骨董建築写真館 伊太利紀行篇・其ノ壱 〜羅馬の巻・上〜
骨董建築写真館

伊太利紀行篇・其ノ壱 〜羅馬の巻・上〜

二千四年五月、中学、高校、予備校の同級生で大学時代には初の海外旅行で一緒に中国奥地まで旅した旧友の山下裕幸氏に誘われて、九日間を洋行、イタリアに遊んだ。本章はその折の日記と写真で構成していきたい。

●五月十五日(土)・・・一睡もせぬまま、待ち合わせの七時にはJR大阪駅へ。ちょっと遅れて山下も登場。関空快速が出たところだったので環状線、阪和線快速と乗り継いで日根野に着いたら、結局一本あとの関空快速が追いついてきた(-_-;)。ともあれ、何とか集合時間の八時半には関西国際空港国際線ロビーに到着した。今日から九日間の洋行である。
まずは旅行会社H.I.S.のカウンターで航空券と現地での宿泊、食事、移動のバウチャーを受け取って、KLMオランダ航空のカウンターで搭乗手続きをする。それからKDDIのカウンターで海外用携帯を借りたりしていたら、結構いい時間に。ということで出国手続きを済ませ、KLM868便に乗り込む。定刻の十時半には無事に離陸、あとはひたすら太陽を追いかけて欧州に向かうのだが、ボーイング747ジャンボジェットは機体はでかいが客席はかなり窮屈で閉口する(-_-;)。
それでも何とか予定通り十一時間でアムステルダム・スキポール空港に到着、ランディングは見事だった。ほっとしながら空港に入るが、快晴でかなり暖かい。巨大なハブ空港だが、ヨーロッパ連合なのでここで既に入国手続きである。旅行会社の方が何の説明もしてくれなかったのでどこに行けばいいのか若干戸惑ったが、要するにそのまま乗り換え方向に歩いていけばいいのであった。パスポートをちらと見てスタンプを押すのみ、一瞬で入国だった。オランダの係官は片言の日本語を話し、愛想もよかった。
なお、寿司バーがあったが、さすがに洋行最初の食事を寿司にするのも馬鹿馬鹿しすぎるので食わず。
そこからは一応国際線だが最早国内扱い、KLM1607便に乗ってみたら、日本人乗客は僕らだけであった。ローマまでは約二時間、あっという間のフライトである。ローマの空港はレオナルド・ダ・ヴィンチ空港(フィウミチーノ空港)で、ローマに二つある空港のうちメインの大きな方のわりには、ちょっと寂れた雰囲気であった。
ということで、僕らは荷物全部を持ち込んでいたので空港に着いたらすぐにそのまま到着玄関から出てしまったのだが、迎えが来ていない( ̄□ ̄;)!! 山下は欧州初めてだし、僕だって十数年ぶり、そしてイタリアは初めてである。ちょっと焦って手分けして探しているうちに、迎えのドライバーのおっさんが僕の名前を書いたボードを持ってにこやかに現れるσ(^◇^;)。おっさん、その笑いは明らかに遅刻のごまかしだろうという感じである。英語が喋れる人だということだったが、殆どイタリア語のみ。僕の怪しげなフランス語と英語のちゃんぽんの言葉はちゃんと通じたが、何ともはやである。
そのおっさんの運転するマイクロバス(客は僕らだけ)でアウトストラーデ(高速道路)に乗り、一路ローマ市内へ。旅行社に任せっきりだったので「郊外の不便なホテルだったらどうしよう」と心配だったのだが、なんと目の前にローマ市門、カラカラテルメ遺跡、そしてコロッセオが現れ、大感動(>_<)。結局ついたところはテルミニ駅のすぐ近く、ローマ市の中心部の超一等地であった。とにかく、僕本来の旅の姿は航空券だけとって現地へ飛び、ホテルはそれから自分で探すのだが、今回はサラリーマンの山下の貴重な休暇を使っての旅なので、ホテルを探して半日歩き回るような時間の無駄は避けたかったから、旅行社に頼んだのである。結果は正解で、超便利なところにある綺麗でしかも経済的なホテルをちゃんと取ってくれていた。カピトルホテルの五階(欧州式なので日本でいう六階)、なかなかに眺めのいい部屋である。
部屋に荷物を置いて、ちょっと休憩して、すぐに市内の探検に出かける。もう八時を過ぎていたが、五月のイタリアは十時ごろまでは明るいのだ。テルミニ駅はムッソリーニ時代の、つまりは第三帝国&スターリン様式の巨大な建造物で、無機質な感じでなかなかよい。路面電車の線路が縦横に走り、街並みは殆どが第二次世界大戦前の、つまりは僕の好きな近代建築及び近代以前の建築で構成されていて、素晴らしい。早速写真を撮って回る。
テルミニ駅前に香港大飯店という中華料理屋があり、客も東洋系で賑わっている。イタリアに来ていきなり中華もなぁと思いつつ、手頃そうだったのでそこで夕食。ソムリエ、ワインアドバイザーの資格を持つ山下は早速イタリアワインも頼んでご満悦であった。
ホテルに帰ったらイタリア時間でもう夜十一時を過ぎていた。僕は既に四十三時間あまりも起きっ放しなので(>_<)、さすがに疲れ果てて風呂に入ったらすぐに寝てしまった。


