左:「其ノ壱」に引き続き、本編でも二千二年三月及び四月の東下り旅行中の写真をアップしていく。“落日の大日本帝国”というか、凋落する一方の現代日本を象徴するかのごとき見事な夕日であった。この鳥居は靖国神社の大鳥居である。伯爵は何度も東くだりしながらまだ一度も靖国神社の見物に行っていなかったので、丁度いい機会だとタツヤ少年と二人、この日本で最も右側の場所の門をくぐったのだ。なかなかに気色の悪い体験であった。参考⇒<増補>
右:参道の茶店で見つけた古風な公衆電話標識。僕が子供の頃はまだあちこちでこれと同じものを見かけたが、いまや大変にレアな物件になってしまった。大体今時公衆電話から電報を打つ人はいないであろう。
左:いわゆる“靖国の桜”が早くも咲き始めていた。戦争の犠牲者の霊は絶対にこんなところにはいない。いるのはおぞましい戦争犯罪者の亡霊ぐらいのものであろう。
右:穢らわしい血の丸を掲揚するための旗竿が立っていたが、よく見ると「奉納 兵庫縣武庫郡 帝國在郷軍人會魚崎町分會」と刻んである。武庫郡といえば阪神間、つまり伯爵の本拠地である。魚崎町は現在は神戸市東灘区の一部となっている。
右:“右の巣窟”を後にした僕とタツヤ少年は、当初の目的地である銀座にようやくたどり着く。既に日は落ちていて、建築写真には非常に条件が悪い。とりあえず初代ゴジラが蹴り壊したことで有名な「和光」(旧服部時計店)を撮影。ルネッサンスを基調にアールデコを加味した典雅な建物は渡辺仁の設計により、竣工は1932年(昭和7年)6月3日である。
左:画廊が多い銀座の裏通りで見つけたその名も「エンコービル」。僕が見つけたのだが、案の定タツヤ少年も喜んで写真を撮っていた。ルーズソックスにミニスカ制服を着たコギャルが現れそうな名前のビルであった。
左:銀座の裏通りには、まだ時折このような戦前の古いビルヂングが残っていて画廊やレストランなどが入ってる。既に完全に日が沈んでいたので外観は撮れなかったが、これは玄関ホールの天井レリーフとシャンデリア。実にいい雰囲気であった。
中:玄関ホールの床はモザイクタイルで埋め尽くされている。
右:地下のレストランへ下りる階段の親柱。この日の写真は以上。このあとはタツヤ少年と地下鉄で新宿に行き、実は同時期に東下りして「SMアスタロト空間」のSMオフ会に出席していたTなど「空気の部屋」つながりの皆さんと会食。更に僕は皆と別れてから大学の寮以来の悪友で今は毎日新聞東京本社政治部の記者をやっているK上と久し振りに再開、伯爵にとって二丁目で唯一の馴染みの店である「コンポジット」で終電ぎりぎりまで飲む。鈴木宗男の番記者時代の話は実に面白かった。そして国立に行き、一橋大学ドクターコースの学生をしている妹のところで一泊した。
※2003年9月26日追記。このビルの名前は銀緑館で、外観、エレベータの写真を「東京篇・其ノ参」に掲載。
左:帰りがけ、中央線特別快速に乗る前に撮影した国立駅。中央線沿線、武蔵野地区はそこはかとなくわが阪神間に似た雰囲気があって関東ではわりと好きなエリアである。国立の駅舎もお洒落な三角屋根とアーチ窓の洋館であった。設計は河野某、竣工は大正14(1925)年である。
右:こちらも駅の写真である。言わずと知れた東京駅、1914年(大正3年)に辰野金吾博士の設計で建てられた赤煉瓦の大建造物である。
左:とにかく横に長い建物なので、よほどの広角レンズでもない限り全景を収めることはまず不可能。この日はイーゼルを立て絵を描いている人が沢山いた。
右:駅舎内のドーム天井。ただし東京駅は空襲で三階部分と本来の大ドームを喪失しているので(最近新聞に復元が決定したと出ていたので楽しみである)、この部分は敗戦後に修復された部分でオリジナルではない。
