骨董建築写真館 京都篇・其ノ六
骨董建築写真館

京都篇・其ノ六

未整理の古い写真が溜まってきたので、纏めてアップロードすることにする。まずは京都篇である。

  

左:下京区河原町高辻にて見つけた、軒の鍾馗像。京都の町屋の軒にはよくあるが、これなど非常に新しい瓦である。現代でも生きている習俗なのだ。
中:同じ付近にあった、立小便禁止の鳥居。ペンキで描いてあるものなら全国どこでも見かけるが、さすが京都のものは細工が細かい。
右;下京区高辻河原町東入ルの非常に古風な駄菓子屋。ちなみにこのすぐ近くにはKOカンパニー本社がある。


  

左・中・右:京都市下京区木屋町松原上ル、映画「千と千尋の神隠し」の油屋旅館そっくりな旧鮒鶴旅館。参照⇒<増補>
旧鮒鶴旅館で修行した板前さんの手記⇒<増補>(ここの「投稿欄」⇒<増補>)

 

左:下京区、河原町通の昭和初期らしき小振りなビルヂング。戦災を殆ど受けていない京都には、まだまだこのような戦前の小規模な近代洋風建築が多数現存している。
右:下京区正面大橋西入ル、任天堂本社ビルの表札と玄関周りの装飾。場所は遊廓“五条楽園”南側に接している。元々はトランプや歌留多の会社だったのが、ファミコン以降世界的な大企業となった。この旧本社は狭い正面通に面していて、非常に写真をとりにくい。


 

左:任天堂本社ビル正面玄関。既に日没後なので全景は諦めたようだ。
右:そのすぐ隣にある古風な医院。併設で医療器具博物館もある。

 

左:京都駅と鴨川の間、嵩仁地区にある古い旅館。“旅籠”という雰囲気である。
右:嵩仁地区の差別に対する高潔な戦いの歴史を記録する、柳原銀行記念資料館。明治四十年の木造洋館で建築史的にも貴重である。


  

左:京都駅近くで見つけた可愛い名前の寺。もちろん通商で正式名称ではなく、浄土宗捨世派の寺で正式名は正行院という。
中:同じく、けったいな名前の旅館。平岩旅館のように外人客主体のようだが、だったらもっと純和風の名前にすればいいのに。建物も一応古い町家だがかなり改装の手が入って風情はなかった。
右:原忠一・東京大学生産技術研究所教授の作品である、京都駅ビル。これは内部の伊勢丹百貨店のエスカレーター。折り返し式ではないので圧巻である。


 

左:京都市役所本館。武田五一・京都帝国大学教授の千九百二十七年の作品である。雲行きが非常に恐ろしげでよい。
右:同、部分。東面通用口上部である。


 

左:傾いていてひどい写真だが、同じく京都市役所東側側面、河原町通に面した通用口である。
右:ノーベル賞研究者を輩出したことで有名になった、島津製作所旧本社ビル。京都市役所の北隣、河原町通御池上ルに位置する。これも千九百二十七年、、武田五一博士の作品である。初代本店は⇒<増補>

 

左・右:「東華菜舘」とともに京都における伯爵のお気に入り中華料理店、「一之舟入」。高瀬川最上流の湊、一の舟入に沿った長屋をリノベーションした素敵な空間である。なお、町家レストランの代表的例としてよく取り上げられているが、すぐ裏が一の舟入なので、京町家とはいえ奥行きのある鰻の寝床ではない。


 

左:高瀬川本流から一の舟入を臨む。鉄柵が無粋である上、正面には不細工なビルが…( ̄□ ̄;)!!。しかも左上の醜いモノが景観を台無しにしているが、これが悪名高い京都ホテルである。参照⇒<増補>(2月5日の項を読むべし)
右:一の舟入前の高瀬川に係留されている高瀬舟。人工河川なので水位の調節は自由自在、よって運河として実用に供されていた当時はもっと水量は豊かだったといわれる。


 

左・右:先斗町歌舞練場。京都五花街の一つ、先斗町(ぽんとちょう)の歌舞練場。昭和のはじめに当時としてはかなりモダンな建築として建てられた劇場である。先斗町通が狭いので全景を撮るのはかなり苦労する。すぐ裏は鴨川なので、対岸から背面を見ると雄大な建物であることが判る。(所在地 京都市中京区先斗町通三条下ル 建設年 昭和2年 設計者は大林組の木村得三郎) 鴨川側のファサードは⇒<増補>


 

左:四条通から木屋町通を南下、高瀬川を望む。水鳥がいる。右岸には結構いい雰囲気の町家が連なっている。
右:昭和十年にあめりか屋によって建てられた、ドイツのメルヒェンのお城っぽい雰囲気の革島医院。(京都市中京区麩屋町通六角下ル坂井町470)


 

左・右:これも革島医院。新築当初の写真には当然のことながら蔦は絡んでいないのだが、こういう歳月を経た洋館には非常に蔦が似合う。

 

左:革島医院の正面。おそらく内部は階段室であろう。
右:新京極が興行の街だった頃の雰囲気を今に伝える唯一の生き残り、八千代舘。1926年(大正15年)の建物である。正面に並べられた自動販売機がちょっと惜しいσ(^◇^;)


 

左:西側面。
右:正面細部の装飾。


 

左:正面ファサード、軒蛇腹の装飾。
右:正面ファサードのメダイオン。


 

左:正面ファサード上部。
右:逓信建築の大御所、吉田鉄郎の代表作の一つ、旧京都中央電話局。これも大正15年の建物である。現在は巨匠リチャード・ロジャースの手によって、新風舘という名前で非常に斬新なファッションビルとして見事に再生された。これは姉小路通に面した旧正面玄関である。参照⇒<増補>


 

左:烏丸通に面した側面ファサード。大通である烏丸ではなく、狭い姉小路に面して正面玄関が開口している。烏丸側には通用口すらない。
右:正面玄関。天井のヴォールトが美しい。

 

左:旧中京電話局正面玄関、ヴォールト天井のアップ。
右:同内部。中庭囲むロの字の建物全てに店舗が入っていて、中庭にはステージなどが設けられている。左端の美少年は一緒に行った友人の某君(当時16歳)。⇒「旧作補遺京都篇・其ノ弐」に更に新風舘を収録。


 

左:京都の中心部、中京にある洋館付町家。
右:同じ付近にある、こちらは窓などにかなり洋館的要素が加わった町家、「金翠堂」。


 

左:国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている三条通に面して建つ、SACRA。近代建築のリノベーションの先駆けの一つで、見事に再生されている。元々は大正五年、不動貯蓄銀行京都支店として建てられたドイツ・ゼセシオン様式の木造石張りビルヂングである。中京区三條富小路角。内部の写真は⇒<増補>


 

左:サクラの側面。
右:こちらは部分保存で、正面向かって右(東側)の一スパンのみ残された京都日本生命舘。左側に非常に醜い新築部分が移っている。こういう申し訳程度の保存では殆ど意味がないのだが(-_-;)。これもウィーン世紀末、セセッション風の建物である。中京区三條柳馬場角、大正三年に辰野・片岡建築事務所の設計で建てられた名品であった。

●旧作補遺京都篇・其ノ壱、以上は2002年3月に撮った写真で構成した。

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