骨董建築写真館 伊太利紀行篇・其ノ四 〜フィレンツェの巻・上〜
骨董建築写真館

伊太利紀行篇・其ノ四 〜フィレンツェの巻・上〜

ということで、イタリア旅行篇・其ノ参は三日目の途中、フィレンツェ入城からの写真で構成する。

上:インターチェンジでアウトストラーデを降り、フィレンツェ郊外から丘を登っていく。道すがらも相当なお屋敷街で期待が高まるが、ミケランジェロ広場に着くと、いきなり視界が開ける!! これは感動であった。
ということで、フィレンツェ市内を一望にする、ミケランジェロ広場より。ここは現在の行政区画上はフィレンツェ市内だが、厳密にいえば城壁外なのでまだ入城はしていない。とにかく素晴らしい眺望であった。右の大ドームは、フィレンツェ大司教座であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。中央の塔は市庁舎として名高いヴェッキォ宮殿、アルノ河にかかる左の橋はポンテ・ヴェッキォである。

 

左・右:ミケランジェロ広場には、このようにミケランジェロの傑作、ダヴィデ像のレプリカがある。


上:サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母マリア)大聖堂と、サンタ・クローチェ(聖十字架)教会。


上:更に右に振ってみる。つなげればパノラマ写真になるはず。


上:広場の街灯。フィレンツェ市内の街灯は殆ど、このように不気味な三本猫足で支えられていた。左手の売店で、ダヴィデエプロンが売られている。


上:右下から左上にかけて、フィレンツェ市を囲んでいた城壁が見える。右はアルノ河とポンテ・ヴェッキォ。


上:フィレンツェ市の中心部をもう一枚。

ミケランジェロ広場から下界に降り、ニコロ・マキャヴェリ通からローマ門をくぐり、いよいよフィレンツェの旧市街に入る。アルノ河を渡り、フェラガモ本店はじめ高級ブティックが並ぶ界隈を通り、ついに今日の終着点、サンタ・マリア・ノヴェラ駅前広場に到着した。サンタ・マリア・ノヴェラ駅(聖母マリア新駅)はトスカナの中心都市、フィレンツェの中央ターミナルで、大きな駅である。なお駅名は、駅前にある同名の教会に由来する。
広場で車を降り、愉快なジュゼッペ氏とはそこでお別れである。そして藤井女史と広場から歩いて一分もかからないサン・ジョルジョホテルにチェックイン。ここも一等地ながら静かで、しかも綺麗なホテルであった。
本来なら藤井女史ともそこでお別れなのだが、後はプライヴェートタイムで一緒にお茶でもとなり、山下と部屋に荷物を置いてからすぐ下に降りる。部屋はツインで、窓からは中庭が見下ろせる。ローマのホテルより更に広く、いい感じであった。

 

左:ホテルを出て、すぐに市の中心部というのはありがたい。最初に行ったのはまず、これ。如何にも十九世紀風の軽やかな鉄と硝子の建物である。ルネサンスの街フィレンツェにもちゃんと近代建築はあるわけだ。これは何かといえば、マルカート・チェントラーレ。つまりフランス語のマルシェ・サントル、英語ならセントラル・マーケット、即ち中央市場である。イタリア語は英語やフランス語から類推できる単語が多い。なお、チェックインが四時半頃、ここに来たのはもう五時頃だったので、市場はもうしまっていた。有料トイレのみ開いていたので借りる。
右:市場の隣には、いきなりすごいものがあった。メディチ家礼拝堂である。しかし、ルネサンスの大立者にして天下のトスカナ大公家の菩提寺にしては質素だなぁと思ったら、このファサードは未完に終わったんだそう。道理で。今回の旅行は表層を舐めるだけでなかなか内部まで入れなかったが、解説によると「ミケランジェロの最初の建築作品。開かない窓、 切れたペディメントなど、 脱ルネッサンスの意志が表れている。また白と黒の石をアクセントにスタッコで仕上げた無彩色のインテリアは緊張感に満ちている。 1534年完成。 」とのこと。次回は是非に入ってみよう。


 

左:Tシャツ専門店には、ルパン三世や峰不二子のTシャツもあった。
右:同じ店にて。脳の中の大半がセックスを考える部位、というイラストらしい。


 

左:同じ店にて、これまた主張の激しいTシャツ。
右:ドゥオモに向かって歩いている途中で見つけた、アール・デコなドアノッカー。


 

