

左:同じビリヤード場の看板。
右:すっかり日が落ちていてはっきりとは撮れなかったが、これが全景。


 

左:武田五一展の会場となっていた、京都芸術センター(旧明倫小学校)の正面玄関。
右:玄関脇のステンドグラス。窓の両面が屋外というわりと珍しい設置の仕方である。


上:玄関ホールの漆喰装飾。シャンデリアは新しいようだ。


 

左:玄関ホールの大時計。
右:中央階段の親柱。


 

左:京都芸術センターの階段。中央に線が引いてあるのが如何にも小学校らしい。
右:これは後日(2月18日)、風太の下宿探しに付き合ったときに京都市営地下鉄烏丸線の車内で見つけた広告。なんとまぁ、ドライブスルーの質屋さんなんだそう。

 

左:松ヶ崎駅から北大路まで下がって不動産屋で契約してから、また疎水分線を目指して北上する。北大路から入ってすぐのところで見つけたハーフチンバーの洋舘。でも戦後の物件かもしれない。
右:疎水に近づくにつれ、このような豪邸が増えてくる。樹木が鬱蒼としていて建物がよく見えないが、本格的な数奇屋建築である。


上:疎水分線。この両岸が非常に阪神間チック邸宅街なのである。


上:疎水にはこのように「川の十字路」がある。よって疎水とはいえ、下流に行くに従って琵琶湖からの水は少なくなり、別水系からの水が主流を占めるようになってくるのだ。この写真の場合、奥から流れてくるのが琵琶湖よりの疎水なので、その大半は右に流れ、手前の疎水下流へくる水の大半は左手からの泉川(高野川水系)の水になっている。この泉川の下流が糺の森に入って、下鴨神社の御手洗川になるのである。


一部に三角屋根の洋舘を附設する、典型的な昭和初期の和風住宅。洋舘前にはエキゾチックな木々が植えられているのも定石である。


 

左・右:これらは和風住宅に洋舘を引っ付けたというよりは、かなり洋風の要素が入り込み渾然一体となった和風住宅。やはり昭和戦前期のものだろう。


上:一軒一軒がかなりの規模でありながら棟続きになっている数奇屋住宅群。


上:下鴨の高級住宅街でも一際目立っていた洋舘付数奇屋邸宅、I邸。

 

左:I邸の門灯。
右:南側に正面ファサードを向けるI邸の洋舘部を東側側面から見る。右下端に更に突き出た屋根があるが、これも洋室でステンドグラス窓である。


上:その、ステンドグラス窓の洋間。この部分だけ塀がなく、部屋が直接街路に面している。


上:ステンドグラスのアップ。非常に清楚なデザインである。サッシは木製。


上:洋舘二階建て部分の一階の出窓の天窓もステンドグラスである。右端の軒が上二枚の街路に接した平屋洋室部分。


上:I邸洋舘部の正面(南側)ファサード二階部分を門付近より撮影。


 

左・右:これは洋舘付数奇屋でも和洋渾然でもない、かなりちゃんとした洋舘住宅。


上:玄関部分が二階まで洋舘造りになっている数奇屋住宅。隣家も殆ど同じ様式なので、昭和初期の建売分譲住宅と思われる。


 

左:疎水分線が斜めに南下し、北大路と交差する近くで見つけたコンクリート製の地蔵の祠。
右:疎水分線は北東から南西へ緩やかに南下、北大路より南に出て、その後鴨川をくぐり紫明通となる。これは北大路より南側に入ったところにある、屋根裏三階付の洋舘。こちら側も北大路北側と同じく一歩裏手に入るとこのように閑静なお屋敷街になる。そのまま鴨川沿いも邸宅街だが、かつては望楼付の豪邸が多かったのに、随分と減った。

上:疎水分線の畔にて。ただし北大路より南のこの辺りでは疎水は暗渠化されていて、その上がグリーンベルトになっている。二軒並んだ昭和戦前期らしい住宅。洋舘というよりは洋風住宅、といった感じである。


 

左:上の写真の左の家の二階。丸窓はステンドグラスではなく色ガラスを桟に嵌めたもの。
右:同じ家。玄関脇に犬の噴水があった。


 

左:タイルの貼り方が昭和レトロとでもいえばよいのか、とてもお洒落な感じの玄関である。この左側に犬の噴水があるのだ。
右:その右隣、ちょっとバンガロー風の洋風住宅。昭和の初めにはさぞモダンだったことだろう。ベレー帽をかぶった画家とかが住んでそうな雰囲気である。


