骨董建築写真館 京都篇・其ノ壱
骨董建築写真館

京都篇・其ノ壱

京都の街は、実は東京、大阪、神戸についで日本で四番目に近代洋風建築が多い都市といわれている。そして僕にとっては学生時代を過ごした懐かしい、大好きな古都である。膨大なデジカメ画像を撮りだめているので、そろそろ京都篇にも着手することにした。まずは都心部からご紹介したい。

上:四條烏丸南東角の旧三菱銀行京都支店。既に空きビルとなって久しい。見識の低い悪徳軍需御用商人岩崎男爵家の財閥であるから、破壊の危惧が強く懸念される。四條烏丸交叉点にはかつて三菱銀行、富士銀行、三井銀行、三和銀行と四つの近代洋風建築が並び建ち近代京都の風格を代表する景観を構成していたのに、富士銀行は破壊され、三井銀行(さくら銀行京都支店を経て三井住友銀行京都支店に)は一部外壁保存でお茶を濁し、現存しているのはこの旧三菱銀行と北西角の三和銀行(現UFJ銀行)のみである。いづれも京都支店で、取締役が支店長を務める基幹支店であった。この三菱銀行京都支店の設計は三菱お抱えの桜井小太郎、大正十四年の竣工である。参照⇒<増補>
※2005年8月16日追記・・・良識ある関係諸方面からの保存要望を一切無視して、悪徳政商三菱財閥はとうとうこの名建築を破壊してしまった。

 

左:四條烏丸で唯一現役で用いられている近代洋風建築、UFJ銀行京都支店。見事なジャイアントオーダー(列柱)だが、実はこれは戦後の建物である。大阪・淀屋橋の日本生命舘(本店)、大阪・肥後橋の大同生命舘(本店)とともに、戦後の近代洋風建築の傑作といえよう。
※2005年8月16日追記・・・三和銀行として建てられたこのビルだが、いよいよ関西資本UFJは邪悪な東京資本三菱に乗っ取られてしまう。数々の文化財を破壊してきたこと以外に何の実績もない東京三菱銀行の建物となる以上、このビルの運命も風前の灯と思われる(-_-;)
右:昭和のはじめ、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で建てられた巨大デパートメントストア、大丸京都店の高倉通側外観。愚かなことだが、大丸京都店の四條通に面した正面は高度成長期に豆腐を切ったような現代建築的外観に改悪されてしまい、高倉通に面したこの部分だけが往時の姿をとどめている。1928年の竣工である。

  

左:大丸本店と異なりこの京都店内は昔のインテリアはあまり残っていないが、本館東階段は唯一オリジナルのまま保存されている。これは階数板。なお、僕が学生時代、毎年ここでお歳暮、お中元承り係のアルバイトをしていた頃は、従業員用の手動エレベーターが三機(OTIS社製が二機、A.B.SEE社製が一機)現役で働いていた。全て現存しないのも大変に惜しまれる。
中:階段天井の漆喰レリーフ。照明が蛍光燈なのがマッチしていない。
右:地下へ降りる外階段の色石製モザイク。天井も含めアラベスク調の意匠は、同じ建築家によって同時期に建てられた大丸心斎橋本店と共通する。

  

左:蛸薬師通の古い京町家(豆腐料理店となっている)。かつてはこのように葦簾(よしず)を垂らした建物がずらっと並び、エリアによっては近代洋風建築も数多くあった京都の街だが、この写真を見ても分かるように今では町家の方が少なく、大半は不細工極まりなく何の美意識もない現代建築と化してしまっている。歴史文化都市としては、世界水準からすると最早B級といわざるをえないだろう。無能で愚かな行政の責任である。
例えばパリやロンドンは、有名なマルロウ法(フランス共和国の文化財保護法の通称)などで、景観を厳しく守っている。しかしそれによって経済的な発展から取り残され博物館都市と化しているかといえば、そうでなはい。むしろ、自らの歴史と文化に誇りを持ってそれを守り通すことにより、文化都市としてのみならず、政治都市として、そして経済都市としても世界の第一級の都市としての地位を保っているのである。然るに京都は、大阪は、神戸は・・・・・・。自らの歴史を恥じるがごとく、エコノミックアニマルと化し歴史的景観を破壊しまくっている。伝建地区三條通でも代表的なランドマークだった第一勧業銀行京都支店、京都のメインストリート烏丸通と交差する烏丸三條に威風堂々たるファサードを見せていた辰野金吾設計の明治の赤煉瓦建築が、日本建築学会挙げての反対を押し切り無残に破壊されたのは、バブル経済などとうに崩壊してからのことである。そごう心斎橋本店など、未だに破壊の危機に瀕している重要建造物は数限りない。そうすることによって関西の経済的地位は向上しているのか? それどころか、首都圏との相対的な格差が広がる一方なのではなかろうか。いい加減に目を醒まさないと、近畿圏の将来には明るいものを見出しえないと言わざるを得ない。
中:中京の街にある、大正建築らしい呉服問屋。下京〜中京にかけては、このような小〜中規模の近代洋風建築がまだまだ沢山残っている。
右:隣接する土蔵と煉瓦蔵をつなげて再利用した、雑貨店「田中屋」。このように物の値打ちの解る町衆ばかりだと、もう少し町並みが残ったのであろうが・・・。

