骨董建築写真館 伊太利紀行篇・其ノ弐 〜羅馬の巻・下〜
骨董建築写真館

伊太利紀行篇・其ノ弐 〜羅馬の巻・下〜

上:そしていよいよ、サン・ピエトロ大聖堂が見えてくる。イタリア共和国とヴァチカン市国との国境もこの辺りか? 参道の両脇にはオベリスク型の街灯が立っていて非常に威圧感があった。


上:いよいよ聖ペテロ大聖堂前に到着。しかし日曜日の午前中とてミサの真っ最中。えらい人ごみなので入るのを断念した。プロテスタント信徒の僕にとっては宗教的にはありがたくも何ともないが、建築や美術は是非に見たかったので残念である。


 

左・右:サン・ピエトロ広場の回廊。ローマでは珍しい、ドーリア式の大オーダーであった。


 

左:ヴァチカン警察の騎馬警官。
右:サン・ピエトロ大聖堂のドームを遠望する。

上:橋の上から聖天使城を臨む。なんか社会主義国のようなポーズの群像である。


 

左:ローマ市内いたるところで見かけた、鼻血ポスター。イタリア語は解らないが、「MEDIA」と書いてあるので、極右ネオナチ政権の無能首相ベルルスコーニを批判するリベラル陣営のものかもしれない。
右:クラシックカー比率は日本よりは高かったが、それでもこういう車にはそう滅多にはお目にかからなかった。


  

左:大きな通りの歩道などにはこのようなポスターや看板が多い。
中:趣のある石畳の路地。
右:ローマ中いたるところにある、ドームを戴いたバロック様式の教会堂。


上:これも工事用のシートで覆われた歴史的建造物。左の教会は上の写真のドームの教会である。


 

左:一方通行の道路標識が矢鱈細長かった。
右:キモ可愛い門灯。一応ドラゴンらしい。


  

左:イエズス会の本部であるジェズ教会。
中:白地に赤丸という謎の道路標識をあちこちで見かけた。
右:玄関の上に壁画のある、かなり古い建物。ここのカフェで昼飯にしたが、観光地料金で非常に高かった(-_-;)


 

左:上、右端の写真の壁画のアップ。
右:これがマルチェロ劇場遺跡。二段のアーチの上に築かれているのがオルシーニ家の邸宅として十六世紀に建てられた部分なのだろう。ということで、ここからようやく昼食後、旅行二日目後半の写真になる。


 

左:ローマ市庁舎前、石段の噴水ライオン。左手の建物はヴィットリオ・エマヌエーレ二世記念堂である。
右:ローマ市役所。この石段は登らず、ヴェネツィア広場からパンテオンに向かって歩き出す。


 

左:イタリアの警察・治安機関は国家警察、都市警察、財務警察、憲兵隊など多岐に渡ってるようで、どこの所属なのかよく解らないが、とにかく騎馬警官がいた。
右:針が一本しかない古風な時計も結構あった。


 

左:パンテオンの外壁に沿って、ものすごい間隔で駐車されている車。決して珍しいことではない。
右:オベリスクの奧に、パンテオンが姿を現す。ローマ帝国時代、二世紀のハドリアヌス帝の治世からの現役建造物である。

  

左:パンテオンに近づくと、周りが掘り下げられているのがわかる。要するに、発掘されているのである。さすが古代建築(@_@;)
中:うしろから回り込むと、玄関部分が見えてくる。
右:パンテオン前のオベリスクと噴水。


 

左:可愛くない海豚二頭に挟まれて吐き気を催した如き噴水(^_^;)。
右:鯱のような噴水もあった。


 

左:パンテオン正面全景。元々は多神教であるローマ宗教の万神殿として建てられ、のちに基督教会化されたので、破壊を免れ今日までほぼ原形をとどめることになった。
右:二千年近く前の建物だけあって、さすがにコリント式の柱頭などはかなり破損している。


 

左:玄関。二千年前の建物とは思えない壮大さである。
右:玄関の屋根を下から見上げる。さすがに木造部分はオリジナルの部材ではなかろう。


 

左:ドームの頂はこのように天窓になっている。つまり雨が降れば中まで振り込んでくるのだ。
右:堂内はこのように基督教会として用いられている。


  

左:正面の主祭壇。
中:天窓からの光が差し込んでいる部分。大勢の観光客でごった返してなお、荘厳かつ神秘的であった。
右:内部から玄関を見る。


 

左:パンテオンの外側、遺蹟にで遊ぶ子供たち。
右:パンテオンを出て、トレビの泉に向かう。かなり気温が上がっていたが、湿度が低いので日陰や建物の中に入るとひんやりと涼しい。ということで、ちょっと涼もうと通りすがりの教会に入ってみたら、内部がものすごい装飾に満ち満ちていた。僕らの持っていった大したことのない観光ガイドの地図には何も記されていないから、特に有名な教会ではないのだろうが、ごく普通の教会、日本仏教的な言い方をすると街中のごく普通の末寺ですら、これだけの内部空間をもっているのだ。さすがローマである。これは入口から祭壇方向を写したもの。


