骨董建築写真館 京都篇・其ノ拾
骨董建築写真館

京都篇・其ノ拾


上:京都篇・其ノ拾は京都篇・其ノ九の続きからはじめる。よってこれは2004年4月22日に撮影した写真である。この写真は京都府立図書館京都市立美術館の向かいにある。近代京都を代表する建築家武田五一の中でも稀少な明治期のものなのに、今世紀に入ってこのように剥製化されてしまった。暴挙としか言いようがない。本当に、現知事になってから京都府の文化行政は荒廃する一方である。元は明治42(1902)年に竣工している。


 

左:東山から左京区を流れ下る白川は南禅寺船溜りで一旦疎水に合流し、藤井有隣舘横からまた分流し祇園方面へ流れ下る。これはそのまた支流に置かれていた鯉の玩具。結構リアルだった。
右:疎水から分かれてすぐの白川。


 

左:京都には古いものが本当によく残っている。この琺瑯製の仁丹広告入り町名表示は昭和のはじめのものだが、まだまだあちこちで健在である。東山区の分離は戦後のことなので、下京区となっているが、三條通北裏白川筋西入ル二丁・東姉小路町という非常に長々しく京都らしい地名表記である。解説すると、三條通の一本北側の無名の通りと白川筋の交叉点から西へ二ブロック目の東姉小路(あねやこうじ)町、ということである。
右:更に南下、三條通に出る。これは三條白川東入ル、地下鉄東西線東山駅付近で見つけた洋館造りの商家。先年までは京阪電車大津線の路面電車、東山三條電停があった辺りである。


 

左:同じ商家の立派な看板。石造だろう。
右:その真向かい、古川筋商店街の入口にある今はもうやっていない理髪店の正面ファサード。これも昭和初期ぐらいの建物だろう。


 

左:同じ理髪店の東側ファサード。こちらは古川筋のアーケード内である。キタガワという屋号であったことが判る。
右:古川筋のアーケードを南下すると、中ほどにこの市場がある。二階の窓を見ると、木製サッシの上げ下げ窓なので、戦前期の洋館であろうと思われる。


上:歩きつかれて祇園の喫茶店、「たんぽぽ」で休憩。左が八歳児、右が共同管理人の風太である。


上:すっかり暗くなった。東華菜館の古風な看板がいい味わいである。


上:しかしこの日の夕食は東華菜館ではなく、木屋町の老舗「コロナ」へ。この写真はこのギャラリーの目次にも置いているが、「コロナ」の名物、巨大な卵サンドヰツチである。

上:建築だけを撮影するために回っているのではないので逆光なのはご容赦願いたいが、2004年4月23日に撮影した、中京区烏丸通蛸薬師下ル西側の北國銀行京都支店である。1916(大正5)年に辰野片岡建築事務所の設計で建てられた。煉瓦は化粧煉瓦で、鉄筋コンクリート造となっている。
※なお、この写真を撮影した直後、2004年7月を持って銀行としての営業は終了、以降はアートイベントなどに活用されている→<増補>

上:旧京都商工銀行本店中京青年の家として京都市が使っているが、文化財を破壊することしか考えていない京都市により今ではこのように剥製と化してしまった。 1908(明治41)年竣工の貴重な明治建築だったのだが。設計は藤森松太郎(清水組)である。


上:京都の老舗、イノダコーヒの本店である。完璧な京町家スタイルだが、実は近年火災で焼失し、再建されたもの。志さえあれば、このように街並みは守られるのである。なお、奥の人が立っているところが正面玄関。


 

左:ここから2004年5月6日の撮影である。伯爵の母校同志社大学の裏手、相国寺東側で見つけた洋館付の長屋である。昭和初期ぐらいだろう。
右:同じく昭和初期ぐらいと思われる二棟繋がりの洋館タウンハウス。


上:壁に組み込まれ、玄関の内外を照らす門灯。このような円形のもののほか、長方形のものも伯爵が子供の頃までよく見られた。戦前のものだろう、最近はめっきり見かけなくなってきた。