 

左:和蘭から伊太利へのフライトであるから、アルプス山脈を越えることになる。
右:ローマ着陸寸前、幾つかの湖が見えた。


 

左:車窓から見たレオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港。なんだか薄暗くて寂れた雰囲気だった。
右:アウトストラーデからの車窓風景は“千里ニュータウン”のような雰囲気だったが、ローマ市内に入ったところで古風な伸縮式ガスタンクがあった。もう使われていない様子。


 

左:車窓から見た羅馬市の城壁。
右:この城門から旧市街へ入った。これも車窓からなのでガラスが写り込んでいる。


 

左:ローマ市内で最初に撮った写真。既に八時を過ぎていたが、この明るさである。この程度の近代洋風建築はごろごろしていて、近代以前の建築も非常に多い。素晴らしい歴史的景観である。
右:ムッソリーニ時代に建てられた、ローマ市の中心駅であるテルミニ駅(テルミニとはすなわちターミナルである)。如何にも全体主義的な建物である。ヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画「終着駅」の舞台としても名高い。


 

左:ローマ市電。これはかなりレトロな車両だが、行先表示機だけデジタル電光式に取り替えられている。最新の低床車両も沢山見かけた。
右:ホテル付近の夕景。路面電車の線路が光っている。

 

 

上四枚:テルミニ駅周辺で見かけた漢字看板。意外に多い。中華料理店だけではないので、華僑はかなりローマ社会に溶け込んでいるようだ。なお、右下は韓国料理店である。


 

左:で、アムステルダムで寿司を食べるのをやめたのに、結局欧州初日の夕食はここ。なかなか美味しかった。テルミニ駅のまん前、すごくよい場所だった。「よ〜し、これから毎晩中華を食べて、イタリアの中華を極めるぞ」とか馬鹿なことをいうのが我々の常である。
右:ローマ市内いたるところで見かけたゴミ箱。殆どがこの形である。後姿は山下。


 

左:香港大飯店のトイレにて。このような巨大なトイレットペーパー、旅行中結構見かけた。
右:サンタ・マリア・マジョーレ教会前のモニュメント。


上:サンタ・マリア・マッジョーレ教会。正面、バロック期のファサードの奥に輝くモザイクは、五世紀に遡る。バシリカ様式の大教会である。

●五月十六日(日)・・・朝は七時過ぎに爽やかに目覚める。日本ではあり得ないことである。山下も起きるので、早速に身支度をし、地下の食堂へ。コンチネンタルブレックファスト、セルフサーヴィスで食べ放題である。パン、果物、ヨーグルト、オレンジエイド、カフェ、ラッテ(牛乳)、紅茶などなど。パンにつける蜂蜜が美味しい。珈琲はやたら濃いイタリア式なので、たっぷりホットミルクを入れてカフェラッテにして飲む。
九時頃には二人でホテルを出て、まずはホテルの回りを徘徊、テルミニ駅から、サンタ・マリア・マッジョーレ教会へ。ローマに現存する四大古代教会の一つという非常に古い教会である。正面は十八世紀にバロック様式に改められているが、最も古い部分は五世紀に遡るという古いバシリカ様式の大伽藍で、内部の装飾も素晴らしい。日曜日の朝なので、主祭壇向かって左側の小礼拝堂ではミサの最中であった。

 

左:カピトルホテル542号室よりの景色。アルフレッド・ヒッチコック監督の映画「裏窓」のようでなかなかよかった。
右:ホテルの階段。磨り減った大理石が非常にいい感じであった。イタリアは大理石の産地だけあって、日本における御影石のような感覚で、ふんだんに大理石が用いられている。


 

左:昨夜広告看板を見た吉祥餐舘を発見。
右:サンタ・マリア・マジョーレ教会の鐘楼。カリヨンが高らかに鳴り響いていた。


 