上:青い瓦の三角屋根の附設洋舘を持つ、典型的な文化住宅。
※「文化住宅」の意味の変遷についてはこちらを参照のこと⇒<増補>


 

左:鴨川近くにある、洋風住宅。塀は煉瓦積みスクラッチタイル貼のようだ。
右:北大路近くまで行くと、少し庶民的な佇まいになる。これは洋舘造りの理髪店。


理髪店前から北大路の一本南の通を見る。手前が西、奥が東である。このようにちょっと洋風の軒蛇腹、縦長窓を持つ棟割長屋になっている。


上:これもその界隈にある、洋風の窓を持つ住宅建築。ごくわずかの前庭以外は敷地一杯に建てられているが、結構規模は大きい。


 

左:北大路から狭い路地に入ったところにある、古風なお風呂屋さん。「本日あります」というのは京都の銭湯独特の言い回しで、営業日であるという意味。
右:黄昏時となり、ネオンに灯が点った。「千と千尋の神隠し」みたいでちょっと幻想的な光景であった。


上:北大路橋東詰北側にある、和風意匠の洋舘。ただし所謂看板建築で、裏側には瓦屋根が見えている。

上:北大路橋を渡る。北大路橋から上流を見る景色、京都で一番好きなのだが、この時間はもうかなり薄暗くなっていた。右側の森は植物園である。


 

左・右:北大路の商店街から狭い市道をちょっと北に入ったところに、規模の大きな、洋風の玄関を持つ和風建築がある。今は天理教の教会として使われているのだが、元はアパートだったのではなかろうか? 日記によるとこのあと食事をして、更に出町柳まで歩くのだが、暗くなってしまったので写真はここまで。


上:データが残ってないのでいつの撮影か心もとないが、恐らく2004年3月5日関西性欲学会に出席のおりの写真であろう。今出川通川端東入ル北側にある近代洋風建築のガレージ。元々は一階は事務所か店舗だったのだろう。


 

左・右:左京区吉田界隈も、都市化したのは昭和に入ってからだろう。京都帝大、旧制第三高等学校のお膝元で、同志社も近いので、学者・文化人が多い土地柄である。この洋舘もなにやら、帝大教授が建てたのではないかと思わせる雰囲気が漂っている。京阪電車出町柳駅で降りて、学会会場である京大会館を目指して歩く途中、田中関田町である。


 

左:これも上の洋舘の近所にある洋舘附設和舘。こちらは吉田上阿達町。
右:これは学会後、二次会に向かう途中に撮影。烏丸三條の惨状である。この赤煉瓦の模造品は、辰野金吾・片岡安の傑作だった旧第一銀行京都支店を破壊して、そっくりそのままに作られたレプリカなのだ。1906年竣工の明治建築である。単体でも重要文化財級なのに、しかも場所は国指定重要伝統的建造物群保存地区である三条通なのである。悪徳守銭奴銀行のとんでもない暴挙としか言いようがない。そうまでして土建屋を儲けさせたいのだろうか? 何しろレプリカである。容積も床面積も一切変化しないのだから、建替えの意味がない。なお、左端に見えている近代建築は、これも昨年末いきなり破壊されてしまった、住友銀行京都支店(1938年長谷部竹腰建築事務所)。破壊した文化破壊業者は潟Aーバンライフなり。呪われるがいい。


上:ここからは2004年4月6日になる。京都・祇園の円山公園にお花見に行った時の写真である。


 

左:八坂神社(神仏分離以前は祇園社勧神院))の神楽舞台。
右:円山公園にて。伝統的な花見のスタイルが守られている茶店。

 

左:なぜだかてるてる坊主がつけられた桜。
右:有名な大枝垂桜。


 

左・右:いずれも大枝垂桜。花見は夜桜がいい。


 

左:ノーストロボで撮ってみる。月も出ていた。
右:勿論電灯もあるのだが、あちこちで篝火が焚かれているのが非常に美しい。


 

左:桜の種類も色々ある。
右:見世物興行。いまや本格的な見世物小屋は滅多に見られず、せいぜいお化け屋敷なのであるが、それすらも貴重なものとなってしまった。


 

左:夜の祇園花見小路。石畳に雪洞が映える。
右:鴨川を渡って、東華菜舘の春の看板。「鴨涯第一の眺望」という古風なコピーがよい。冬の看板はこちら⇒<増補>


 

左:高瀬川の桜。四條小橋より下流を見たところ。
右:ここからは2004年4月22日の撮影。都をどりを見にいったのである。これは祇園の老舗レストラン、「菊水」。大正末に着工、昭和初年の竣工で設計者は不詳。登録有形文化財。


