骨董建築写真館 伊太利紀行篇・其ノ参 〜オルヴィエート〜モンテプルチャーノ〜アレッツォ〜
骨董建築写真館

伊太利紀行篇・其ノ参
〜オルヴィエート〜モンテプルチャーノ〜アレッツォ〜

●五月十七日(月)・・・昨夜は一時頃には寝てしまったので、実に爽やかに七時過ぎには目が覚める。シャワーを浴びたり身支度を整え、山下共々地下一階の朝食堂へ。昨日ツイードの三つ揃えを着ていたら結構暑かったので、今日は軽装にする。参照⇒<増補>
朝食後、荷物を持ってレセプションでチェックアウト。なかなかに居心地のよかったカピトルホテルともお別れである。そのままロビーのソファーで待つことしばし、旅行者から派遣されてきた通訳の藤井彩子女史が登場、ホテルを出る。すぐ前にベンツのワンボックスが泊っていて、運転手のジュゼッペ氏を紹介される。ジュゼッペ氏が荷物を積み込んでくれて、早速に出発。
ローマ市内は月曜の朝とて結構渋滞している。おかげでローマ市内の光景を車窓からたっぷりと楽しむことができた。そして空港からの道とは反対の方から城壁外に出て、アウトストラーデ(高速道路)A1号線に乗る。つまりイタリアの高速道路で一番の幹線である。
イタリアの(多分EU諸国共通だと思われる)高速道路の料金所の自動支払いシステムは「テレパス」という。日本のETCだと「その他」に思えて意味不明だが、テレパスならその語感で大体の意味がつかめてこの方がよかろう、と思った。尤もテレパスというと超能力者という意味にもなりかねないから、「料金所を通る時は無念無想でないと心を読まれる」とか下らない冗談を言い合う。藤井さんとも早速意気投合、言葉は通じないがジュゼッペ氏もよく喋って陽気な人である(もちろん藤井さんの通訳を介して会話は可能)。イタリアの歴史、文化、音楽、建築、そして現代の政治など非常に多岐な分野について話が弾んだ。


 

左:給油とトイレのために入ったサーヴィスエリアの売店に、訳のわからない、なおかつあまり上品とはいえないシールが売られていた。
右:トスカナ州に入ると、かつてのメディチ家の支配地域、トスカナ大公国の領域である。トスカナ地方は丘陵が多く、田園地帯のそこここに丘があり、その上に城砦や、城や教会を中心とする城壁都市が点在している。今日の最初の目的地、オルヴィエートも断崖の絶壁を持つ丘の上に広がる、可愛らしく美しい城壁都市である。これは最初に見えてきた時、歓声を上げながら撮ったオルヴィエート市である。高速道路からなので若干のブレがある。
※『メディチ』で検索したらけったいな協会が出てきた。『日本メディチ文化協会』というらしいが、結局法人化できず、立ち消えになったようだ。『賞』を出すといいながら審査費用から授賞式(それもイタリアで!!)への出席費用から全額自己負担と書いてあるのには失笑してしまった。『審査費用を出せ』ということはつまり、『金を払えば賞をやる』という意味にしかとれない。


 

左・右:車で九十九折れの道を登り、城壁内に入り、更には市の中心部、大聖堂前広場に至る。道はきわめて狭く、タクシー、ハイヤーを除けば、旧市街には住民の車しか入れないことになっているとのこと。これはこのような小都市だけではなく、フィレンツェのような大都市でも城壁内(旧市街)では同じ規制が敷かれていた。右の写真、赤いのは山下である。


上:イタリアという国は、言うまでもなく古代ヨーロッパの中心、ローマ帝国の本拠地だった土地である。従って非常にプライドが高く、建築についてもなかなか外部の様式を取り入れない。キリスト教界を広く席巻したゴシック様式も、イタリアにはすぐに、そのままの形では入らない。フランスで生まれドイツに広がったゴシックなど、イタリアから見れば“北方の蛮族の建築様式”に他ならないのだ。イタリアに於いて正統ゴシックがそのまま移入された例は、ミラノの大聖堂ぐらいのものである。
よって、イタリアではゴシックといえどもイタリア化されてしまう。このオルヴィエートの大聖堂、確かに尖塔がたくさんあり、アーチ窓の先も尖っていて(尖塔アーチ、ゴシックアーチなどと呼ぶ)、基本的にはゴシックなのだが、ノートルダム・ドゥ・パリ、ケルン大聖堂など、独仏のゴシック建築とはかなり異なっている。何しろ、垂直線と高さを徹底的に追求するのがゴシックのはずなのに、この側面をごらんあれ。わざわざ二色の大理石を用い、水平線を徹底的に強調しているのだ。イタリア的に変容を遂げたゴシックの姿がここにある。それにしても、ゴシックをゴスと略称し、奇抜なファッションで街中を練り歩く日本のゴスロリ少年少女のうち、ゴシックの意味をちゃんと知っているのがどれだけいるだろうか?