左:丸ノ内の近代洋風建築群も殆ど破壊され尽くされてしまった。写真は日本工業倶楽部。大阪・船場の日本綿業倶楽部とともに日本の同業者倶楽部=ギルドホールを代表する名建築であったのだが、まさに建替え工事の真っ最中であった。竣工は大正9年(1920)、設計は横河工務所(松井貴太郎)、保存部分は登録有形文化財である。
右:工事現場を覗き込んでみると、どうやら外壁だけは保存され新ビルの外壁に組み込まれるようである。参照⇒<増補>
左・右:近代建築を建替える場合、名建築の面影を何とか残そうと外壁保存されることも最近は多くなってきた。しかし、その出来不出来の差は甚だしいし、外壁保存が破壊の安易な言い訳手段にされているきらいもないでもない。この東京銀行協会など、外壁保存の失敗作の代表例で、実に醜悪なことになっている。旧ビルは日本工業倶樂部會舘と同じく松井貴太郎(横河工務所)の設計で、竣工は1916年(大正5年)であった。
左:丸ノ内界隈でかろうじて破壊を免れている近代洋風建築、東京中央郵便局。大阪中央郵便局とともに、逓信省営繕課の技師であった名建築家吉田哲郎の代表作である。我国におけるインターナショナルスタイル建築の最初期の例としても貴重な作品で、竣工は1931年(昭和6年)。
右:大阪・中之島の大阪ビルヂング(ダイビル)と共に大正期の日本の代表的オフィス建築であった丸ノ内ビルヂング(丸ビル)は先年破壊されてしまったが、これはその跡地に建てられている“新・丸ノ内ビル”である。なんとも無個性かつ醜悪な現代建築であるが、低層部分は旧ビルのイメージ保存を意図したかのごとき造りになっているが、全く成功していないとしか言いようがない。そこにあるのは美意識の欠如だけである。旧丸ビルは三菱地所部の設計、米フラー社の施工、大正12(1923)年の竣工であった。
上:帰りのJR東海道本線の車窓から、かなりきれいに富士山を臨むことができた。
左:三月の東下りは純也さん、そして妹のところに泊まったのだが、四月に入ってもう一度東下りし、今度はタツヤ少年の世話になった。「東京篇・其ノ弐」後半はその折の写真で構成、この淺草探険も二人して出かけたのである。ということで、まずは雷門を外側から。
右:雷門内側から外側を見る。
左:観光団のおじさんたちに頼まれてシャッターを押してあげたら、お礼にといわれ僕のカメラでタツヤ少年と記念写真を撮られてしまった。タツヤ少年はズボンにアナルパールの如き鎖を垂らしているが、真一少年愛用の品と全く同じなので笑ってしまった。それ以外にもこの二少年の趣味は共通するところが多い。
中:タツヤはアーティストの卵だけあって変な注文が多い。ということで、彼の要望のけったいなポーズでまず一枚。
右:続いて同じポーズで右手のアップを一枚。
左:淺草に来たからにはということで、お決まりの仲見世商店街を歩く。それどころか伯爵は人形焼まで買ってしまった。十個入り250円とえらく安かったのである。
左:淺草寺(せんそうじ)山門前。提灯がちょっと幻想的で素敵であった。
左:淺草は大阪の新世界と大変によく似た雰囲気の街で、随所にこのような歴史を感じさせる看板などがある。
右:大衆演芸場の前で見つけた記念写真用の顔出しボード。モザイクがかかっているのはモデルのタツヤ少年の要望による。確かに間抜けな写真である(^o^)。
左:裏通りにはどこか怪しげであり懐かしくもある曖昧宿が並んでいる。赤いネオンサインがいい雰囲気をかもし出す。この点も新世界と全く同じ。新世界の写真は⇒<増補>
右:明朗会計、とにかく安い。
左:中にはわりと今風のラブホテルもあるのだが、どことなくネオン管がいい味を出していたので写真に撮ってしまった。
右:花屋敷遊園地の裏側にどこにも屋号の書いていない不思議な風呂屋さんがあるのだが、その入口に古風な琺瑯製の表示板があった。「会」が「會」ではなく現用漢字なので、戦前のものではなさそうだが。
