骨董建築写真館 東京編・其ノ参
骨董建築写真館

東京編・其ノ参

上:東京編の其ノ参は二千三年六月と七月、二度の東下りの折の写真で構成する。まずは聖橋。表現主義的な美しい橋である。吉田鉄郎と並ぶ逓信建築の雄、山田守の設計で1932(昭和2)年に竣工。


  

左:六本木ヒルズのバカラショップで見つけたバカラのドラえもん。なんとこれで七万円である。こんなものを買う馬鹿がいるのだろうか? 正直、ただで貰っても処分に困る代物である。六本木ヒルズというのは本当につまらなくくだらないところで、随分ぐるぐる回ったのだが、写真を撮ったのはこの一枚のみだった。
中:ヒルズの裏手で見つけた、何やらちょっと怪しげで得体の知れない雰囲気のある研究所。丁度例の狂信的反共カルト宗教「千乃正法」こと「パナウェーブ研究所」の奇矯な振る舞いが話題になっていた頃なので、思わずシャッターを切っていた。
右:赤坂のホテルから六本木方面に登っていく途中で見つけた、昭和初期のものらしいモダニズムスタイルの洋館。今でも住宅として現役である。


 

左:いきなり場所が飛ぶが、JR吉祥寺駅前のハモニカ市場。駅前の一等地に、ごくわずかだが敗戦直後の闇市の雰囲気を残す古い市場が残っていたなかなかいい感じであった。吉祥寺では僕の親友変な子嬢の慶応義塾大学時代の親友で僕も親しくしている電通本社勤務の才媛有里子嬢と、電通の男の子がやってるジャズバンドのライブを聴きにいったのだ。そのあとは電通の会長秘書など若手女性陣プラス新入社員のイケメンくんと沖縄料理を食べに行ったのだが、なかなかに美味であった。吉祥寺はタツヤ宅もあるのでよく知っているつもりだったが、なかなかに面白いところである。
右:ハモニカ市場の店に貼られていた貼り紙。


 

左・右:これも吉祥寺にて見つけた、古い洋館の歯医者、松本歯科医院。入口がサッシ戸に変わっているのがちょっと残念。
※2003年12月19日追記。伯爵が加入している近代建築メーリングリストの情報によると、既に更地になってしまったとのこと(>_<)

 

左:これも吉祥寺を歩いていて発見した謎の公立施設。某関西系引越し大手じゃあるまいし、武蔵野市立ゼロイチニサン吉祥寺って何やねん?
右:こちらは新都心、汐留にて。電通本社に勤務している伯爵の友人、本物のシロガネーゼである有里子嬢(詳しくは2003年2月8・10・11日の日記を参照)と、その先輩T氏のところに遊びにいったのだが、地下広場にニキ・ドゥ・サンファール女史のキッチュなオブジェが設置されていた。


 

左:これが電通本社ビル。五十七階建のビルをテナントも入れず自社だけで使ってるのだからすごい。ジャン・ヌーベルの作品である。
右:これもドゥ・サンファール女史の作品。


 

左:これは再建なった汐留駅。レストランとなっている。
右:ここからは銀座である。この界隈にはこういう近代洋風建築がまだまだ結構沢山残っている。明治屋本店側面の外観。


 

左・右:銀座通りに面した、有名な輸入食料品店である明治屋の本店。明治屋は堺筋本町の大阪支店も近代洋風建築である。

  

左:京橋の近くで見つけた、昭和初期のものと思しき雑居ビル。後ろの方は店舗化しており、外壁にすごい改装が加えられている。
中:非常にユニークなスタイルの、京橋の親柱。
右:警視庁京橋交番。今は亡き京橋のスタイルをものすごく意識した、非常に下品でキッチュなポリ小屋である。税金の無駄遣いもここにきわまれり。


 

左・右:銀座の裏通りにある、昭和初期の近代洋風建築、米井ビル(中央区銀座2-8-20 /1929年竣工 /設計: 森山松之助 )。二階より上はかなり改装の手が入っているが、一階基壇部は美しい。なお、僕のハンドルネームの元である芦屋の老舗アンリ・シャルパンティエが一階のテナントとして入っている。


 

左・右:ハンバーグで有名な老舗洋食屋「ツバメグリル」が入っているビル。銀座通側から見たのでは判らないが、こうやって裏手に回ると近代洋風建築であることがわかる。四階以上の外壁はスクラッチタイルであるので、ひょっとしたら大正期かもしれない。


 

