骨董建築写真館 京都篇・其ノ参(祇園・東山界隈他)
骨董建築写真館

京都篇・其ノ参(祇園・東山界隈他)

 

左・右:四條大橋西詰南側に大正末〜昭和初年にかけて建てられたスパニッシュ・バロック様式の高楼、東華菜舘。設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズである。中華料理店がなんでスパニッシュ・バロックかといえば、元々は南仏料理店「八尾政」として建てられたからであって、玄関周りの豊穣なテラコッタ装飾は圧巻である。内部もオリジナルのインテリアがよく残っており、美しく保たれた手動式エレベーターががことのほか素晴らしい。詳しくは当サイト内「伯爵のページ」のショップガイド京都の項参照のこと。

上:四條大橋東詰北側にある、設計者不詳の老舗レストラン菊水。お店の方に伺ったところ、設計者不詳なるものの完成は東華菜舘と同じ昭和の初年とのこと。塔屋がパラボラアーチになるなど表現主義の影響の強い建物である。登録有形文化財。全景写真は⇒<増補>

 

左:祇園の入口、四條大橋東詰に位置する南座。歌舞伎界で最も格式の高い興行である歳末の「顔見世」が催されることで名高いが、歌舞伎のほか商業演劇、ミュージカルなどにも幅広く利用されている。江戸初期、元和年間に遡る名門の芝居小屋だが、現在の建物は1929年(昭和四年)完成の鉄筋コンクリートによる桃山御殿様式。一時は老朽化による取り壊しの危機に見舞われたが、1991年に見事に保存再生された。内部も純和風で、舞台上にも唐破風屋根が架かっている。このように四條大橋をはさんで東華菜舘、菊水、南座と三つの近代建築が向かい合う景観は、古都の都心にふさわしい華やいだ雰囲気である。
※写真一番上、やや反った三角屋根を千鳥破風といい、三階の窓の上にかかった両端が反った丸い屋根を唐破風という。
右:祇園は四條通をはさんで北側は雑居ビルが多く、大阪・北新地や東京・銀座のような高級クラブ街となっている。対する南側は古い木造建築が比較的よく残り、伝統的なお茶屋街の風情を保っている。この写真は南座の近く、古い街並みが残っている一角にある渋いバーである。

 

左:祇園のど真ん中、四條通の南側の裏手にある古い民家。伏見の項で紹介したような、一部洋館が付随した“大正文化住宅”タイプである。
右:四條大橋祇園側から、対岸上流、つまり三條側を望む。夏の京都の風物詩、鴨川の納涼床が並んでいる。三條〜四條間の床は全て先斗町通の店の裏側ということになる。伝統的なお茶屋、料亭からフランス料理屋、居酒屋、中華など様々な店が並んでおり、安いところなら2000円程度の予算で床を楽しむことができる。

 

左:まだ京都市の市内局番が二桁だった時代のままの、銅製の表札。
右:どんな美味しい料理が出てくるのか期待が高まる、絢爛たる正面玄関。

 

左:「暖かい」ではなく「温い」とあるのが京都的。「五階食堂」という表現もクラシックでよい。
右:玄関ホールの風除け室。なんとも豊穣な装飾が施されている。

  

左:正面玄関入ってすぐのところにある、ホテルのフロントのような受付カウンター。実際地上五階地下一階の大規模なビルヂングであるから、ほんの数室でも宿泊のできる部屋を作ってシノワーズ・オーベルジュにすれば、超お洒落で素敵になるのだが。
中:京都最古のエレベーター。自動着床装置付きの手動エレベーターで、米国オーティス社製である。これは籠が来ている状態。
右:同じエレベーター。これは籠が来ていないで外扉が閉まっている状態である。

 

左:半円形針式の階数表示板。上弦に設置されているのは五階のみで、他の階はこの写真と上下逆、下弦に設置されている。
右:運転中の籠内から籠扉を撮影。真鍮製の蛇腹戸である。

 

