骨董建築写真館 京都篇・其ノ弐(八幡市・旧橋本遊廓&旧伏見港界隈)
骨董建築写真館

京都篇・其ノ弐(八幡市・旧橋本遊廓&旧伏見港界隈)

二千年の夏に撮った写真だが、橋本旧遊廓を中心とした一篇をアップしたい。京阪電鉄本線橋本駅前に、かつて京と大坂を結ぶ街道筋に栄えた橋本遊廓がひっそりと残っている。京阪の線路と淀川に挟まれたごくごく狭く細長いエリアなので、陸路だけではなく淀川を上下する三十石船の港としても賑わったのであろう。今では静まり返っており、半ば廃墟と化した旧遊廓が朽ちゆく姿を晒している。散策すると情趣に尽きない味わいがある。

 

左:最早崩壊寸前、無人の廃墟と化している遊廓。それほど凝った造りではないが、一階の格子窓が遊廓時代を偲ばせる。
右:比較的手入れ良く保たれている、今では民家と化した旧遊廓。二階窓周りなど、細部の造りも凝っている。

上:今では通る人もまばらな旧街道だが、歴史的な街並みが良く保たれている。両側の建物は殆ど旧遊廓である。

 

左:勝手口にまで、凝った造りの屋根が架けられている。一般の民家ではまず見られない造作である。
右:街道の一本裏手はすぐに淀川の堤防となっている。堤防側から見た旧遊廓街の裏手の光景。

 

右・左:大阪・飛田新地や京都・五條樂園などの舊遊廓同様、ここ橋本にも洋風の娼舘が何軒か残っている。ステンドグラスも年季物。当然、近頃よく見るような一枚ガラスに印刷した偽物ではなく、ちゃんと鉛線で枠を組みガラスを切ってはめた本物である。

 

左:ステンドグラスの建物の裏手。わりと本格的な洋館で、裏手まで全てアーチ窓になっている。
右:最近まで人が住んでいたと思われる和風の遊廓。庇が垂れ下がり、一部崩落が始まっている。廃墟となり、静かに朽ち果ててゆく姿もまた、美しい。橋本の舊遊廓街には既に空家となっている建物が多いようだ。

 

夏草やつはものどもの夢のあと

左・右:夏草の生い茂る原っぱの廃墟。本編冒頭の遊廓の裏手である。寂れゆく橋本舊遊廓は、既にこのように更地となり草原と化しているところも多い。この廃墟は正面以上に裏手の崩壊が進んでいる。

 

左:遊廓時代の賑わいを今に伝える?防火用水。引っ繰り返されて、植木鉢など置かれている。廃墟の町に、わずかに残り生活する人の営みがある。
右:朽ち果てるのを待つばかりの、和洋折衷の遊廓建築。前ページの廃墟の玄関である。色ガラスのはまった扉が如何にも遊廓的。

 

左:木は蔦に飲み込まれ、廃屋は木に飲み込まれつつある。
右:棟続きの建物が取り壊されたため、壁に隣の階段の跡がくっきりと残る建物。“原爆タイプ”の超芸術トマソンである。

 

左・右:時の流れが歩みを忘れ凝結してしまったようなこの街で、遊廓時代そのままに営業している洋食屋「やをりき」。

 

左:それでもこの街がまだ生きていることを示すように、灰皿の盗難を訴える張り紙。なんとも長閑だが、京阪橋本駅の改札前にて撮影。
右:橋本駅前にある、古風な鉄骨製火の見櫓

伏見港界隈

橋本駅から京阪電車で京都市内に入ると、まず伏見区である。伏見区南部、かつて港街として栄えたエリアを歩く。京阪の中書島、伏見桃山、丹波橋辺りまでである。大阪における平野区同様、伏見区も元々伏見市であり、京都市とは別の都市として独自に発展を遂げていた。今でも各所にその名残が残っている。

左:古い町家に、何故だか同じ町名表示板が二枚並べて貼られている。区の字が區でなく現用字体なので1950年代以降のものと思われるが、琺瑯ではなくブリキなのであろう、既に相当に劣化している。ともあれ、内陸都市京都で浜町という地名が、伏見が古くは港街であったことを物語っている。鉄道が発達する以前、明治前期まで京都大阪間の輸送は圧倒的に淀川を利用した水運が主流だったのだ。
右:二階の目立たないところにつけられた、これも古い町名表示板。京町一丁目、メンソレータムの広告が色褪せず錆もせず綺麗に読み取れるのは、琺瑯製ゆえである。なお、メンソレータムの商標は現在では大阪市生野区のロート製薬が所有しているが、元々はウィリアム・メレル・ヴォーリズ創業の近江兄弟社が日本における独占製造・販売権を所持していた。三十年程前同社が経営危機に陥った時にロート社が商標を買い取る形で救済し、以降近江兄弟社は「メンターム」の商標を用いている。この看板は明らかに近江兄弟社時代のメンソレータムなのだ。