左:ツバメグリルのビルのエレベータ。どう見てもオリジナルではないが、それでも既に動かなくなっていた。
右:銀座裏手の近代洋風建築群の中でも最も保存状態がいいものの一つ、奥野ビル。場所は有名な文房具屋である伊東屋の二本裏手。元はアパートメントだったのが、今では小さな部屋がデザイン事務所やギャラリーになっており、実にいい雰囲気。もし伯爵が東京にもオフィスを構えるならこのビルがいいなぁ、などと思った。六階までのモダンな外観は恐らくオリジナル、七階は建て増しのようにも見えるが、エレベータが七階までちゃんと通っているので、ペントハウスだったところの外壁のみ改装されたのではないかと思える。近代建築メーリングリストの仲間杣邊温さんのご教示に従い、銀座に残る旧式エレベータを見て回った。奥野ビルは旧銀座アパートメントで、中央区の文化財指定を受けている。1932年、川元設計事務所の作品である。

 

左:奥野ビルのエレベータ。これは一階にて撮影。自動駆動、手動ドア式である。元はちゃんと各階に停まっていたのだが、改造され、一階と六階、七階にしか停まらなくなっている。バリアフリーの観点からはちょっと問題ありといえよう。なお、この一階の外扉はオリジナルではない。
右:インジゲータのアップ。停止する階のみ白く塗られている。


上:奥野ビルの階段室。シンメトリーに建てられており、内部にもこのような階段が隣り合って二つある。狭い廊下に狭い階段が入り組み、迷路的な雰囲気もグッドであった。


 

左:奥野ビルの廊下。実にいい。
右:奥野ビルの非常階段だが、朽ちかけている(^_^;)。鑑賞には美しいが、さすがにこれは防災上改修した方がいいと思う。実用性の面では大いに問題ありという感じであった。


 

左:何しろこんな感じで錆々、ぼろぼろである(-_-;)。朽ちるに任せる廃墟も美しくはあるが、現役のビルの非常階段がこれでは人命に関わる。
右:エレベータの操作盤。極めて珍しい形式なのがお判り頂けるだろうか? 恐らくこのエレベータは竣工当時からのもので、最初から手動ドア、針式インジケータながら自動駆動式であったと思われる。全ての階に停止する普通のエレベータだったのを一階、六階、七階にのみ停止するよう改造したときにこの操作盤に付け替えられたのだろうが、行き先ボタンの配列が上からF、@そして電灯のスイッチを挟んで一番下がEなのだ。

 

左:これはオリジナルの外扉であろう、途中階で撮った写真。インジゲータは死んでいる。左の正方形は呼び出しボタンの跡。
右:これは六階にて撮影。外扉はオリジナルである。籠が停止中で、籠の伸縮扉(蛇腹扉)が見えている。


  

左:外扉を開け、籠扉越しに例のボタン配置が変則的な操作盤を見る。右端、真鍮の棒は外扉の内側の把手である。
中:籠内、操作盤の上の注意書。この定員だから、元から運転手は不必要な自動式であったと思われる。改装後のものではあるが、それでも東京03局管内なのに市内局番が三桁である。相当古い。
右:一階玄関ホール、管理人室の入口と受付小窓。


 

左・右:故・鈴木その子女史のお店の看板。左は昼間、右は夜の撮影。故人であるだけに夜はいささか不気味であったが、銀座四丁目の交叉点に高々と掲げられている。


 

左・右:銀座、三越銀座店裏にあった老舗っぽい雰囲気の洋食屋、みかわや。しかし場所が場所だけに、非常にお高くとまった料金設定であった。よって、味が値段に相応しいだけの内実を伴ってるかどうかは未確認。

 

左・右:銀座四丁目歌舞伎座方向にしばらく歩いたところにある、曲面硝子がいい雰囲気のモダニズムっぽいビル。


上:これが東京の歌舞伎座。中之島公会堂と同じ岡田信一郎の設計であるが、入り母屋造り千鳥破風、玄関には大きな唐破風という純和風である。


 

左:更に昭和通まで行くと、このビルがある。改造社書店と右の日の出本店は区分所有されているのか、本来は一つのビルである。日の出の方は経営者のセンスが非常に悪いのか実に何ともひどい改装の手が入っているが、改造社はオリジナルのまま。左隣のビルは既にテナントが出て、取り壊しを待つばかりの風情であった。縦長の窓から戦前の近代建築であることがわかるが、全く無装飾。改装ゆえか、それとも当初からこのようなモダニズムスタイルだったのかもしれない。
右:その廃ビルの階段。鬼気迫る雰囲気が実に捨てがたい味わいである。