 

左:内部に入ると、こちらも見事なまでに横縞模様で統一されている。また、正統ゴシックの場合天井も石造のヴォールト天井が支えるのが普通なのだが、このカテドラルでは見事な木造小屋組が屋根を支えている。なお、この大聖堂は1290年に建設がはじめられ、三世紀以上もの歳月を経て、十七世紀初頭に完成したという。
右:フランスやドイツと比べると、イタリアでは教会の規模に比してオルガンは小さなことが多い。それでもカテドラルクラスではかなり立派なオルガンが多かった。
※カテドラル=大聖堂:カトリック教会において、幾つかの小教区を束ねて管轄する高位聖職者を司教bishop、大司教archbishopと呼ぶが、その司教、大司教が赴任し、執務する教会のことをカテドラルと呼ぶ。英国国教会東方正教会の場合同じ語を主教、大主教と訳し、一部のプロテスタント教会では監督、大監督と呼ぶこともあるが、全て欧州各国語では同じ言葉であり、日本における訳語が違うだけである。


 

左:イタリアの古い教会のフレスコ画の多くはバロック期に漆喰などで塗りつぶされてしまったため、近年またそれをはがして修復する作業が各地で進められている。
右:日本ではお目にかかったことがないが、イタリアではこのように、マーブル模様のガラスをはめ込んだステンドグラスを結構見かけた。


  

左:大聖堂前広場の時計台。
中:同じ時計のアップ。時刻が来れば上の金を人形が叩いて時を告げる、メルヒェンチックなものであった。何しろオルヴィエート市の散策時間はたったの四十分!! 普通に歩いて回るだけでもそれ以上かかりそうだったので、非常に不本意ながら必死に早足での観光となってしまった(>_<)
右:これは市役所の時計台。


 

左:不動産屋のショーウィンドウ。住むには田舎過ぎるが、非常に風情のある街なので別荘ぐらいは欲しくなった。
右:イタリアという国がそういう国なのだろうが、どこの町にも美しい、入ってみたくなる路地がたくさんあった。


  

左・右:看板が非常に美しい路地。どれも鍛冶職人の手作りであろう。映画「魔女の宅急便」のワンシーンのようである。


 

左:こういうトンネル状の路地は、京都や大阪の旧市街にもかつてはたくさんあった。
右:木馬が配置された路地。


 

左:木馬の路地の入口に祀られているイタリア式“お地蔵さん”。無論キリスト教、カトリックのものであり、聖母マリアや幼子イエスだったりするのだが、こういう絵や石像を祀った祠はカトリック文化圏によく見られる。僕は旅行中ずっとこの手のものを「イタリア地蔵」と呼んでいた。
右:市役所前には美しいポルティコがあり、花屋が店を開いていた。


上:花屋のポルティコの上部。美しいので大判で掲載する。

 

左:オルヴィエート市庁舎。花屋のポルティコは左の教会である。
右:何しろ断崖の上の都市なので、街外れに近づくと、このように下界が見えてくる。


 

左:屋根が連なり、キューポラがあり、そして市外の山が見える。
右:珍しく、門扉の開いている家があったのでちょっと覗かせてもらうと…。


上:中には素晴らしい回廊のパティオが隠されていた。


 

左:街外れから市の中心部、高台の方を見る。先程のキューポラがある。
右:街外れの路地。


  

左・中・右:郵便受三種。凝ったデザインのものが多いが、左と中は同じ紋章だし、自家の紋章というわけではなく、既製品らしい。なお、鍵がついていることから、壁の内側から取り出せるようにはなっておらず、表から開ける形式らしい。


 

左:街外れ、もう断崖絶壁というところに建っている、素朴なロマネスク様式の古い教会堂。
右:街外れの断崖から乗り出して下界を撮影。可愛らしい農家があった。


上:街外れ、絶壁の上に城壁が巡っている。


 

左:同じ地点から反対側を見る。
右:上のロマネスク教会堂の入口の装飾。

 

左:人様のお宅の洗濯物を撮影するのもどうかと思ったのだが、洗濯物が絵になると思う人間は多いようで、イタリア旅行中洗濯物の写真をばしゃばしゃ撮っている欧米人観光客の姿をよく見かけた。
右:イタリアではオート三輪が多い。通訳の藤井女史によると、今年法律が改正されるまでは日本でいう原付は免許不要だったので、中学生ぐらいの子供でも平気で走り回っていたとのこと。


 

左:地図に載っていなかったので何だか判らないのだが、非常に美しい建物であった。
右:石畳、石塀、そして石の壁。非常に美しい空間である。


 

左:新しいアパートでも、街並みを破壊しない素材と色使いで建てられている。
右:大聖堂前広場で解散してからたった四十分の持ち時間では到底回りきれなかったが、何とかあまり遅刻もせずに集合地点の市門内広場へ到着した。正面が市門である。


