弐千八年関東下向記Z
目黒雅叙園・旧文部省庁舎・日本橋〜神田散策



 

左:本章は前章からの続きである。よって2008年7月13日、目黒雅叙園晩餐会から始まる。食後、恒例の館内探検。今回は旧雅叙園が再現されている大宴会場部門の入り口を覗いた。こんな感じである。宴会部の扉から入り、玄関の三和土より畳敷きのロビー空間を見たところ。非常に広い。この奥に鷲の間、竹林の間、牛若の間の三室があるようだ。
右:一歩引いて、玄関自動扉すぐのところから見た玄関部。三和土の部分もこのような過剰装飾である。立っているのはラ・リュミエールさんと龍丸。



 

左:同じく玄関部分。かつての雅叙園の入り口の再現らしい。左はラ・リュミエールさん、右端で見上げているのは「玲瓏」の歌人城山達郎氏。
右:家の玄関がこれならさぞかし落ち着かないことだろう(笑)。



 

左:受付のカウンターも螺鈿。
右:その奥、鷲の間の入り口も螺鈿の扉。



 

左:玄関天井は兎の螺鈿が鏤められていた。
右:玄関扉の上はペガサスである。



 

左:和式宴会場部門の玄関を外側(といっても屋内)から見たところ。
右:和式宴会部門の外側の廊下は一転、白木の繊細な意匠であった。この木組みは大変なものである。



 

左:飾られている花鳥画もおとなしい。
右:神式結婚式場の扉が十センチほど開いていたので、レンズを突っ込んで撮影。えらく斬新なデザインであった。



 

左:神式結婚式場をもう一枚。基督教式のチャペルもあったが、そちらはあまり面白そうではなかった。
右:神式結婚式場前の廊下。



 

左:このように繊細な組み物があちこちで見られた。
右:天井の飛天はどうやら木彫彩色である。旧雅叙園からのものと思われる。



 

左:新雅叙園の特徴は、この吹き抜けアトリウムであろう。下に見えている「欧米人がイメージだけで作った日本の農家」みたいな屋内建物は日本料理の「渡風亭」である。右手、アトリウムのガラス屋根の外側はすぐに急峻な崖になっていて、かつてはその上に雅叙園観光ホテルがあった。
右:大アトリウムを見下ろす。



 

左:随所に旧雅叙園から移したと思われる装飾があった。この照明もそうだろう。
右:この日は皆で新宿の誓乃(日向燦太)邸へいった。左が計良誓乃、右が龍丸。



 

左:これは7月14日の夜十一時過ぎに撮影している。ということは、マダムチュウ邸のホームパーティーが終わって荻窪駅へ向かう途中で撮影してと思われる。
右:翌日昼ごろ、龍丸邸にて。首に変なものをかけているみぃあ(笑)。



 

左・右:7月16日、南海摩登博覧会2008総合プロデューサーとして、同博覧会実行委員長ヒロポンと共に文化庁を訪問。庁舎は登録有形文化財・旧文部省庁舎をそのまま使っている。1933年に大蔵省営繕管財局の設計で建てられた震災復興庁舎であり、現在は半分ほどが残されている。



 

左・右:全体としてはもはやモダニズム色が濃いが、特に玄関附近の装飾にはゴシックの名残が見られる。屯しているのはヒロポン、龍丸、容子ちゃん。



 

左:玄関部上部。垂直線が強調され、尖塔となっている。これはゴシックの特徴である。
右:内部は更にモダンだが、エレベータホールは非常に質の高いデザインであった。



 

左:エレベータホールのシャンデリア。
右:エレベータの時計式インジケータと時計。



 

左:エレベータ全景。かつては手動の古式エレベータだったと思わせる三枚扉の二枚開き(向かって一番右の一枚は戸袋で動かない)だが、現在は籠内は何の変哲もない自動エレベータになっている。
右:黒大理石と鍛鉄の手摺が美しい主階段。



 

左:エレベータと相対する形で主階段がある。
右:かつては変則ロの字型に中庭を囲む建物だったのだが、今では裏側が壊されて超高層の新庁舎となっている。



 

左:新庁舎との間にかけられた硝子張りのブリッジが見える。
右:地下鉄に乗って日本橋(にほんばし)まで移動、高島屋東京支店に入る。1933年、高橋貞太郎の設計で建てられた華麗なデパートメントストアである。



 

左:塔屋のエレベータホール。古式エレベータ(自動化改装済ながら外扉、籠扉、籠、インジケータなどオリジナルのまま)は有名だが、この屋上の装飾が和風で統一されているのはこの時初めて気づいた。
右:天井もこのように折り上げ天井になっている。



 

左:屋上階エレベータの意匠。
右:エレベータの向かい側はすぐ屋外となる。



 

左:屋上の噴水池。オリジナルではないと思われるが、なかなか面白い意匠であった。
右:塔屋外観。残念ながらアルミ板か何かで近年になって覆われてしまっているが、元は桃山御殿風だったのではないかと思われる。真ん中に龍丸が歩いている。



 

左:かろうじてオリジナルの意匠が見えている出入り口附近。蛙股があり、柱頭なども寺院建築のようなデザインとなっている。
右:疲れたので高島屋内の「糖朝」で休憩。



 

左:元々大阪発祥の野村財閥で、今でもりそな銀行の本店は大阪であるが、野村證券の本店はこの東京のビルヂングである。1930年に、大阪の高麗橋野村ビルと同じく安井武雄の設計で建てられている。
右:日本橋の親柱。1911(明治44)年に米元晋一の設計、妻木頼黄の意匠設計で架けられた。1999年に重要文化財の指定を受けている。かつては京都の三條大橋を基点とする東海道の終点であった。