  

左:飲んだくれの私立探偵でも出てきそうな雰囲気の二階の小部屋。
中:二階から一階を見下ろす。
右:階段室の天井。

 

左:前頁の廃ビルの一階に貼られていた貼り紙。元は寿司屋だったようだ。
右:銀座からでも電通本社ビルはよく見えた。


 

左:中央区銀座6-11の銀緑館。実は「東京篇・其ノ弐」でも紹介しているのだが、今回昼間にこうしてエレベータを見に訪れてみて、学生時代にも一度来ていたことを思い出した。確か三階に画廊が入っていて、マダムに親切にして頂いたのだ。しかし今は地下のバー「樽」以外は空室が多く、取り壊しの危機もあるのでは、と思わせる雰囲気になっていた。大正時代、1924年頃、つまり関東大震災の翌年の建物と推測されるそう。
右:銀緑館、一階ホールの大理石の壁と古いスヰツチ盤。


 

左:銀緑館のエレベータ。手動ドア式とはいえインジゲータ、呼び出しボタンなど全て新しいものに取り替えられてしまっていて、大きく「手動扉」と書かれていなければ骨董エレベータとは誰も気づかないだろう。
右:外扉を開け、閉まらないように手で押さえながら籠の伸縮戸(蛇腹戸)を撮影。実はこの蛇腹戸もステンレス製でピカピカしている。オリジナルではあるまい。


 

左:廊下の丸窓。
右:階段にあった謎の機械。恐らくシャッターの巻き上げ機であろう。

  

左:銀緑館の近くにあった、殆ど無装飾だが戦前と思われるビル。
中:これは新しいが、千九百三十年代のモダニズム建築を髣髴とさせるデザインのカラオケボックスであった。
右:これも昭和初期のものであろう。中央区銀座7-13-22の磯部ビル。一階は立ち食い蕎麦となっていた。参照⇒<増補>


 

左:中央区銀座七丁目のS電気ビル(昭和九年、吉田享二) 。外観はかなりの改変が加わっているようだが、これも骨董エレベータの残る近代洋風建築である。
右:S電気ビルの一階エレベータホールのインジケータ。天井が低いので、インジケータに合わせ天井が蒲鉾型に凹んでいる。


  

左・中:各階のエレベータ外扉に貼られた注意書。同じ内容だが微妙に違うので、印刷ではなく一枚づつの手書きらしい。
右:一階に貼られた別の注意書と呼出ボタン。


 

左:一階エレベータ全景。外扉はこれがオリジナルなのかどうか、つるんとしたモダンなものである。
右:二階のインジケータ。一階以外は天井が高いので、インジケータが窮屈なことはない。

 

左:停止中に外扉を開け、籠扉(蛇腹戸)と籠内を見たところ。
右:籠内に乗り込んで、運転中の操作盤と籠扉を撮影。蛇腹戸の外側、赤く塗られているのは途中階の外扉で、上部、グレーに見えているのは階と階の間のコンクリート部分(つまり下階の天井であり上階の床)である。


 

左:階段室は如何にもモダニズムでございますといった感じの硝子窓が設けられている。
右:階段室を外側から見るとこうである。今でこそレトロだが、竣工当時はかなり斬新なデザインだったはず。


 

左:高級時計店が入居したためかなり改装の手が入ったが、その代わりに安泰に見える丸嘉ビル。中央区銀座7-7-1で929年の竣工、設計は森山松之助である。軒の西班牙瓦が印象的で、ちょっと大阪の高麗橋野村ビルに似た雰囲気がある。参考⇒<増補>
右:かなり大規模で、ちょっとアパート的な雰囲気もあるモダニズム建築、瀧山町ビル。雑居ビルでライブハウスなども入っており特に下層階の外観にはかなりの改変が加えられているが、カオス的な雰囲気はちょっと香港っぽい。ビルの古さからいうと、むしろ上海的か。昭和三年、三輪幸左衛門の作品である。


 

左:瀧山町ビルヂングの表札。オリジナルではなく中央区成立後のものだが、住居表示でなく地名地番で記されている。
右:玄関部分は上層階まで精緻な装飾が施されている。


  

左:玄関全景。様々なテナントの看板が表示され、怪しげな雰囲気を醸し出している。
中:玄関ホール内部。残念ながらエレベータは実につまらないものに取り替えられている。
右:メイン階段。シンプルな造形が美しい。