  

左:蔵を意識したらしい、新しい団地。
中:昭和初期の古い町名表示板。洛中ではお馴染みの仁丹の将軍マーク入りのものだが、当時京都市外であった伏見にも設置されていたことが判る。一番上には右から左に伏見市と書いてある。京都市に吸収合併(昭和6年4月)される以前ものなのだ。伏見の市昇格は昭和4年4月なので、伏見市時代はたった二年間、従って極めて希少な町名表示板といえよう。
右:伏見の中でもこの桃山界隈から旧伏見港にかけてのエリアは、このように古い町家の連なる街並みが随所に残っている。

 

左:古い土蔵を改造して用いているレストラン。
右:古い街並みを歩くと、民家の玄関先の表示類を見るのも楽しみの一つである。この写真では、大阪ガスに吸収されて今は無き京都ガスの加入者証が見える(円形・青地に白のマーク)。京都市章の中に大文字のGが記されたこのマーク、京都市内ではまだあちこちで見られる。

上:この静かな運河が、旧伏見港である。ガードは京阪本線。基礎は煉瓦積みでこれも歴史を感じさせる。写真中央付近の白い立て看板は啓蒙看板だが、「伏見港を綺麗に」と書いてあった。今でも「伏見港」と呼ばれているらしい。十石舟について参照⇒<増補>

 

左:月桂冠の商標で知られる笠置屋、旧大倉酒造の本社。酒造業最大手の本拠地だけあって、大変スケールの大きい巨大な酒蔵である。伏見は関西では阪神間の“灘五郷”に次ぐ大規模な酒造りの街なのだ。
右:同社の本社旧事務所。現在は資料館などとして使われている。僕は酒は飲まないが、一切現代建築を建てず、和風建築のみで営業しているところが素晴らしい。

上:緑豊かな伏見港と、白壁の酒蔵。電柱も現代建築も何もなく、奇跡的に江戸期から変わらぬであろう景観が保たれている一角である。

 

左:坂本龍馬の定宿として、そして「寺田屋事件」の舞台として名高い旅籠「寺田屋」は、今でも往時の姿そのままに、旅館として営業している(日中は見学可)。ここも元々は船宿で、伏見港の岸壁に直接面していた。今では向かいにも建物が建っているが、かつては道路をはさんですぐ運河の岸で、船が接岸できるように石段になっていたとのこと。
右:寺田屋の旧浴室(現在の宿泊客用の風呂は別にある)。かなり小さな風呂桶(文字通り桶である)だが、この中で坂本龍馬や薩摩藩士たちが入浴した訳である。

  

左:なんとも古風なタイル張りの洗面台。
中:寺田屋玄関においてある、伯爵好みの不気味な調度品。
右:これも戦前の琺瑯製だが、既に京都市と合併してからのものであることが「京都市伏見區」という表記から判る。

 

左:寺田屋の並びにある、大正末〜昭和初期のものらしい洋館付棟割長屋。
右:同じく大正末〜昭和初期のものであろう、比較的大きな洋館付住宅。明治時代の富豪の住宅には、迎賓施設としての本格的洋館と居住スペースとしての数奇屋風和舘を併せ持つ豪邸が多かったのだが、中産〜中流階級(といっても当時の社会構成ではまだまだエリート層ということになるが)まで生活の欧化が浸透する大正期になると、和風住宅の玄関脇に洋館をくっつけたこのようなタイプの「文化住宅」が阪神間など当時の新興住宅地を中心に広まった。そして更に庶民層にまで欧風文化が浸透した結果が、左のような洋館付長屋なのである。ほんの十年ぐらいまで、大阪市内などでもこのようなタイプの長屋はあちこちで見ることができた。なお、関西地方で木造集合住宅のことを「文化住宅」と呼ぶのは、玄関、トイレ、台所などが共用のアパートより、玄関、トイレ、台所が各戸に付いている“文化的”な住宅という意味で、やはり語源は大正時代の文化住宅に遡るのであろう。

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