 

左:写真は撮らなかったが、そのあと三越日本橋本店によってから、この常盤橋のところでヒロポンと解散、龍丸、容子ちゃん、僕の三人になった。昭和元年拾弐月完成とあるから、元号が変わって急遽銘板を作り直したのだろう。
右:常盤橋の親柱。



 

左:常盤橋から常磐橋を望む。あちらは明治期の石橋で、今は車は渡れない。日本橋川には桟橋があった。
右:常盤橋公演の澁澤榮一子爵像。



 

左・右:千代田区と中央区の境界に、復興様式の小学校があった。中央区立常盤小学校である。現在の後者は1929年に建てられたもの。



 

左:やたらパンチの効いた散髪屋さんがあった。丸石ビルの近所である。
右:山梨中央銀行東京支店。1926年に徳永庸の設計で建てられた。いわゆる第三帝国・スターリン様式だが、第一生命館や大阪證券取引所よりは装飾性が強い。元々は第十銀行東京支店だったとのこと。



 

左・右:近代建築マニアの間では非常に有名な、ネオ・ロマネスク様式のオフィスビル、丸石ビル。かつては丸石自転車の本社ビルであったが、同社は現在埼玉に本社を移し、社名も丸石サイクルとなっている。今はは雑居ビルなのだが、もし大阪ビルヂング(ダイビル)が悪の関西電力の手で本当に破壊されてしまったら、ロマネスク様式のオフィスビルとしては我が国最大になろう。山下寿郎の設計で1933年に建てられている。



 

左・右:いかにもロマネスク的な、密度の高い装飾が施されている。



 

左・右:ダイビルより若干かろみがあるが、やはり彫刻が稠密である。



 

左:窓の柵も非常に繊細なデザイン。
右:その向かいにあった、戦前と思しき小規模店舗。



 

左:ちょっとダダイズムがかってる?小規模店舗建築。
右:国鉄のガードも煉瓦造である。



 

左:神田界隈も小規模な近代建築がまだまだたくさん残っている。名前は鷹岡東京支店ビルといい、1935年に谷口忠の設計で建てられている。検索してたら変なサイトを見つけて脱線してしまった(笑)。
右:蜜柑の花女史ご推奨の餡蜜屋、福尾商店



 

左:右:福尾商店の近くで見つけたほとんど廃墟と化している木造二階建て雑居ビル。大正末〜昭和一桁ぐらいだろう。千代田区が文化財として保存すべきなのだが(-_-;)。何と検索すると、あの岡田信一郎の設計と出てきた。だとすると第一級の建築家の作品である。名前は旧村木商店との由。でも年代は書いていない。



 

左・右:まだ空きビルではないようであった。



 

左:その近所には、こんな廃墟ビルも(´ω`;)。都ビルという名前であった。同じサイトによると、千葉利智の設計で1929年とのこと。
右:その向かいには、蕎麦の老舗「まつや」が。こちらは1925(大正14)年とのこと。



 

左:登録有形文化財・山本齒科醫院。震災後の1928年に再建されたのがこのビルヂングとのこと。
右:山本歯科の玄関に貼られていた琺瑯製住所札。神田區須田町一丁目三番地三である。



 

左:この界隈、東京にしては老舗が並んでいるエリア(と言っても一番古い店でもせいぜい明治で、江戸時代創業など殆どない)で、これは鶏料理の「ぼたん」。昭和初期の建物だそう。
右:そして有名な「藪蕎麦」。



 

左:建物はビル化されてしまっているが、老舗の名曲喫茶「ショパン」。創業は1933年である。
右:こちらは古い建物だが業態は新しいお店。



 

左:僕のお気に入り、近江屋洋菓子店本店の真向かいにある登録有形文化財。旧丸菱ビル(第一KSビル)で1925(大正14)年の作品である。
右:戦後も戦後、僕が生まれてからの1966年の建築だが、戦前のモダニズムを思わせる非常にすっきりしたインテリアが美しい近江屋の店内。



 

左:近江屋に来たら、ジュースとボルシチ飲み放題コースのほかありえない。非常に美味しい。
右:「貨物用」扱いなのだろう、僕が生まれてからのビルなのに自動駆動ながら手動扉のエレベータが設置され、現役である。籠扉は蛇腹である。



 

左:関西圏にも戦前からの鉄道高架線は沢山あるのだが、どういうわけだかインターナショナルスタイルが大半です。それに対して関東の鉄道高架線はこのように装飾豊かなものが多い。なぜだろうか。ちょっと悔しい。これは神田附近、秋葉原との境界近くの中央快速線である。
右:左側の高架が中央快速線。神田川川の上を斜めに横切るのは総武中央線。



 

左・右:少し位置をずらすと聖橋が見える。1927年に逓信省営繕課の建築家山田守の設計で架けられた、表現様式の美しい橋である。



 

左:秋葉原の最も秋葉原らしい店が潰れたと龍丸が悲憤慷慨していた。
右:秋葉原から上野に向かって歩くと、このように千鳥破風の玄関付の立派な銭湯「燕湯」がある。恐らく昭和一桁ぐらいだろう。登録有形文化財となっている。



 

左:明けて7月17日、東京最終日であるが、また神田まで皆で出かけて、「今荘」で午餐と洒落込んだ。これは看板建築のラーメン屋「成光」。
右:そしてこれが「今荘」。江戸前の背開きうな丼だが、なかなかのものである。千代田区景観まちづくり重要物件だが、これも1933年。神田界隈では1933年というのは大建築ラッシュだったようだ。



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