骨董建築写真館 京都篇・其ノ七
骨董建築写真館

京都篇・其ノ七

 

左:ここからは2002年初夏から秋にかけて撮影したもの。まずは旧作補遺京都篇・其ノ壱の最後で紹介した新風舘こと旧中京電話局。これは北面した正面玄関である。参照⇒<増補>
右:同上の玄関内部。


 

左:新風舘、烏丸通側ファサードを南から北へ俯瞰する。
右:2002年の時代祭。仲が悪かったといわれる清少納言と紫式部が同じ輦台に乗っているσ(^◇^;)


 

左:路地裏で見つけた枯井戸。
右:2003年に破壊されてしまった、京都松竹座。正面だけ化粧直しされていたが、モダニズムっぽい造りで非常に規模の大きな、美しい映画館であった。


 

左:京都松竹座正面ファサード。
右:中京の中心部、高倉通に面した古い自転車屋。看板代わりに掲げられている自転車も年代物である。


 

左:高倉通四條上ル、大丸百貨店の裏手に連なる小振りな近代洋風建築群。
右:左の写真の一番右の建物の南側、大丸裏口へ続く私道。これらのビルヂングには医院、大丸関係会社、ヘアサロンなどが入っている。

 

左:寺町通御池上ル、京都市役所別館である。右端に見えてる武田五一の本館の影に隠れて目立たないが、これもなかなかいい雰囲気の建物。四階は建て増しであろう。
右:寺街御池上ル、一階は無残に改造されているが、実にいい雰囲気の小建築、トミタヤビル。


 

左:トミタヤビルとその隣の老舗カスタムテーラー「KANO」。加納洋服店は1927年の建築である。
右:その並びにある商家。これもかなり古い。


 

左:これも市役所西側、寺町通の小洋館。
右:古い町家の前によくある、様々な証票を貼付したボード。左上の青丸バッジは旧京都瓦斯の加入者章である。


 

左:市役所別館の玄関。このように無用門と化していて出入りできない。
右:建て変わっていて残念だが、古風な看板を専門にする店。


 

左:寺町二條上ル、京町家に挟まれた老舗洋菓子店、村上開進堂。いかにも文明開化期の洋菓子店っぽいネーミングが素敵である。
右:同店の扉。「をす」と彫られている。店内の床のタイルもいい感じ。

 

左:曲面ガラスが非常にお洒落な村上開新堂。明治三十七年創業の老舗であるが、学生時代からよくクッキーなどを買いに訪れた、伯爵にとって非常に懐かしい店である。なお、東京にも同名の店があり、そちらは一見さんお断りで滅茶苦茶感じが悪く勘違いした、いかにも東京的な底の浅い老舗もどきなんだそう。一見さんお断りを貫くなら誰にも宣伝しなければいいのに、ウェブサイトがちゃんとあるのだ。露悪趣味、自己顕示欲の権化としか言いようがない。
右:同じ並びにある、こちらも享保年間、千七百十七年創業の宇治茶の老舗、近江屋一保堂。黒漆喰の壁が歴史を感じさせる。


 

左:アンティークで非常によい味わいを醸し出す、一保堂のネオンサイン。
右:上京も御所の東側のこの界隈は商家が多く、典型的な町家がたくさん残っている。


 

左:これも典型的な町家。
右:京都の古い写真館は「寫場」と名乗るところが多い。これも寺町の老舗、岐陽館小林拓史写場である。


 

左:河原町通に出る。表通りにもこのような戦前の洋風建築がたくさん残っているところが、京都の底力であろう。「中嶌商店」と読める。
右:京都市立銅駝美術工芸高等学校。昭和8年、昭和13年に建てられた、旧銅駝尋常小学校の校舎をリノベーションして使用している。非常に素晴らしい。


 

左:河原町二條付近にあるモダニズムスタイルの古いビル。恐らく戦前物件だが、見事にリノベーションされてお洒落な雑貨屋になっている。
右:その近く、河原町通の古い町家。屋根の造形が複雑である。

上:田中耕一氏のノーベル賞受賞で一気に有名になった島津製作所の旧本店、島津創業記念資料館。写真に写っている部分が明治27年(1894)、左端の部分が明治21年(1888)と極めて古い建物である。基本的には町家造りなのだが、二階には西洋式の縦長窓、一階欄間にはステンドグラスを用いるなど、創業時の進取の気風を感じさせる。旧本社は⇒<増補>