上:これも同じく上立売寺町界隈で見つけた塀だが、意匠が寺院建築のようで面白い。


上:出町橋、河合橋を渡ると出町柳の駅である。駅前の細い名無しの通りを更に東に進むと、煉瓦塀、洋館附設のかなり規模の大きな数奇屋住宅がある。


上:同じ邸宅を門から見る。左が西、奥が北である。

 

左:百萬遍の近くで見つけた仁丹町名板。なお、この辺りは現在左京区だが、これは左京区がまだない時代のものなので、上京区になっている。
右:百萬遍交叉点から今出川通を少し西に行ったところにある看板建築。僕の学生時代は中華料理屋だったと思うのだが、このときはバイク屋になっていた。


上:これは出町柳の駅前通を東に行って百萬遍の手前で見つけた古い商家建築。上の仁丹町名板はこの建物の二階窓際である。従って出町柳駅前通は「東今出川通」らしい。驢馬型の変な自動販売機があった。


 

左:なんと、これはテレクラ用カードの自動販売機だったのだ。京都帝国大学のすぐ近くなのだが(-_-;)
右:この辺り、立派な商家建築が多い。


 

左・右:上の写真の右側の酒屋の右手にあったトロッコの線路。鎌倉・若宮大路の三河屋酒店のものとそっくりである。


 

左:今出川通に出て、百萬遍交叉点つまり東山今出川の交叉点を渡り、今出川通を東進する。百萬遍知恩寺の近くで見つけた、戦前物件の散髪屋さん。一階のタイルはオリジナルかとも思うが、ひょっとしたら戦後の改装かもしれない。オリジナルだとしたらかなりモダンだったことだろう。
右:いかにもノーベル賞の産地、京大の門前町らしい、古風な実験器具屋さんのショーウィンドウ。何しろ木製建具である。


上:有名過ぎるほど有名だが、京都を代表するカフェー(決してカフェではない)の一つ、京大北門前の進々堂。創業者続木済自らの設計で1930年に建てられた実に味わい深い洋館である。創業は更に遡る1913年。


上:二階の窓にはステンドグラスが用いられている。


上:入ってすぐはパン屋さんで、右側から奥が喫茶室になっている。店内は撮影禁止なのだが、幸いこの日は定休日だったので、表扉の硝子越しに撮影できた。左側、タイルの腰壁が素敵である。


上:同じく店内。左が売店、右側が喫茶部である。


上:喫茶部の奥、ガラス戸の向こうは中庭で、そこでも飲食できる。

 

左・右:中華民国=台湾系の留学生寮である光華寮。1931年であるからインターナショナルスタイルとしてはかなり早い時期の作品で、設計者土浦亀城である。なお、光華寮事件の舞台としても有名になった。


 

左:今出川通と山中越え道の分岐点に立つかなり巨大な石仏、子安観音。「太閤の石仏」とも呼ばれている。
右:今出川通の南側、吉田山の麓に建ち並ぶ町家。といっても地形の制約もあり、鰻の寝床ではなく奥行きはごく浅い。


 

左:今出川を更に東進、北白川の銀閣寺道交叉点の手前、つまり今出川白川西入ル北側にある、レトロな洋館型店舗。今は居酒屋だが、戦前はもっと洋風の商売だったのだろう。
右:同じ建物のハイカラなアーチ窓。


 

左:旧橋本関雪邸の一部だったらしい洋館がリストランテになっている。
右:橋本関雪の旧邸「白沙山荘」である記念館


 

左:銀閣寺門前にある木造三階建ての酒屋さん。
右:同じく銀閣寺門前にある疎水分線にかかる橋。手前が下流、この橋より奥の上流が哲学の道である。ただし、この疎水分線、京都の地勢に逆らって、南から北に流れているので、写真奥が南、手前が北、右が西で左が東である。


上:これが哲学の道。北から南、つまり上流方向を向いて撮影。観光シーズンの休日になると結構人通りが激しくなるのだが、この日は幸い非常に静かであった。


上:哲学の道の周囲は、基本的に閑静な昭和初期の、当時の新興住宅地である。このような洋館も所々残っている。


上:賃貸マンションだが、マンションという言葉にまだ非常に高級感があった時代、1970年前後のものと思われる。「銀閣寺荘」という名前も渋い。


上:これは洋館附設の「文化住宅」。


上:洋館スタイルの戦前建築。アパートだろう。


上:かなり暗くなってきた。発泡スチロール箱の中にいた仔猫。風太がばてたため、この日の探索はこれまで。あとはバスに乗った。

上:元帝國京都博物館、旧京都帝室博物館、つまり現京都国立博物館の正面ペディメントを見上げたところ。篆書体の文字は見事にマッチしているが、現在の名前となった戦後に書き改められたもののはず。