  

左:瀧山町ビルヂングの階段を下から見上げる。戦前までの近代洋風建築の場合階段室の吹き抜けにエレベータが設置される例が多いが、このようにエレベータシャフトが別に作られている場合でも、階段に吹き抜けが設けられているのが一般的である。現代では考えられない余裕といえよう。
中・右:このように界隈にはまだまだ近代洋風建築が現存しているが、デザイン的には装飾の薄いモダニズム、インターナショナルスタイルのものが多い。中の写真は西銀座ビル、中央区銀座5-5-5で1936年頃竣工、設計者不詳である。右の写真は尾張町ビルで、中央区銀座6-8-3、1933年竣工、設計はこれも不詳。一階には高級テーラーの英国屋が入っている。

 

左:上段真ん中の写真のビルの最上階の装飾窓。
右:同じビルの階段。金色のタイルが斬新であった。


 

左:海外も含めあちこちでカフェや喫茶店に入り紅茶を飲んできた伯爵が、自信を持って「史上最低最悪の紅茶専門店」だと断言し、太鼓判を手が折れるまででも押し続けたい、「マリアージュ・フレール」(-_-;)。この店が如何にどれほど最低最悪であったかはちょっと筆舌に尽くしがたいほどである。こういう店がありがたがられ、銀座の超一等地で一流店でございますと大きな顔をして長年営業していられるのだから、この都市の“本物を見抜く目”は一体どうなっているのだろうか? そもそも、欧州における紅茶の本場は英国であって仏蘭西ではない。つまりフランス語の店名という段階で既に無茶苦茶に胡散臭いのだ。実際入ってみると、金はあっても品格も教養もなさそうな連中が主たる客層で、ギャルソンも慇懃無礼なだけで紅茶の説明も満足にできない体たらくであった。そしてお値段だけは世界的に見ても超一流で、紅茶とケーキだけで2000円である。暴力バーも顔負け、もはや泥棒といっていい料金設定だ。そしていざ紅茶を飲んでみると、妙に味気ない。まるでペットボトルの紅茶のような味である。おかしいと思ってポットの蓋を開けようとすると、なぜだか全然開かないのだ。あり得ない話である。どうにか無理矢理こじ開けてみたら、なんと茶葉が入っていないのである!!!!!!! 世界中にどれだけ喫茶店があるのか知らないが、高級店を自認し、やたらもったいぶって大仰な説明つきで紅茶や日本茶や中国茶を飲ませる店で、ポットや急須に茶葉が入っていないところが他にあるだろうか!!!!!!!! まさにあり得ない。信じがたい。悪夢かと思った。驚くべきことである。紅茶なぞ、一回一回湯を沸かし、ポットに適量の葉を入れて、蒸らさない限り、ちゃんとした味が出るわけがない。なのにこの店では、大鍋で大量に作った茶を注文毎に柄杓ですくってポットに移して持ってくるだけなのである。手間はかからないだろうし、色さえつけばいいのだから葉も非常に節約はできるだろう。しかし、専門店、高級店のするべきことではない。呆れ返った・・・。この店がどれほどお粗末であったかは「阿修羅チャンネル」で「ムジカ」の堀江俊樹マスターとの対談でもたっぷり語っている。お時間のある方はどうかお聴き頂きたい。ちなみに紅茶を英国式にポットで供する店としては日本最古の老舗である「ムジカ」では、ポット・オブ・ティーとケーキのセットは六百五十円なのである。
※一般人を装ってはいるが、 おそらくこの店の関係者と思われる人物による程度の低い嫌がらせカキコが、二度に亙ってゲストブックに書き込まれた。何とも姑息なことをするものである。(2004年3月1日追記)
右:映画「ゴジラ」で壊されることでも有名な、銀座のシンボル服部時計店(和光)。昭和7年に建てられた、渡邊仁の手になる流麗なアール・デコ建築である。



 

左:有楽町駅前のモダンな近代建築、平和生命館。ここまでモダンだと、もはや注意深く見ないと戦前の建物だと気づかない。竣工 1932(昭和7)年、所在地 東京都中央区銀座3-2-16、設計は国枝博で、当初の名前は菊正ビルだったとのこと。