 

左:これは祭壇側から玄関方面を見たところ。
右:天井画を見上げる。


 

左:見事な捩じり柱。典型的なバロック的装飾である。
右:トレビの泉を目指したつもりが、歩き過ぎてクィリナーレ宮殿(大統領官邸)にたどりついてしまって、少し引き返して路地に入る。中心部だが、時々こういう廃墟にも出会った。窓ガラスも全て割れているが一階にはちゃんと商店が営業していた。


 

左:狭い路地から空を見上げる。この建物は壁から雑草がいっぱい生えていたが、ちゃんと現役で、玄関はオートロックだった。
右:渡り廊下の下をくぐってトレビの泉を目指す。

上:これがトレヴィの泉。1762年ジュゼッペ・バンニーニの設計で作られた見事なバロック様式の泉水、ではあるのだが・・・。あまりの人ごみで、じっくりとは鑑賞できず。そもそも、ローマについて以来、「日本人って世界中にいるはずなのに、殆ど会わないなぁ」と不思議に思っていた。東洋人の旅行者も、近づいてみると中国人や韓国人ばかりで、日本人は全くいなかったのだ。このページまでの写真をご覧戴ければ判るとおり、結構賑やかなところを回っていたにも関わらず、である。
それなのに、トレヴィの泉に来てみたら、周り中日本人だらけ。修学旅行なのか、制服を着た男女の高校生も、数人ずつのグループでたむろしている(>_<)。要するに、日本人は「ガイドブックに載っている名所」にしか興味がない民族らしい。全く持って情けない限りである。


 

左:これまた映画「ローマの休日」で有名なスペイン広場。こちらも日本人だらけだった(-_-;)
右:げんなりしてヴェネツィア広場に戻ったら、こんな看板が…σ(^◇^;)


 

左:ヴェネツィア広場からコロッセオを目指して歩く。人通りの少ない脇道沿いの、ローマではごく普通のアパルトマンの玄関脇に、ちょっといい感じの装飾金具が。
右:オートロックにも拘らずドアが開いていたので、内部を撮影。玄関ホールの奧に階段室があって、その吹き抜けに古風なエレベーターという、典型的な造りであった。


上:いよいよコロッセオが見えてくる。万里の長城に行ったとときもそうだったが、この感動は写真では到底伝わらない。ものすごいスケールである。


 

左:コロッセオのオーダーは層によって様式が異なる。一階はドーリア式、二階はイオニア式である。
右:そして三階はコリント式となっている。


 

左:コロッセオの外壁は完全に残っているわけではない。内部の層がむき出しになっているところもある。これを見ると、ブリューゲルの傑作「バベルの塔」はコロッセオをモデルにしていることがよく判る。
右:その裂け目の部分が観光客の入口になっていて、そこから内部に入っていく。アーチ構造の組み合わせによってこの大建造物が建てられていることがよく判る。


 

左:全く補修されていないわけではないだろうが、二千年近く前から人々が上り下りしてきた階段である。
右:んが、世界遺産の中というのに、エレベーターも設置されていたσ(^◇^;)。もちろん乗ってみた。


 

上四枚:いずれもコロッセオ内部。


 

左:観光客が小さく写っている。非常にスケールの大きい建物であることが判る。
右:コロッセオに住み着いた野良猫。悠久の歴史を生きてきたが如く泰然自若としており、人間を恐れなかった。


  

左・右:内部にはこのように、二千年近く前の大理石製の柱の部材がごろごろ転がっている。

上:コンスタンティヌス一世の凱旋門。コンスタンティヌス大帝といえば西暦三百十三年にミラノ勅令を発してキリスト教を公認した皇帝であり、ローマからコンスタンティノープルに遷都し、のちのビザンティン帝国の基礎を築いた名君である。


 

左:コロッセオからフォロ・ロマーノへ続く道。
右:こちらはティトゥス凱旋門である。紀元70年にあったエルサレムでの戦いに勝利したティトゥス帝を讃えるために造られたものでローマ最古とのこと。


上:古代ローマ市の中心だったフォロ・ロマーノからチルコ・マッキシの丘に登ると、巨大な建造物が見える。マクセンティウス帝のバシリカとして知られるこれは、なんとコンクリート製である。四世紀の建物が既にコンクリートで作られているとは、日本人の感覚からすると驚き以外の何ものでもない。


 

左:丘の上には古代遺跡を取り込んだ個人邸宅が。何とも贅沢な話である。
右:丘の上にあったバロック様式の教会のステンドグラス。


 