上:国指定重要伝統的建造物群保存地区である、三條通。その中でもシンボル的存在であるこの建物は、国指定重要文化財の明治建築(1906年)、辰野金吾設計の旧日本銀行京都支店(現京都府立総合博物館)である。赤煉瓦に白い御影石の帯を通した俗に“辰野式”と呼ばれるフリークラシシズム様式による見事な銀行建築で、内部も忠実に復元されている。それにしても、向かいの会社の看板と、電信柱が著しく景観を損ねている。伝建地区ぐらい電線を地下に埋設してはどうかと思うのだが、鴨川にポン・デ・ザールの粗悪なコピーを架けようなどという愚かな計画に出す金はあっても、こういうところに出す金はないらしい。
三條通は明治の最初、近代京都の最初のメインストリートとして発展を遂げたため、明治期の近代洋風建築が多数現存している。狭い三條通は市電を通すことができなかったため、明治後期以降はオフィス地区が烏丸通などに移ったことも古いビルが多く残る要因となった。内部の写真

上:三條通の景観保存運動に火をつけた、中京郵便局。この素晴らしい明治建築は取り壊しの危機にさらされたが、大揉めに揉めた末に外壁保存(内部の鉄筋による建替え)と屋根の復元により、外観は完全に元の姿を保っている。設計は逓信省営繕課(吉井茂則・三橋四郎)、竣工は明治35年(1902年)。

 

左・右:東洞院通三條上ルにある、仏教系出版社、平楽寺書店の社屋。裏手には和舘が接続している。恐らく大正期のものであろう、可愛らしい洋館である。からきや工務店の設計・施工により昭和2年に竣工。登録有形文化財。

 

左:上の書店の真向かいにある、木造純和風の旧京都市立初音中学校。(2002年春頃に破壊され現存せず)
右:所々、このように町家が繋がる街並みが残っている。

  

左・中・右:どういう訳だか外観を撮り忘れているが(^_^;)、三條通に面し、大正時代(1916年)に不動貯蓄銀行京都支店として建てられた、現「サクラ」の内部。大正期のドイツ・ゼセシオン様式の三階建だが、なんと鉄筋コンクリートでも組積造(煉瓦積みや石積み)でもなく、木造コンクリートのタイル張りという極めて珍しい構造である。現在はSACRAという名前のファッションビルとなり、お洒落なバーや面白いブティックなどが入居して、とても楽しい空間となっている。僕が携帯電話につけているTINTINのストラップはここの三階で買ったものだ(※二千三年七月、機種変更まで使用)。外観は⇒<増補>

左:三條通の明治赤煉瓦建築群中最も異色の作品、旧家邊時計店。建築当初は高く時計台が聳えていたとのこと。これも煉瓦造ではなく、木造煉瓦張りの建築である。一階正面の三連アーチに柱がないが、このような芸当も煉瓦張りだからこそできることである。ちゃんと煉瓦を積み上げていたら、柱なしでアーチを支えるなどという不気味なことは物理的に不可能である。明治23年(1890)と京都でも最古級の洋館である。

右:麩屋町三條界隈に集中する京都の三大超一流老舗旅館の一つ、麩屋町三條下ルの炭屋旅館。近くの柊家、俵屋とともに、見事な数奇屋建築である。一泊二食付で最低三万円以上はするが、本格懐石料理が出るわけだから決して高いともいえないだろう。

  