上:その向かい、木屋町二條下ルにある、規模の大きい個人邸宅。モダニズム色の濃い洋館が附設されている。


上:相当薄暗くなってきたので不鮮明な写真になってしまったが、二條木屋町東入ル(二条大橋西詰)、ホテルフジタ京都の敷地内に保存されている旧藤田伝三郎男爵京都別邸「夷川邸」。豪壮な数奇屋の大邸宅で竣工は明治40年とのこと。元々は角倉了以の屋敷だった場所だそう。


 

左:二條大橋を渡り、左京区に入る。石畳の風情ある路地(ろうじ)。
右:修行僧に門限を告げる寺院の山門。


 

左:木造三階建ての立派な風呂屋「柳湯」。昭和6年のもの。 男湯と女湯の玄関が別に設けられているところが古風である。
右:入口に掲げられた「謹告」。本日って一体いつのことなのやら。

 

左:前ページの銭湯の門灯。古風な傘付裸電球である。
右:建築的には非常にセンスの悪い改変がなされているが、非常に古風な照明具を作っている店があった。


 

左:三條通に面した蔵造りの商家。縦長窓などかなり洋風な要素が加味されている。
右:三條京阪近く、繁華街のど真ん中にもこのような古風な路地が生き残っている。


 

右・左:いきなり場所が飛ぶが、重要文化財、旧日本銀行京都支店の内部空間である。京都文化博物館としてリノベーションされた折に銀行時代のカウンターなどが復元されている。外観は⇒<増補>


上:旧日本銀行京都支店営業室の天井を見上げる。暗いし不鮮明な写真なので、原寸で載せる。


 

左・右:同じく京都文化博物館の内部。

 

左:京都市内には昭和戦前期の学校建築が非常に沢山残っている。
右:三井住友銀行京都支店。旧三井銀行である。四條烏丸交差点を囲む形で建っていた大手都銀の一つ。今ではこのような無残な形で部分保存されている。四條烏丸交差点に人が溢れているのは、祇園祭だからである。鈴木貞次郎の設計、大正三年の竣工。改築は千九百八十四年。


 

左:四条通にある、唐破風つきのふざけた商店建築。
右:祇園甲部歌舞練場の内部。舞台の上に千鳥破風がついている。京舞井上流の発表会を見にいった折に撮影。一説によると明治五年、京都大博覧会の時に建てられたとあるが、もう少し新しそうである。外観は⇒<増補>


 

左:日本の伝統的な劇場様式を踏襲しており、このように桟敷席がある。
右:天井のシャンデリアもこの通り。


 

左:歌舞練場内にある学校法人八坂女紅場学園祇園女子技芸学校の古風なガラス戸。発表会なので中に浴衣の小学生がいるのが見える。
右:最近、こういう町家リノベーション旅館が増えつつある。


上:場所を失念したが、恐らく祇園界隈。瓦アートな塀があった。

上:国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている、祇園新橋地区の街並み。


 

左・右:祇園新橋地区。観光客だらけではあるが、街並みはさすがによく保たれている。業態は今でも御茶屋が多いが、右の写真など実は鉄筋コンクリートで新築された現代町家である。祇園ネクサス、元々はトキオクマガイのブティックだったように記憶しているが、今は飲食店になっている模様。伯爵は2004年5月にお茶屋遊び初体験の予定である。
この店に行くわけではないが、解説が詳しいので参照⇒<増補>
現役舞妓さんのページ⇒<増補>


 

左:新橋地区のすぐ北、骨董街として知られる新門前通で見つけた古風な郵便受。
右:同じく新門前の古い煙草屋さん。最近はこういう店舗も少なくなってきた。


上:祇園を更に北上、これはもう三条通間際にある、巨大な市営住宅。いわゆる同和対策で建てられたものなので、内部の廊下が「京の路地(ろうじ)」と化していて、お地蔵さんなどもあって面白い。取り澄ました一見さんお断りばかりが京都ではない、これもまた京都の素顔である。


 

左:京都のど真ん中、三條京阪の近くにも、このように古風なトンネル式の路地が残っている。傘つき裸電球も味わい深い。
右:明治九年に建てられた太鼓望楼が屋上に残る、京都市立有済小学校。このページを作っている二千四年三月三十一日が同校最後の日となる。135年の歴史に終止符を打ち、白川小学校に統合されてしまうのだ。

