骨董建築写真館 路上觀察・都市探險篇・其ノ壱
骨董建築写真館

路上觀察・都市探險篇・其ノ壱

  

左:仁丹将軍つきの町名表示板三種。いづれも昭和戦前期のものである。まずは奈良市で見かけた「鍋屋町」。(2002年3月採集)
中:京都市中では今でもよく見られるタイプ。「下京區 河原町通高辻上ル 天滿町」と表記されている。京都独特の地名表記法についてはこちらのコラムを。(2002年1月頃採集)
右:伏見市時代の「道阿弥町」の表示板。右から左に「伏見市」と書いてある。現在の伏見区が京都市に吸収合併されるより以前のものである。(2000年7月頃採集)

左:「區」ではなく「区」、「濱」ではなく「浜」の字が使われているので、これは最早戦後のもの。にもかかわらず戦前のものである仁丹将軍より劣化が激しく赤錆が全体に浮いているのは材質の違いによる。古くても劣化していないのは金属の表面にガラス質を焼き付けている琺瑯の技法によるもので、それに対してこれは錻力(ブリキ=鉄板に錫を鍍金したもの)なので、琺瑯に比べて耐久性が劣るのである。
中:これは「伏見區」であるから戦前のもの。ただし「伏見市」ではないので上のものよりよりは新しく、伏見市が京都市に吸収合併されて後のものである。
右:小さすぎてよく解らないが、これは伏見區京町で見つけた戦前の琺瑯製町名表示板。広告が仁丹将軍ではなく近江兄弟社メンソレータムであるところが珍しい。なお建築家、実業家、教育者にして信徒伝道者であったウィリアム・メレル・ヴォーリズが創業したミッション企業である同社は1970年代に一度事実上の倒産をしており、その際にメンソレータムの商標は同じ関西企業であるロート製薬に移った。見事に再建なった同社は現在メンタームの商標で軟膏などを製造している。(以上三点2000年7月頃採集)

  

左:古都奈良の目抜き通りである三條通にある造り酒屋の脇で見つけた地酒の琺瑯看板。(2002年3月採集)
中:奈良市、興福寺の近くで見つけた年代物の木製看板。(同上)
右:京都駅の近くで見つけた古めかしい旅館。「あずま」「でなはなく旧仮名で「あづま」となっている。但し玄関がサッシ戸に変えられてしまっているのがとても残念。(2002年3月採集)

 

左:伯爵が子供の頃にはまだまだあちこちに表示されていた公衆電話の標識。当時の一般的な公衆電話とはいわゆる“赤電話”で、使用できるのは十円玉のみ、もちろんプッシュホンではなくダイヤル式であった。この標識は2002年4月に東京で採集。場所は穢らわしい侵略戦争讃美派の巣窟、靖国神社の参道の茶店である。
右:地方を旅すると、このような古い琺瑯看板の沢山表示された農家、納屋、商店などを見つけることができる。ここの場合看板表示場所としての価値はいまだ現役らしく、現代の高利貸しの看板も多数貼られている。(2002年3月・別府市にて)

  

左・中:このような琺瑯製の古い標語看板、広告看板などを探すのも都市探険の楽しみの一つである。左の写真は「會」と旧漢字が使われているが、下のロータリークラブが左書きだし戦前はロータリークラブはなかったであろうから、戦後のものであろう。真ん中の写真も「醫院」ではなく「医院」、「小兒」ではなく「小児」であるから戦後のものと思われる。但し電話番号が市内局番なしの四桁のみだから、相当な年代物であることも確かである。昭和二十年代〜三十年代前半ではなかろうか。
右:これは木製看板。「賣捌所(うりさばきしょ)」という古風な表現、旧漢字から見て戦前のものであろう。(以上三点・2002年3月・大分県臼杵市にて採集)

  

左:このような手書きの看板も、街の仕立屋さんも、今では大変少なくなった。昭和三十年代以前に書かれたものと思われる。(2002年4月・東京都台東区淺草にて採集)
中:「浅草」ではなく「淺草」と表記されているが、「會」ではなく「会」なので戦後のもの。琺瑯製である。(2002年4月・東京都台東区淺草にて採集)
右:そのままで「鉄道員(ぽっぽや)」のロケができそうなJR東別府駅の駅名表示。建物は明治45年の建築である。この琺瑯看板もその時のものだとすると、かれこれ九十年ほども前のものということになる。(2002年4月採集)

 