上:同じく。西面している本館の北翼側正面ファサードである。この二枚のみ2004年9月12日の撮影。このページを作成しているのが2005年9月13日未明なので、丁度一年前である。


上:これが西側の正門。今では南側、七條通に面した門のほうがよく利用されている。しかし本館と同時に建てられたのはこの門で、この門も重要文化財に指定されている。ここからは2004年7月4日の撮影である。


上:もう一歩引いて撮影。本館も見えている。塀、門、本館とも重要文化財となっている。明治期の宮廷建築家、片山東熊の設計で、百年以上前の1895(明治28)年に建てられた明治建築である。


上:正門から入ったところで、本館を撮影。ほぼ全景が入っている。博物館として建てられているので窓がないのが少し異様、そして建設中に名古屋方面を襲った濃尾地震の影響で三階建ての計画が平屋にされたため屋根のバランスが悪いなどの欠点はあるが、わが国に建てられたネオ・バロック様式の宮殿建築としてはその規模、質ともにトップクラスのものである。


上:更に近づく。実はこれはコレギウム・ムジクム・テレマンのミュージアムコンサートを聴いてから退出時に撮影しているので、時系列的には逆に並べている。なお9月12日も同じくコレギウム・ムジクム・テレマンのコンサートだったのだ。


上:構図的には更に近づいたところ。実はこれは開演前の撮影なので空の雰囲気が少し違う。


上:これから入るところ。暑い日であった。


上:通気口一つにも美しい装飾が施されている。


上:正面石段上から正門を見る。


 

左・右:館内の扉。いづれも極めて大きく、ペディメントを載せて重厚に装飾されている。木製である。


 

左・右:コンサート会場となった大広間に入る。白一色で素晴らしく美しい。この部屋は正面玄関入ってエントランスホールのすぐ奥、この建物の主室で「彫刻室」と名づけれていたが、かつては隠されたもう一つの重要な役目があった。建設当初、この部屋は明治天皇の京都行幸に際し、臨時玉座の間とすることを前提に作られたのだ。


上:コンサート開始直前の光景。このようにチェンバロを囲んで席が配置されている。この雰囲気である。フリードリヒ大王にサンスーシ宮殿でのコンサートに招かれたかのごとき雰囲気であった。


 

左:同じく会場風景。
右:宮殿を出て、七条通を西へ向かう。とおりの南側に、蔦に絡まれた古い木造下見板張りの商店建築があった。


 

左:これも七条通にて。昭和戦前期のものと思われる、恐らく鉄筋コンクリート三階建ての商店建築があった。
右:さて、これは祇園祭の山鉾の一つ、函谷鉾である。2004年7月15日の撮影。


上:これも函谷鉾会所か? 祇園祭では、各山鉾町の会所では、このようにゆかりの品々が公開される。


上:祇園祭の風景。


上:同じく。これは鯉山である。

 

左:ここからまた、2004年9月12日の行程である。ちょっと傷み激しい仁丹町名表示板。面が異体字になっている。
右:今や世界的有名企業となった任天堂の本社ビル。


上:周辺道路が矢鱈狭いので非常に撮影しにくいのだが、このように鰻の寝床の極み、大変奥行きの深い近代洋風建築である。設計者不詳、検索したところ1930年説と1933年説があるが、いずれにせよ昭和一桁の作品である。


上:任天堂の社章が刻まれている。


上:玄関脇につけられている表札。「トランプ」は左書きで「カルタ」が右書きなのが面白い。地名表記は若干の省略があるが、京都人にはこれで通じる。郵便もこれで届く。正確には京都市下京区正面大橋西入ルで、更にそのあとに町名と番地がつく。


上:同じく任天堂の表札。こちらは英文である。

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