左:町家の玄関に素敵な門灯がついていた。こういった小物を見つけるのは、古い建築を見る醍醐味の一つである。
中:京都はまだ街中いたるところに、仁丹の広告入りの昭和初期の町名表示板が残っている。一番上には、右から左に中京區と書いてある。
右:京都は道が狭いので、車が建物をこすらないように角に大きな石を置いて壁を保護しているところが良くあるのだが、ここでは更にその石を保護するために大掛かりに目立つ柵で囲ってある。これでは石は用をなさず、何のためだか最早用途不明に陥っている。殆ど庭石扱いだが、鑑賞するには赤い柵が邪魔だし、製作者の意図が全く読み取れない。見ようによっては、石が逃げないように柵で囲っているようにすら思えてくる(^_^;)。いわゆる“超芸術トマソン”の一種といえよう。

ミニコラム「京都の地名表記法とわらべ歌」

 京都の洛内の住所表記には、殆ど町名を用いない。番地も使わない。それじゃどうするのかというと、京都の街は完全な碁盤目状で、しかも殆どの道には名前がついている。従って縦軸(南北)と横軸(東西)の道の交叉点を基点に、そこから上ル(北へ)、下ル(南へ)、東入ル、西入ルで全て用が足りてしまうのだ。
 例えば、伯爵の母校の正門は今出川通に面していて、烏丸通との交叉点(烏丸今出川)から東に入ったところにあるので「京都市上京區今出川通烏丸東入ル」になる。西門は烏丸通に面していて烏丸今出川の交叉点の北側にあるので、「京都市上京區烏丸通今出川上ル」になる訳だ。正式にはそのあとに町名と番地(京都市内はあの悪名高い住居表示法は一切施行されていないので、○番○号という住居表示ではなく○番地という地名地番のままである)がつくのだが、公的書類以外にはまず用いられない。大きな通に面した小さな民家などの場合、「京都市下京區五條通河原町西入ル南側」などと通のどちら側か書き加えることもある。また、名前のないごく小さな路地(ろうじ)などの場合、「○○通●●下ル三丁目東入ル」等と表記することもある。この場合の三丁目は町名の一部としての(例えば「新宿區新宿二丁目」のような)三丁目ではなく、交叉点から三本目の路地ということで「三筋目」とも表記する。郵便も宅配便も、全てこの京都式の表記法に従って配達されるのである。
 全ては網羅していないが、中心部の東西の通についてはわらべ歌で憶えることができる。運送会社、タクシー会社など、新入社員はまずそれを覚えるところから始まるそうだ。北の丸太町通から南の五條通まで、「丸竹夷に押し御池♪ 姉さん六角蛸錦♪ 四綾佛高松萬五條♪」となっている。即ち丸太町・竹屋町・夷川(家具屋街)・二條・押小路・御池・姉小路・三條・六角・蛸藥師・錦小路(市場で有名)・四條(デパートの並ぶ繁華街)・綾小路・佛光寺・高辻・松原・萬壽寺・五條(国道一号線)、以上の計18の通である。中心部の南北の通についても同様のわらべ歌があるそうだが、今では廃れてしまって一般には唄われない。
参考⇒<増補>

左:中京區麩屋町通御池下ル東側、京都の三大名門旅館の一つ、俵屋旅館
右:その真向かい(西側)、柊家旅館。前頁の炭屋旅館を合わせ、この三つが非常に有名な純和風数奇屋造りの高級旅館なのだが、現在柊家のすぐ隣にマンション建設が強行されようとして、社会問題化している。

 

左:中京區三條通御幸町東入ル、昭和初期には超モダン建築であったろう、旧毎日新聞京都支局。建築家若林広幸氏により1928 ビルとして再生された。後姿はあらた少年(当時17歳)。その名の通り、昭和三年に武田五一の設計で建てられている。
右:正面から見上げる。大変な名建築であった大阪本社を破壊してしまった毎日新聞社だが、伝健地区三條通に面したこの旧京都支局はギャラリー、レストラン、イベントホールなどとして見事に再生された。

上:京都帝国大学建築学科を築いた初代教授武田吾一博士の設計で1927(昭和2)年に建てられた京都市庁舎。ネオ・ゴシック様式の荘重な名建築であるが、建替えの噂もちらほらと聞く。実に嘆かわしい。しかも河原町通を挟んですぐ東には、企業エゴで京都の街並みと景観を無神経に破壊し京都佛教會全体を敵に回したことで悪名高い京都ホテル(=ニチレイ)の醜悪極まりないビルが、東山三十六峰の稜線を無残に断ち切っている。

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