左:京都、祇園にて。「藥」ではなく「薬」であるし左書きなので戦後のものであろう。しかし京都市内の電話番号が6-802ということは、ダイヤル自動通話ではなく交換台を呼び出していた時代のものである。(2001年11月採集)
右:京都・四條大橋西詰の老舗酒楼、「東華菜舘」の看板。古風ないい味わいを出しているし「暖かい」ではなく「温い」であるところが如何にも京都的である。季節に応じて掛け替えられるが、書かれたのは最近ではないだろう。(2001年11月採集)

 

左:京都市下京區西木屋町四條下ルの老舗旅館、「花屋」の玄関にて。これは市内通話がダイヤル自動化された当初に書かれたものであろう。大京都の市内局番がまだ一桁である。(2001年11月採集)
右:京都市伏見區で見つけた民家の玄関先。古い街並みを歩く時は、民家の玄関先の標章類をみるのも楽しみである。丸型の青い物は大阪瓦斯に統合されて今は存在しない旧京都瓦斯の加入者章である。(2000年7月頃採集)

  

左:名古屋の東邦瓦斯の琺瑯看板。「ガス」ではなく「瓦斯」、「売」ではなく「賣」、「邦」の字も旧漢字だから戦前のものだろうが、実は神戸の生田筋の居酒屋の前に貼ってあった。骨董としてコレクションされていたものであろう。(2002年4月採集)
中:高松市では大変に希少な昭和戦前期の建築、高松大和生命舘の一階エレベーターホールにて。「押売」は現用漢字で書かれているが、最早殆ど死語の世界だなぁ。(2002年4月採集)
右:大正時代を代表する名オフィスビルとして名高い大建築家渡辺節の傑作、大阪ビルヂングの一階にて。(1999年3月採集)

 

左:京都市東山区清水坂東大路東入ルすぐにある中華料理店。中華料理店なのに何故かこのような店名である。別にルドルフ・フォン・ゴールデンバウムとかに因んでいる訳ではなさそうだが、謎の店名といえよう。(2001年11月採集)
右:四国の中心都市高松市の繁華街で見かけた、ものすごい名前のカフェレストラン。「サリン」である。解釈の余地がない…(>_<)。(2002年4月採集)

 

左:高松市内で見かけたビジネスホテル。「24時間営業」と書いてあるが、24時間営業でないホテルがあり得るのだろうか? なお、同じことを書いているラブホテルもあった。高松市では一般的な言い方なのだろうか? (2002年4月採集)
右:大分県の泉都別府市で見かけた、その名も「リンドバーグ医院」。本当にそういう名前の人がやっているのだろうか? (2002年4月採集)

 

左:大分市内で見つけたブティック。「三寒四温」と読ますのか? (2002年4月採集)
右:これも大分市内で。新日本製鐵は大分に大製鉄所を持っていて、そこの研修施設らしいが、それにしても“攻玉寮”とは物凄いネーミングである。「こうぎょくりょう」と読むのだろうが、玉を攻めてどうするとゆーのだ(^_^;)? (2002年4月採集)

  

左:別府市内で発見。旧仮名だとこの送り仮名でも良いのだが、現代の文部科学省の統制的な国語だと「貸します売ります」になるから、今の子供はこれを「噛ます生ます」と読んでしまうのではなかろうか? ちょっといやらしい。
中:大分市で発見、「アンジェリック浦田」という看板だが、大分では有名な産院とのこと。そういう名前の女医さんなのだろうか?
右:医者の看板をもう一つ。別府市で見つけたただの電柱広告だが、「財前医院」という名前に目が吸い寄せられた。僕の大好きな小説、山崎豊子女史の傑作「白い巨塔」の主人公、国立浪速大学医学部教授の財前五郎医師と同姓だったからである。九州ではそれほど珍しくない姓だそう。夜、車の中からの撮影なので不鮮明になってしまった。(以上三点2002年4月採集)

  

左:別府市で見つけた、変わった名前の居酒屋さん。「九丁目の八ちょう目」とのこと。
中:吉田哲郎設計の名建築、別府市民会館の前で見つけたアヴァンギャルドなオブジェ?
右:“若い娘さん”が思わず頬を赤く染めそうな名前のビル。別府駅前の目抜き通にて。(以上三点、2002年4月採集)

  

左:財前医院の電柱広告のすぐ横にあった、川の名前の表示。名前が変だということもあるが、「いたち」というのは僕の小学校時代の渾名(本名の姓に由来する)なので、ついつい撮影してしまった。別府市にて。
中:東別府駅の待合室で見つけた、超年代物の掲示板。右から左に旧漢字で書いてある。念のために現用漢字で書くと、「臨時広告」である。
右:東別府駅の近くのJR日豊本線のガード下で見つけた落書き。苔むしたコンクリートを引っ掻いて描かれた作品だが、十字架に人がかけられていたり、「死神」と書かれたりちょっと悪魔チックだったのでシャッターを切ってしまった。(以上三点、2002年4月採集)