左:エレベーター操作盤。手動式なので、このハンドル一丁で運転するのである。なお、操作盤の両側共に真鍮製の籠扉が見える。三階のみ右側の扉が開き、他の階は左の扉を用いる。階によって入口が違うエレベーターは日本では珍しい。
右:運転中の操作盤。白い上着のまさに老舗の老給仕といった風情の風格あるおじさんが案内してくれる。

上:2004年3月19日追加。これは五階のインジケーター。一階以外はこのように上円下弦となっている。(2002年夏頃撮影)

左:祇園の中心、彌榮會舘(祇園甲部歌舞練場)。竣工は1936(昭和11)年、設計は劇場建築の名手木村得三郎で、見事な近代和風建築である。つい最近、登録有形文化財になった途端にエレベーターがなんの変哲もない新型に替えられるなど無神経なメンテナンスを受けている點惜しまれるが、祇園のシンボルとして聳え立つ威風堂々たる風格は昭和の初めから変わらない。同じ建物の写真⇒<増補>
右:重要伝統的建造物群保存地区に指定されている、付近の街並み。背景は東山三十六峰、清水寺付近である。

 

左:「下京區新門前通大和大路東入」と書かれた戦前の仁丹広告付き町名表示板。東山区が分離されたのは戦後のことである。
右:圓山公園の噴水。虹がかかっていた。

 

左:祇園閣。金閣、銀閣と並べ、銅閣とも称する。現在は浄土宗大雲院内の境内となっているが、元は大富豪大倉喜八郎男爵が京都における別邸として天才建築家伊藤忠太博士に設計を依頼した個人住宅であった。祇園祭の鉾を意識したのであろう、なんとも派手な建物である。息子の喜七郎男爵は父の成金趣味を嫌ったのかこの建物に寄り付かなかったとのことだが、今になってみればなかなか味わい深いいちびった建物となっている。なお喜八郎男爵の別荘「真葛荘」は大雲院の庫裏として現存しているとのこと。参考⇒<増補>
右:こちらは京都の建築界最大の実力者だった武田五一博士の設計になる大正期(1914,年・大正3年)の大邸宅、清水焼の窯元だった松風嘉三の旧邸である(登録有形文化財)。現在は湯豆腐の老舗「順正」清水店となっている。写真増補⇒<増補>

 

左・右:清水寺の近くにある、京都市立清水小学校。都心部の伝統校が統廃合で殆ど廃校になってしまった京都市であるが、この清水小学校は現役で子供たちを受け入れている今では貴重な存在となってしまった。戦前期の見事な近代洋風建築である。竣工は1933(昭和8)年。

 

左:清水小学校の正門前、清水坂の半ばのところにある、かなり規模の大きい洋館付個人住宅。大正中期〜昭和初め頃のものであろう。洋館部にハーフティンバー(壁面に露出した木骨)とアーチ窓が見えるなど、かなり洒落ている。
右:いきなり場所が大きく移るが、今までもたびたび紹介してきた仁丹将軍付きの町名表示板。「上京區大宮通西裏御旅所下ル西若宮北半町」と書いてある。つまり大宮通に並行して一本西側にある南北の名無しの裏通りに面していて、御旅所通との交叉点から南に下がったところの西若宮北半町、という意味。僕が立って撮影しているのが大宮通西裏通で、画面左で自転車が走っているのが御旅所通である。仁丹の広告はこのように上に入っているものと、下に入っているものと2タイプある。詳しく調べればそれによって設置年など判明するのかもしれない。

 

左:西陣の今出川通沿いで見つけた三階望楼付の商店建築。京都は戦災に遭っていないだけに、この手のB級、建築史の教科書にはまず載らないタイプの面白い建物が結構目に付く。僕にとっては寺院建築を見て歩くよりむしろ、この手の“いちびった”建物を探して歩く方が面白い。裏手のビルの塔屋と階段のデザインもなにやら怪しげである。
右:西陣は西陣織で隆盛を極めた土地柄だけに、今出川通に沿ってずらっと西陣最盛期に建てられた戦前の立派な銀行建築が並んでいる。

上:西陣の隆盛を今に伝える、第一勧業銀行西陣支店。都銀各行が京都支店に次ぐ大きな店舗を構えている。設計は西村好時、竣工は昭和11年である。

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