 

左:市門を内側から見上げる。アーチはゴシック風である。
右:市門を外側から見る。この右手に公衆トイレがあったので、車に乗る前に用を足したのである。


上:再び高速道路から、さらばオルヴィエート。せめて半日はかけてじっくり回りたい街であった。

 

左:次の目的地、モンテプルチャーノに近づくと、温泉町があった。日本の旅館街とそこはかとなく似た雰囲気である。
右:次の目的地といっても、モンテプルチャーノでは郊外の農家レストランで食事するのみで、残念ながら市内には入らない。これが美味しいパスタを食べさせてくれた「リストランテ・プルチーノ」。


 

左:玄関に、ローマ帝国以前、つまりエトルリア時代のものかとも思われる石像が飾られていた。
右:二階玄関へ上る階段に、狛犬然とした獅子像が置かれていた。


 

左:リストランテ・プルチーノの調理場の竈。瓦斯や電気ではなく薪を燃やしている。なお、ソムリエや利き酒師の資格を持っている山下によると、ハウスワインでもかなりの水準だったそう。
右:車窓からちらりと見えたモンテプルチャーノ。オルヴィエートと同じく、丘の上の城壁都市である。


 

左:モンテプルチャーノの街外れ、小学校前にて。出迎えの母と下校する小学生兄弟。
右:ここからは、この日最後の経由地、アレッツォの街である。ここは藤井女史の本拠地であり、なおかつ藤井女史はアレッツォの公式ガイドの資格を持っているので、一緒に案内してもらった。奥に見えているのがサンタ・マリア・デッラ・ピエヴェ教会。十二〜十三世紀にかけて建てられたロマネスクの教会堂である。


 

左・右:建物のスケールに比して道が狭いので非常に写真を撮りにくかったが、サンタ・マリア・デッラ・ピエヴェ教会である。


 

左:上部の装飾的な壁画が美しい舘。
右:ルネッサンス期の建築家・画家であるジョルジョ・ヴァザーリのモニュメント。但し下にローマ数字でMCMXIと書いてあるから、つまりこのレリーフが設置されたのは千九百十一年になってからのことらしい。


 

左:ルネサンス期の建築だと思われるが、現在も現役の官庁である。壁面は紋章だらけであった。
右:同じ建物、玄関部の上に、メディチ大公家の紋章があしらわれていた。盾に配された六つの玉は、メディチ家の出自がが薬種商でることから丸薬を表すとされている。

 

左・右:1573年にヴァザーリの設計で建てられた、Pal.delle Logge。街の中心部、グランデ広場に面している。


 

左:グランデ広場。
右:広場に面した時計台。色々な時代の様式が混ざっている。


 

左:これも広場に面した建物。アレッツォもまた、坂の街である。
右:広場に面したサンタ・マリア・デッラ・ピエヴェ教会の後陣。


 

左:広場の土産物屋にて。豚さん型の貯金箱は万国共通らしい。
右:エトルリア時代の石垣。


 

左:美しい階段。
右:アレッツォ市の紋章。

  

左:ローマ、ミラノといった大都会ならともかく、アレッツォのような地方の小都市にもタットゥースタジオがあった。庶民階級にとってはポピュラーなものらしい。まぁ最近は日本でも、やくざ以外でも下層民の若者の間に刺青が広まりつつはあるが。
中:イタリアで一番よく見かけた自動販売機は、ガチャポンであった。
右:アレッツォ市内で見つけた超芸術トマソンの一種、無用門。


 

左:シックに作ってあるが、これはかなり新しい建物である。窓のシャッターに注目。閉じたまま、外に開くことができるようになっている。
右:アレッツォの市役所も、ルネサンス時代に建てられたものがそのまま使われている。


 

左:市役所の時計塔。
右:路地。抜けた先が坂道で、下界が見えている。


 

左:市役所と、広場をはさんで反対側にある大聖堂。これもイタリア化したゴシックである。なお、日本ではカトリックの司教区は全国で16区(うち大阪、東京、長崎が大司教区)しかないが、イタリアのようなカトリック国では日本でいう郡や市が一つの司教区という感じで、ちょっとした都市には必ず大聖堂がある。
右:大聖堂の側面扉。


 

左:大聖堂の後陣。確かにこうやって見るとゴシックの特徴を備えている。
右:大聖堂を見学する、遠足の子供たち。


上:大聖堂のとなりにあった、個人住宅。二階の窓が、極めて古風なスタイルであった。つまり、大きな板硝子が作れなかったり、作る技術はあっても極めて高価であった時代、このように小さな円形硝子を鉛の枠でつないで、ステンドグラスにして用いたのだ。


 

左:アレッツォをあとに、またアウトストラーデに乗る。車窓から見えた古城。
右:同じく、ジュゼッペ氏のベンツから見えた丘上都市。フィレンツェはもうすぐである。

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