 

左:別府市の商店街で見つけた、制服専門店の看板。ペンキ絵の少年少女がいい味わいであった。(2002年4月採集)
右:東京都台東区淺草で見つけた「あそこ」という名前の居酒屋。(2002年4月採集)

  

左:大正十三年に建てられた瀟洒な洋館、「別府駅前高等温泉」の廊下に貼られていた張り紙。「静かにしませょう」とはまた、現代仮名遣いと歴史的仮名遣いの間のような用法である。
中:これまた別府にて。「地獄組合」である。英語にすればhell unionになるのか? こんな組合は世界中探しても他にないであろう。(以上二点、2002年4月採集)
左:別府市の国道十号線沿いで見つけた、旅館の案内看板。間に“の”が入っていなかったらすごい名前になるところであった。(2002年3月採集)

  

左:大阪・新世界にある昔ながらの名画座、新世界公楽劇場(旧・新世界座)の前に貼られている、上映中の映画のスチール写真。
中:スチール写真の隅には“”の文字が。相当な年代物である。
右:新世界で見つけた百円均一食堂。さすが庶民の街である。(以上三点、2002年3月採集)

  

左:当然亜米利加合衆国の大統領府とは何の縁もないであろう、京都の旅館の看板。なぜにこんな名前にしたのだろう? しかも主たる客層は外国人個人旅行者のようだ。だったら尚更もっと純和風の名前、造りにしたらいいのに、と思ってしまふ。京都驛すぐ北側にて。
中:これも京都驛近くで見つけたお寺。もちろん正式名称ではなく通称である。
右:立小便お断りの意を表すミニ鳥居。最近ではあまり見かけなくなったが、さすが京都ではこういう本格的なものにお目にかかれる。(以上三点、2002年2月採集)

  

左:神田古書店街で見つけた珍店名。
中:新宿駅構内に貼ってあった噴飯物のオタク系ポスター。
右:新宿思い出横丁にて。セピアにしてみたらますます敗戦直後の闇市っぽくなった。(以上三点、2002年3月採集)

  

左:新宿思い出横丁にてもう一点。(2002年3月採集)
中:大阪、新世界で見かけた駐車場の立体看板。通天閣のミニチュアで「通天閣モータープール」と屋号が書いてある。“モータープール”も畿内でしか通用しない都会的な和製英語。東京など地方都市ではまず通用しないだろう。
右:これまた有名な、戎橋から見えるグリコの大ネオン。背景は大阪城に通天閣とべたべたである。この建物、実は正面に廻ると消防署になっている。先年まで昭和初期の渋い建物だったのだが、残念ながら建替えられてしまった。したがってこのネオンもその時新調されたもの。(以上二点、2002年3月採集)

 

左:大阪市浪速区新世界で見つけた、何やら楽しげな理髪店のシャッター。(2002年3月採集)
右:伯爵行きつけの喫茶店「ムジカ」から一番近い地下街の入口、ドージマ地下センターのc92番階段なのであるが…。

 

左:よく見ると、JRの文字の下にうっすら「国鉄」と書いてあった跡が…。実はかなりの年代物だったのである(この二点、2002年3月採集)
※2004年、堂島地下センターのリニューアルにより惜しまれつつ消滅。
右:まだあちこちで見かけることができる、逓信省時代の電話回線用マンホール。(京都市下京區西木屋町四條下るにて、2001年11月採集)

 

左:この方が寧ろ希少である。日本電信電話公社(電電公社)の時代は長いが、戦後成立した同公社のマンホールであるので、右書きのものが設置された期間は極めて短いのではないか? (2001年11月採集)
右:大阪駅前第四ビル地下二階にて見つけた、消費者金融の無人契約機。僕の元彼である美少年さかなくん(当時16歳)の渾名が「藤丸」であったので、ついつい懐かしくてシャッターを切る。(2002年3月頃採集)

  

左・中・右:“ならでは看板”三種。左は日本聖公会奈良基督教会の門。県庁所在都市の繁華街でありながら鹿が入るから門を閉めろとある。奈良ならではといえよう。中も奈良ならでは。「鹿の飛び出し注意」という道路標識である。右は町中から湯煙が噴出している泉都別府ならでは、「噴霧注意」の道路標識である。

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