左:サンタ・マリア・マッジョーレ教会前広場のモニュメント、日中の光景。
右:教会の近くで見つけた「子供の飛び出し注意」の道路標識。日本のものと微妙に似ている。


 

左:サンタ・、マリア・マジョーレ教会正面。
右:同教会玄関前ポーチ。


 

左:同教会の見事な門扉。壁面は白大理石、イオニア式の柱は赤大理石である。
右:堂内の装飾。


 

左:同教会、後陣からドームを見上げる。
右:同教会門前のビル。入口など見事だが、この頃既に「こんなの一々撮ってたらきりがない」といいながらの撮影であった。


  

左:古風な水飲み場。ローマ市内は各所にこういう噴水や水飲み場、そして落書きが見られた。
中:公道上である。とにかくイタリア中駐車のマナーは非常にすさまじかった。新車は路上駐車すべきではない。さもないとすぐにべこべこになってしまうだろう。
右:あるアパルトマンの入口。このようにどんな古い建物でもオートロックが設置されている。それにしても、大人社会だなぁ。このドアノブの高さ、子供は絶対に届かない。ということで、マジョーレ教会を出たあとは、ヴァチカン市国を目標に歩き始めた。

  

上三点:サンタ・マリア・マジョーレ教会から、大体の見当をつけてひたすらヴァチカン方面を目指して歩く。ローマは起伏の多い街で、主要道路でも石畳が多く残っており、趣きのある路地が多い。


 

右:立派な建物があるなぁと思ったら、美術館だった。
左:その向かいにあったのはイタリア共和国の中央銀行、Banca d'Italia本店であった。近世以前の建築が氾濫しているローマだが、これらは近代以降のものであろう。


 

左:イタリア銀行本店の装飾。
右:古代遺跡をそのまま使っている写真美術館。


 

左:このように、街のあちこちに古代遺跡が残されている。
右:賑やかなところに出たなと思ったら、ヴェネツィア広場だった。警官と話す古代ローマ兵士。観光客と一緒に写真を撮る商売である。イタリアの各地でそれぞれの扮装をしたこの手の芸人を見ることができた。


上:ヴェネツィア広場に面して、やたら壮大な、ネオ・ルネサンス様式の近代建築があった。一体なんだろうと思いつつ入ってみる。「なんか知らんけどすごいな」を連発しながら、かなり入り込んでからガイドブックで調べると、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世記念堂であった。滅茶苦茶壮大な訳だ。1885年に着工、完成はなんと1911年とのこと。
※近代的統一国家としてのイタリアの歴史は極めて浅い。中世以来、つまり西ローマ帝国滅亡後、様々な小国に分かれていたイタリアは、十九世紀半ばにサヴォイ朝のサルディニア王ヴィットリオ・エマヌエーレ二世、その宰相カヴール伯爵、平民出身のガリバルディ将軍によるイタリア統一戦争を経て、1861年に初めてイタリア王国として統一されたのである。三百諸侯に別れていた日本が明治維新を経て統一され近代国家としてまとまったのと、ほぼ同時期であったわけだ。


 

左:石畳のヴェネツィア広場にて客待ちをする観光馬車。
右:記念堂を守る有翼の獅子像だが、風太曰く、「スパワールドみたい」。まぁ確かに…(^_^;)


 

左:上がっていくと、ちゃんと衛兵が警備している。
右:堂内のエレベーター。非常にレトロな逸品であった。


 

左:翼部のコリント式ジャイアントオーダー。とにかくすごいスケールである。
右:ヴィットリオ・エマヌエーレ二世の騎馬像。ローマ市内を見下ろしている。


上:中央部の豪壮な列柱。


 

左:中央部、列柱の内側はこんな感じのギャラリーになっている。全て大理石製。
右:両翼部の内側は、如何にも十九世紀末風の壁画が描かれている。


 

左・右:このように、左右両翼部の天井の四面にそれぞれモザイク壁画か施されている。

上:ヴィットリオ・エマヌエーレ二世記念堂の露台からの景観。下を走っているのは市民マラソンの皆さんである。先頭集団こそ早かったがあとはのんびりで、最後の方なんで普通に歩いているより遅くだらだらして歩いているのが面白かった。うしろの古代遺跡はマルチェロ劇場。紀元前11年に完成した大劇場が荒廃し、中世以降城砦に用いられ、それが16世紀にはオルシーニ公爵家の居館となり、なんと現在でも人が住んでいる様子であった。オルシーニ家については塩野七生女史のサイトにも詳しい。


 