右:有楽町の名物建築だった東邦生命館(銀座ビルディング)の破壊現場に行き当たった。自らの蛮行を恥ずるがごとく解体業者によって完全にシートで覆われていたのだが、たまたまダンプカーが入るところに行き当たったので、玄関周りの美しい装飾が無残な姿になっているところを撮影できた。中央区銀座3-3-1、1931年竣工、設計:は徳永庸で、当初の名前は第一徴兵保険ビルだったとのこと。


 

左:同上。
右:なぜだかポーズをとってくれた警備員さん。

 

左:銀座の表通りにあるアール・デコの清華、教文館ビル(中央区銀座4-5-1 /1933年)。著名なチェコ人建築家、アントニン・レーモンドの作品である。当初より外観は装飾が少ないのだが、今では外観には殆ど昔の面影は残っていない。しかし玄関ホールの天井などに、往時の繊細な装飾が残っている。
右:玄関ホールの階段。シンプルなデザインである。


 

左:階段室の古風な消火栓。オリジナルかもしれない。
右:玄関ホールを奥から見たところ。天井の美しさに注目。回転ドアも当時としてはかなりモダンだっただろうステンレス製である。


 

左:日本基督教団銀座教会。たまたま昼礼拝に行き当たったので、礼拝に参列した。我が日本基督教団の中ではメソジスト系に属する教会である(伯爵は組合教会系に属する)。日本のプロテスタント教会としては屈指の大教会にしてかなりの古刹なのだが、建物は非常に下らない。高度成長期にかつての大聖堂をこのように超下らないコンクリートの箱にしてしまった。しかも以前は一階に悪徳高利貸し住友銀行がテナントとして入っていて、これが本当に教会かというひどい様相であった。バブル崩壊してテナントの入り手がいなくなったことが幸いして、今は一階は教会直営のギャラリーなどになっている。
右:聖堂内部。普通の教会と違い、正面祭壇側にパイプオルガンが設置されている。


 

左・右:銀座の表通りにも、時々近代洋風建築が残っている。夜の撮影なので不鮮明(^_^;)。これは越後屋ビルディングで、データは中央区銀座2-6-5 /1931年竣工 /設計: 小川千之助となっている。


上:有楽町駅前のビアレストラン「レパンテ」。残念ながら既に閉鎖され、破壊を待つばかりであった。大正建築とのこと。

 

左:有楽町、マリオン前の近代洋風建築レストラン「可口飯店」。比較的安価で美味しい飲茶&タイ式すき焼の店なのだが、この建物での営業はまもなく終了、ビルは破壊されてしまうとのこと(ToT)。参照⇒<増補>
右:同店の二階内装。


 

左:JR山手線の原宿駅。設計者不詳、建築は1924(大正13)年とのこと。
右:同駅舎玄関上部にはステンドグラスもある。


上:一泊だけ和式旅館にも泊ってみた。地下鉄東大前駅から歩いてすぐ、結構静かな環境にあって、戦後のものではあるがかなり古風な木造二階(一部三階)建であった。鳳鳴舘という。部屋は広いし、値段は格安だし、穴場である。男湯が「ローマ風呂」と書いてあったので期待して入ってみると、普通の大浴場で壁のタイルモザイクがローマらしき図柄であったのはご愛嬌。


 

左:鳳鳴舘の玄関。
右:同じく廊下。

 

左:鳳鳴舘玄関のシャンデリア。
右:同館の真向かいにある古式ゆかしい昔ながらの下宿屋、「本郷館」。細い道が迷路のように入り組んだ街並みである。明治時代の建物とのこと!! 参照⇒<増補>


 

左:同じく鳳鳴舘の向かいにあった近代洋風建築、求道會舘。これで「ぐどうかいかん」と読むと思いきや、キリスト教的に「きゅうどうかいかん」なんだそう。実際小規模な公会堂か教会のように見えるが、実は仏教建築である。建っているのはぐずる小学生に手こずっている通りすがりのお母さん。
右:求道會舘の説明版。これによると都の有形文化財に指定されていて、建てられたのは大正四年、設計者は京都帝国大学建築学科の創設者武田五一博士である。


 

左:求道會舘のファサード上部。
右:求道會舘正面。とにかく道が狭いので、撮影に苦労した。


 

左・右:JR山手線の窓からよく見える、高田馬場の現代洋風建築。何ともものすごいゴシック建築である。前々から気になっていたのだが、今回やっと高田馬場駅で降りて、前に立ってみることができた。たまたま定休日だったので入れなかったが、案の定結婚式場である。なんで結婚式場ってこういうセンスが多いのだろうか? まぁ面白くはあるが。

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