左:丘の中腹からは泉が涌いている。
右:泉の上には古雅なる四阿が。


 

左・右:丘の上は一面の遺蹟だが、遺蹟の上に建てられたヴィラがあった。恐らく十八世紀頃の建物だろう。今では考えられない贅沢な行為である。


 

左:丘の上の博物館。ここの地下はむき出しの遺蹟がそのまま展示物になっている。
右:博物館の裏側にも、このように壮大な規模の遺蹟が拡がっている。


 

左:石の遺蹟は木造と違って、ちょっと手を入れれば現代でも使えるというのがすごい。これは公園の事務所に使われているらしいが、遺蹟の窓にガラスが入り、入口の上にはセキュリティボックスも見える。
右:アーチ構造というのが如何に優れているかの証明にもってこいの遺蹟があった。二千年近い歳月を経て崩れていないこのアーチ、山下の立っている足下の厚さ、せいぜい40センチぐらいではあるまいか?


 

左:遺蹟公園の門。これだって相当な年季物である。様式からして、バロック期のものであろう。
右:丘の下には、その昔映画「ベン・ハー」にも出てきた戦車レースが行われたという広大な広場があり、大規模な音楽イベントが催されていた。


 

左:いささか汚れているが、ローマ市警の紋章。西洋の紋章というのは元々中世の騎士が、甲冑をかぶっていても敵味方の区別がつくように盾に自分の目印を書き込んだのが始まりである。よって、西洋において「紋章」といえば全て盾型のものを指す。ローマ市の紋章は、「SPQR」を記した盾であるが、これは「元老院並びにローマ市民」を意味するラテン語"Senatus Populusque Romanus"の頭文字である(参照⇒<増補>)。盾の上には身分を現すクラウンが載るのだが、ローマの場合個人ではなく都市なので、城壁をかたどったミューラルクラウンが載っている。そして土台の部分、ベースメントには、古代ローマの建国神話、狼に育てられる双子の兄弟ロムルスとレムスの図像があしらわれている。その下のリボンには個人の紋章ならラテン語が古代フランス語で家系に伝わるモットーなどが記されるのだが、ここではポリツィア・ローマ・ミュニチパーレつまりローマ市警察を現すイタリア語が記されている。
右:この日はとにかく歩き回った。この写真の時点で、既に十時間以上、殆ど休まず歩き回っていた。さすがに疲れて、夕食前に一度ホテルに帰ろうとテルミニ方面に向かっている途中、食品スーパーを見つけたので飲料やお菓子を買い込む。赤いのは山下である。


 

左・右:近道しようと石段を登ると、ちょっと小奇麗な住宅地に出た。富裕層でも都心では集合住宅に住むことが多いヨーロッパの大都市にあって、この辺りには一戸建てもある。日本人がいないどころか、観光客も殆どいなかった。


 

左:そのまま歩くと、このビルがあった。写真右奥から、左手前に向かって歩いてきたのだが、この辺りの雰囲気からして、このビルも中級以上の集合住宅と思われる。見ての通り、正面玄関は中央に立派なものがあるのだが、向かって右端、車の後ろに隠れるように、小さな戸口があるのがお判りだろうか?
右:扉は半開きだった。最初は通り過ぎたのだが、その途端に頭頂部の髪がぴんと逆立ったのだ。変なものセンサーが反応したのだ(笑)。そこで数歩引き返して扉の中を覗き込むと、地下へ降りる階段が…。


 

左:階段の壁に貼ってあったポスターをアップすると、この通りである。半裸のマッチョの兄ちゃんの写真に「SAUNA」と書いてある。どう考えてもノンケ用の普通のサウナではなく、ゲイ用のハッテンサウナであろうσ(^◇^;)。日本にいても道を歩いていて偶然ハッテンサウナを見つけることなんか滅多になかろうに、はるか異国の地で、しかもゲイガイドを見て探訪しているわけでもないのに、通りすがりにハッテンサウナを見つけてしまうのだから、僕の妖怪アンテナの感度も相当なものだなぁ(^_^;)
右:備忘として撮影。ハッテンサウナを発見した通の名である。


 

左:ホテルの前の通りで、こんなかわいらしい三輪自動車を見つけた。イタリアではかつての日本でいうオート三輪が今でも現役なのだ。レントスクーターと書いてあるから、借りて乗れるのだろう。
右:一旦ホテルに帰って、休憩。ホテルの消火栓である。


 

左:初日いきなり中華を食うという馬鹿なことをしたので、二日目の夕食はイタリアンにした。この店はイタリア人と結婚した日本人女性が夫婦でやっている店で、なかなか感じがよかった。
右:ゴミ箱についていた何らかの行政機関の紋章。
ということで、十一時過ぎにホテルに帰着。さすがに疲れ果てていたので、風呂に入ってすぐに寝てしまった。

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