上:一力茶屋の駐車場にて。主人の趣味だろうか。
※「一力茶屋」で検索したらこんなものを見つけた(笑)⇒<増補>

上:祇園甲部歌舞練場の玄関車寄せの天井と照明。外観などは⇒<増補>。内部は⇒<増補>


 

左・右:同じ敷地内の弥栄会館⇒<増補> <増補>


上:都をどりを見終わって、祇園を散策する。四条通より南側は伝統的な街並みがよく残っている。これは置屋さん。所属する舞妓さん、芸妓さんの表札が出ている。


 

左:祇園町南側、花見小路から東へ入る路地(ろうじ)。奥の高楼は弥栄会館である。
右:祇園町北側に回る。こちらは大阪・北新地や東京・銀座とあまり雰囲気は変わらない高級クラブ街である。けったいなキャッチコピーの会社があった。


 

左:「あたたの」だそうです。「北斗の拳」みたい。
右:そして祇園の「ヤオイ」。


 

左:喫茶店「え,びあん」である。「え〜、貴女ってびあんだったの〜?」という意味ではないと思うが。このコンマはなんなのだろう?
右:両側を醜悪なビルに挟まれながらも、白川に面し風情のあるお宅。勿論正面は反対の南側である。


上:白川に沿って東大路を渡り、更に北上する白川に沿って北上すると、古い町家が連なるところに出会う。マンションがいかに京都の景観を破壊し台無しにしているかがよく解る光景である。

 

左:三条通の白川にかかる橋。非常にすっきりと美しいモダニズムデザインである。
右:岡崎、疎水べりの藤井斉成会有鄰館。1926(大正15)年に武田五一の設計で建てられた私立博物館である。


上:藤井有隣舘全景。なお、偶然なのだが、このすぐ近くには山縣有朋公爵の別邸である無鄰庵もあるのが笑える。


 

左:疎水本流を行く屋形船。左手桜並木の奥は京都市美術館である。京都篇・其ノ八にも正面写真が一枚だけある。
右:疎水越しに見る、帝冠様式の傑作、京都市美術館の南面ファサード。正面は西面している。前田健次郎のコンペ当選案を元に京都市建築課の設計で1933(昭和8)年に建てられたもの。東京都立美術館、大阪市立美術館と共に、日本の三大公立美術館の一つであり、大規模な展覧会も数多く開かれている。


 

左:美術館裏手にある別館。恐らく本館と同時期に建てられたものと思われ、同じデザインでまとめられている。
右:実はこのあとこのまま疎水沿いに進んで、ぐるっと岡崎界隈を一巡してからまた美術館前(つまり平安神宮前)に戻ってくるのだが、戻ってからの写真もまとめて掲載する。これは北面の脇玄関。非常に美しい門扉である。


上:夕陽が当たって美しく輝く美術館。これは西面する正面ファサードの北翼で、奥の部分が正面玄関部である。


上:正面玄関部分。このような和風意匠だと唐破風が多いのだが、帝冠様式の場合はあまり用いられない。ここでも最上部は千鳥破風で飾られている。


上:前面道路(神宮道)はそれなりに広いのだが、それでもこの巨大な建物の全景を撮ることは難しい。左端に八歳児ことアキト少年(当時)が写っている。


 

左:さて、ここからは元に戻る。よってまだ日が高い。疎水に沿って東へ歩いた僕らは、ここで無鄰庵の前を通った。前述の通り山縣有朋の別邸で、写っている洋舘は新家孝正の設計で明治31(1898)年に建てられたもの。
右:こちらは無鄰庵の更に隣、京都市国際交流会館である。元は市長公邸だったそうなので、恐らく素晴らしい建築を破壊したあとに、この醜悪な石のウンコが設置されたのだと思われる。一体どういうセンスの人間がこういうものを作るのか? そしてどうして誰も止める者がいなかったのか、東京・吾妻橋の「金のウンコ」ことアサヒビール(旧大阪麦酒醸造所)ビル共に、極めて疑問符だらけの物件であるといわざるを得ない。国際交流会館である。京都に来た諸外国の人民は、このウンコを見てどう思うのだろうσ(^◇^;)。なお、最近格下のウェスティンホテルなんかと提携して京都市民のプライドを逆撫でしたウェスティン都ホテルが背後に写っている。日本を代表するVIPホテルである都が外資と結ぶなら、せめてインターコンチネンタル、リッツカールトン、フォーシーズンズクラスにして欲しかったと誰しも思うだろう。建築は村野藤吾の傑作で庭園も有名なのだが。