 

左:三條大橋の上から見た先斗町歌舞練場。先斗町側正面より見るよりはるかに雄大な建物であることがよく判る。鴨川には例の“等間隔に並ぶアベック”が。彼らの距離が何メートルか計ったのが伯爵も風太も親しくしてもらっている齋藤光・京都精華大学教授である。先斗町側からの写真⇒<増補>
右:戦災の影響を受けていない京都には、大正〜昭和戦前期の小規模な近代洋風建築が多数現存している。これは僕の大好きな古書肆「アスタルテ書房」(〒604-8086 京都市中京区御幸町通三條上ル・ジュエリーハイツ202 TEL・FAX 075(221)3330 営業時間/12:00AM〜7:00PM) のすぐ南側にある棟割ビルで、向かって右のオーナーは古さを生かして改装している。東京の改造社ビルとは正反対の例。⇒<増補>


 

左:これがジュエリーハイツ。こんなしょうもないおよそ京都らしくないマンションの二階に、アスタルテ書房があるのだ。
右:旧毎日新聞京都支局(現1928ビル)。詳細は⇒<増補>


 

左:御幸町通から1928ビルを望む。狭い通の交差点に建っているのが判る。
右:姉小路通烏丸東入ルの老舗和菓子屋、龜末廣。名店だらけの京都だが、建て替えられた老舗も多いので、伝統建築は貴重である。


上:旧住友銀行京都支店。勿論役員が支店長を務める基幹店舗だったのだが、三井住友銀行成立により京都支店が四條烏丸の旧三井銀行京都支店に移り、2004年4月現在空きビルになっている。京都は住友男爵家にとっても本拠地の一つなのだし、泉屋博古舘(泉屋は住友家の屋号)をここに移すなど、有効活用を図ってもらいたいものだ。住友本邸は神戸・御影だったのだが、京都別邸も準本邸的に使われており、よってこの京都支店には当主の執務室もあるとのこと。1937年、長谷部竹腰設計事務所の作品である。
※2006年5月18日追記:2005年に悪徳三流不動産会社潟Aーバンライフによって見るも無残に破壊されてしまった。参照⇒<増補>


 

左:裏寺町通で見つけた、瀟洒な洋風玄関を持つ長屋。
右:同じく新京極通の東側の路地にある、洋館風の大衆食堂。

 

左:下京区に入る。富小路四條下ルにはネオゴシック様式の教会堂、救世軍京都小隊がある。。救世軍とは軍隊形式をとるキリスト教プロテスタントの教派で、教会のことを小隊といい、牧師を士官と呼ぶ。設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズ、竣工は1935(昭和10)年である。
右:四條寺町下ルにある洋館長屋。左右を無粋かつ不細工なビルに囲まれて孤軍奮闘している。


上:また中京区へ。今度は高倉御池上ルの町家レストラン、「串くら」。築百年余の歴史的建造物である。時代祭の日に、熊谷真菜女史一行と共に昼食をとった。


 

左・右:「串くら」の内部。


上:御池どおりに面して建つ、古い住宅。かなり洋館風になっているがベースは日本建築である。塀と門があり、商家ではない。


上:御池通から少し上がった所にある、これも戦前期の洋風医院建築。

 

左:また下京区へ入る。綾小路通にある古い理髪店。もう営業していないがいい雰囲気である。二階の窓のテープはひょっとして戦時中に貼られたものか?
右:その並びにある現役の大衆食堂。安くて美味しい。


 

左:烏丸の東裏で見つけた日本陰陽易道協会と日本陰陽易道学会。二つの団体に分けてあるのはなぜだろう? 学会といっても勿論アカデミズムの世界で認知された学会ではない。
右:これも古い洋館造りの商家。


 

左:右上のように木造の洋館造りが多い中、このように本格的な鉄筋の近代洋風建築も散見される。
右:鬼才伊東忠太の手になる西本願寺伝道院。ヴィクトリアンインドサラセン様式の奇怪な建物だが、長年こうやってシートが掛けられたままである。天下の大宗門、浄土真宗本願寺派なのに補修費がないらしい。門主の生活をもっと質素にすればいいのに。竣工は1912(明治45)年。


※以上、二千二年九月までに撮影した写真で構成。

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