左:同じ露台から別の方角を望む。ドーム屋根が沢山見えるが、多くは教会である。
右:記念堂の内部。イタリア軍に関する博物館になっている。人物は山下。


 

左:展示品にはガリバルディ将軍、カヴール伯爵をはじめとする建国の英雄たちの遺品が数多くあった。その中になぜか日本の扇子も。イタリア語の解説はさすがに読めなかった。
右:ロッテンマイヤーさん眼鏡とサーヴェル。


 

左:ペーパーナイフと封印の押された手紙。僕も今回の旅行では自分のイニシャルFQのモノグラムの封印と、ロッテンマイヤーさんのような鼻眼鏡を購入した。
右:記念堂の裏、おそらく近代以前の建物であろう美術館では、ドイツの画家パウル・クレーの展覧会をやっていた。


 

左:記念堂前の広場のローマ兵士たち。背後の建物はヴェネツィア宮殿である。
右:これも記念堂前。立派なドームが二つ並んでいた。


 

左:真正面から見た記念堂。
右:これもヴェネツィア広場に面した建物。右の建物と左の建物の間に、大きな広告シートがかけられているのはお判り頂けるだろう。問題はその左の建物である。一見、歴史的建築物の外壁に見えるが、これは工事用シートなのである!! イタリア中どこでも、歴史的建造物を工事する場合、その建物の外観をそっくりそのまま印刷したシートが張り巡らされるのである。どこでもそうだったから、おそらく景観保護関係の法令で定められているのだろう。


 

左:ローマに於ける心斎橋や銀座に当る目抜き通り、コルソ通。歩いているのは山下である。たまたま余り人が写っていないが、大変な賑わいであった。
右:コルソ通の中心部にあるガレリア。ギャラリーのイタリア語だが、要するに高級商店街である。


 

左:コルソ通を行く観光用馬車。
右:コルソでは人力タクシーも見つけた。


 

左:ローマ市中に多かった時計付広告看板。日本料理店もあった。
右:これは近代建築であろう。政府関係の建物やホテルには、このようにイタリア国旗とヨーロッパ連合旗が掲げられているところが多かった。


 

左:紋章付の素敵な水飲み場。
右:いよいよ教皇庁に近づき、ウンベルト橋を渡ろうとすると、やたら滅多ら装飾のけばけばしい建物が見えてきた。何かいなと思ったら、1911年に建てられた近代建築、イタリア共和国最高裁判所である。建築に装飾はつき物だと思っている装飾好きの僕をしても、これはいくらなんでもやり過ぎであろうと思われた。実際ひどい判決を出す遅れた野蛮な裁判所で、詳細はこれをクリック⇒<増補> <増補>

上:徹底的に装飾で覆い尽くされている最高裁判所。1911年築のネオ・バロック様式で、並んでいるのはキケロ、パピニアヌス、リキニウス・クラッスス、ガイウスなどの石像である。ウンベルト橋を渡って最高裁に突き当り、左に曲がるといよいよヴァチカン市国が近づいてくる。


 

左:ボルジア家に毒殺された貴族の死体が浮かんでいたというテレヴェ河。九日間の旅行中ずっと快晴続きだったのだが、僕らの到着前は土砂降りが続いていたとのことで、大増水していた。
右:なんだかよく解らんが、最高裁の隣で、官庁なので、検察関係の建物か? 最高裁共々近代以降の建物である。


 

左:“ローマの松”とサンタンジェロ(聖天使)城。レスピーギの有名な曲を思い出すが、イタリアでは松が非常にポピュラーなのでどこか日本に近い景色がある。この城砦は五賢帝の一人として知られるハドリアヌス帝の時代に霊廟として建てられ、その後は城砦、牢獄などになり現在も教皇庁を守っている。
右:ローマの松と公衆電話。壊れていたのか、老婦人が叩きながら使っているのが面白かった(^o^)


 

左:聖天使城の近景。確かに古代建築である。
右:サンタンジェロ橋の石像。非常に豪華絢爛な橋であった。


 

左:大阪駅前によく「黄色い人」が出るが、ローマには黄金の人がいた。エジプト風のマスクをかぶっていた。子供が小銭をやると、にょ〜っとお辞儀するのが面白い。
右:サンタンジェロの城壁。

 

左:アングラ舞踊のような白塗りの人もいた。石像を意識しているらしい。
右:非常に重厚な煉瓦の公衆トイレ。チップ制であった。


 

左:サンタンジェロ城前にあった、如何にもイタリアンデザインの公衆電話。
右:サンタンジェロ橋。

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