上:石のウンコに別れを告げ、次に向かったのがこれ、インクライン。琵琶湖疎水は京都市内に水を引き、水道として利用するほかに、発電にも用いられているし、また当初は運河として交通・物流にも大いに利用されていたのである。インクラインは皆さんも社会科の時間に習っただろうが、疎水はこの南禅寺エリアで急流になって舟運に適さないので、その区間のみ船をケーブルカー式の台車に載せて、上流下流間を運搬したのである。


上:インクラインの下に、赤煉瓦の人道トンネルがある。有名なねじれまんぽである。


上:南側入口の扁額。「雄觀奇想」と書いてあるらしい。


上:このように、煉瓦積みがよじれているように見えるのでねじりまんぽと呼ばれるのだ。実際異次元への通路のような趣がある。南側入口から南禅寺境内方面を望む。


上:北側に抜けてから振り返る。都ホテル、蹴上駅付近が見えている。


 

左:まんぽを抜けたところに、なんだか胡散臭げに何有荘の立て看板があった。実は由緒ある建物と庭なのだが。百年ぶりの一般公開だそう。とにかく、無鄰庵辺りからこの南禅寺の南側、そして南禅寺を抜けて北側にいたる岡崎は、日本一の豪壮な邸宅街なのだ。芦屋だろうと、鎌倉だろうと、その気になれば、頑張って成金になれば庶民にでも手が届くお屋敷街だが、この界隈の豪邸は、現代ではどんな成金でもちょっと手が出ないスケールである。
右:まんぽを抜けてまっすぐ歩くと(途中どこにも抜けられない一本道)、南禅寺の境内に出る。なんか笑える看板であった。


 

左:東司(とうす)=トイレの入口に掲げられた漢文の札。「常に清浄ならんと念じて謹んで放逸することなかれ」と書いてある。
右:でも単なる普通の公衆便所、しかも鉄筋の建物だった。

 

左:歌舞伎で有名な南禅寺三門石川五右衛門の隠れ家で、ここからの景色を見て「絶景かな絶景かな」というのである。もちろん重要文化財。
右:そしてこれが超有名な水路閣。琵琶湖疎水分線の水を流すために作られた水路橋だが、羅馬水道のような趣がある。建設当初は古都の古刹のど真ん中に西洋式の赤煉瓦構造物を作ったわけだから、風致を乱す、景観を破壊すると非難轟々だったと言われる。しかしモダニズムと違う様式主義のすごいところで、百年を経過した今、すっかり景観になじんで、今や京都の代表的な名所の一つとなっているのだ。結局二十世紀の合理的な建築というものは、歴史様式を凌駕し得なかったことの最も適した例証であろう。なお、「火曜サスペンス劇場」などではしょっちゅうここで死体が発見される模様(笑)。


上:水路閣全景。人のいないところを撮りたいのだが、よっぽど寒い真冬の朝とかにでも来ない限り無理だろう。なお右手から左手奥に向かって水は流れている。


 

左:春なので新緑に映える水路閣。
右:アーチの連なりが美しい。奥にいるのは風太。


  

左:水路閣の上はこのようになっている。写真上方、流れが穏やかになっているところから先が水路閣。
右:南禅寺の境内を突っ切り、北側に出ると、隣接して東山高校・中学がある。その横を澄んだせせらぎが一気に流れ下っている。扇ダム放水路で、南禅寺船溜りまで続くとのこと。扇ダムからも岡崎の豪邸群の庭園に水が供給されている。


 

左:野村財閥の創始者、野村徳七男爵の別邸だった、野村碧雲荘の東門。断っておくが、これは単なる裏門であり、正面は西側にある。それでこの規模である。現在も野村證券などグループ企業の迎賓館として使われている。敷地のごく一部を利用して、野村美術館も併設されて、得庵野村徳七翁のコレクションを展示している。
右:野村別邸の南側を流れる扇ダム放水路。延々と続く生垣は、とても個人の邸宅とは思えない。対岸もまた豪邸である。


上:ようやく西側に回り、野村別邸の正門側に出た。この界隈、住友男爵別邸細川侯爵別邸など物凄い邸宅が並んでいる。
このあと白川通、二条通と回って先に紹介した京都市美術館の写真を撮り、祇園方面に歩くのだが、ひとまず本章は既に十ページ目なのでここまでとする。

トップに戻る    京都篇・其ノ拾