左:またしてもべたなネーミングの店を発見。「あそこ」という大衆飲み屋である。大阪の黒門市場にも同名の饂飩の名店がある。
右:商店街につき物の、安手の造花飾り。季節柄桜だったようだ。ちゃんと季節ごとに変えているらしい。
左:ひょっとしたら戦前の建築かと思わせる、インターナショナルスタイルの古いビルヂングを発見。
右:ブロマイドの老舗として有名なマルベル堂の看板。丸山明宏(三輪明宏)のシスターボーイ時代からジャニーズジュニアまで、何でも揃っている。
左:淺草の商店街にて。“メリンス”ってなんだろう? メリヤスなら判るが。参照⇒<増補>⇒<増補>
右:同店のシャッター。ホームレスの就寝を断る張り紙はいっぱいあったが、シャッターに直接書くなんてえげつないことをしているのには吃驚した。
左:明治十二年創業の老舗、「神谷バー」で夕食を摂る。現在の建物は1921(大正10)年に建てられた近代建築。オリジナルカクテル“電氣ブラン”で知られるバーで、二階は洋食屋、三階は和風割烹となっている。僕らは二階でクリームコロッケなど食した。
右:正面アーチ窓を内側から撮影。
左:神谷バーの向かいの方にも、近代洋風建築を再活用したらしいレストランがあった。
右:淺草を離れ、上野方面に向かって歩くと、なかなかに風情のある下町が続く。途中見かけた花を撮影。名前は知らない。
左・右:稲荷町交差点に、僕の超好みのタイプの古い病院を見つけた。おそらく1930年代の建物であろう。「永寿総合病院」と看板が出ているが、残念なことにすでに移転閉鎖されていた。おそらく取り壊されてしまうのであろう。
※2004年3月25日追記:竣工は昭和4(1929)年、設計は不詳、元はアパートメントハウスで、2002年に破壊されたとのこと。ということは、この写真を撮って直後になくなってしまったということになる。参照⇒<増補>
左・右:永寿病院のスナップ。
左:上野駅近くに、廃校となった旧下谷(したや)小学校の校舎が残っていた。昭和3(1928)年、東京市の設計で建てられたとの記録がある。
右:上野駅の駅舎。バブル期には超高層化するなどという馬鹿な計画が発表されていたが、幸いにレトロな本館はそのまま保存され、商業施設として活用されている。鉄道省の設計で竣工は1932年(昭和7年)。
左・右:上野駅。かつては上れなかった二階のギャラリー部分がレストラン街になっている。
左:大阪の御堂筋線とともに、戦前から走っている古い古い地下鉄である帝都高速度交通営団銀座線の上野駅。今でもかなり古めかしい雰囲気が残っている。銀座線を終点の渋谷まで乗って、京王電鉄井の頭線の急行に乗り換え、吉祥寺のタツヤ邸まで帰ったら、もう十二時近かった。
左:翌朝、タツヤ少年と井の頭公園を散策。池の杭に亀が沢山いた。
左:井の頭公園の池に架けられた橋だが、これ以上の無駄があろうか? もともとが緩やかなスロープなのに、予算使い切りのためであろうか、車椅子用のスロープが設けられている。全く何の意味もない造形、超芸術の域に達している。
右:学校に行くタツヤ少年と別れ、一人で日本橋界隈を散策。神戸の財閥川崎男爵家の東京における拠点として建てられた旧川崎貯蓄銀行東京支店。矢部又吉設計で竣工は1927年だった。日本信託銀行→三菱信託銀行と変遷し、今では玄関部とジャイアントオーダー(列柱)を残して建替えられてしまった。
左:三菱信託銀行の玄関部分。外壁保存というより、これはもはや部材活用によるイメージ保存といった感じである。
右:日本橋の高島屋東京支店。難波の大阪本店と違い内装もよく残っており、伯爵的には東京のデパートの中では一番好きなところである。竣工は1933年、設計は前田健二郎、高橋貞太郎。