左:ドゥオモに面したところに、非常に美しいステンドグラスの看板と窓を持つ薬局があった。見ての通り、イタリア語では薬局はファルマチアという。英語のファーマシーと殆ど一緒である。
右:その薬局の前にあった自動販売機。ガチャポンを除けば、イタリアに来て初めて見かけた自動販売機である。藤井女史に素で「これは何の自動販売機でしょうねぇ? イタリアに来て自販機を観るのは初めてですよ〜。」と質問したところ、自販機をしばし凝視しての藤井女史の答えは「あぁ、あれの自販機ですね」だった(笑)。「あれでは判りません!! 一体何なんですかっ!!」と問い詰めるとセクハラになるところである(^_^;)


上:イタリアに来てまだ本場のジェラートを食べていなかったので、ドゥオモ前にとても綺麗な店を見つけてそこで食べることに。ダブルで1.9ユーロであった。すごく美味しい♪


上:このように非常に洒落たお店であった。左端、後姿は藤井女史である。


 

左:ドゥオモの正面に建ち、実はドゥオモより古い、サン・ジョバンニ洗礼堂。つまり聖ヨハネ洗礼堂である。十世紀の建物を十一世紀に改造したものだそう。
右:そしてこれがフィレンツェのドゥオモ、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂である。1296年アルノルホ・ディ・カンビオの設計で建設が始まり、フィリッポ・ブルネッレスキーの設計によるクーポラ(ドーム屋根)に着手されるのが1420年、その一応の完成が1434年、クーポラの上のランターンの完成が1466-70年、現在のファサードであるエミリオ・デ・ファブリオスのネオ・ゴシック様式のファサード完成は1871-87年とのこと。つまり今のファサードが完成したのは統一イタリア王国成立後、日本でも明治維新のあとということになる。

 

 

 

上六点:いずれもサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。


 

左:正面ファサード。洗礼堂の影が写り込んでいる。
右:ジョットの鐘楼。傾いて見えるのはレンズの煽りのせいである。イタリアにはピサに限らず斜塔が多いが、フィレンツェ大聖堂の鐘楼は傾いていない。


 

左・右:中心部、共和国広場の近くで見つけた、十九世紀後半風のビル。

 

左:中心部にある、とある雑居ビルの玄関ホール。
右:扉を入ると、階段室とその吹き抜けのエレベーターという典型的なつくりである。


 

左:呼び出しボタンを押すと、上から籠が降りてくる。さすがにヨーロッパでも運転手が常時必要な手動式エレベーターは少なく、扉は手動でも駆動は自動というものが殆どのようだ。
右:籠が下りてきて、停まるが、扉は開かない。自分で開けて乗るのである。


 

左:共和国広場(ピアッツァ・デッラ・レピュブリカ)の賑わい。
右:共和国広場に面した重厚なカフェ。


 

左:共和国広場の門。年号のローマ数字がMDCCCXCVだから1895年である。
右:その近くで見つけた映画館。角の飾りが美しい。


 

左:映画館の正面ファサード。シネマ・テアトロ・オデオンだから、日本風に言えばオデオン座である。
右:これも広場のカフェ。昔から文人墨客が集った老舗らしい。

上:ボッティチェリの展覧会をやっていたパラツィオの中庭。とにかく素敵な回廊を持つ中庭が多い。


上:ちょっと暗いが、同じ庭の上層部を見る。


 

左:シニョリーア広場に建つマーキュリー像。右側、銃眼のある建物はフィレンツェ共和国の時代から市政の中心であるヴェッキォ宮殿である。
右:橋の上が住宅になっていることで有名なヴェッキォ橋。


上:アルノ河の下流側から見たポンテ・ヴェッキォ=古橋。今ではこれらの建物は店舗であり、住んでいる人はいない。現在の橋はタデオ・ガッディの設計で十四世紀半ば、1345年に再建されたもの。


 

左:橋上の光景。右側が下流である。このように、両側に時計宝飾貴金属店が並び、あまり橋の上という感じがしない。
右:今度は反対側から。よって左が下流である。右側の二階が、有名なヴァザーリの回廊。政敵による暗殺を恐れるメディチ家のトスカナ大公コジモ一世が建築家ジョルジョ・ヴァザーリに依頼して作らせた、トスカナ大公国政庁ヴェッキォ宮殿からヴェッキォ橋を経て、私邸であるピッティ宮殿まで一切街路を通らずに行き来できるようにした、延長約一キロの回廊なのである。1565年3月から8月というわずか5ヶ月間で完成させたとのこと。しかし考えてみたら、大公殿下は馬車にも乗らず、毎日片道十五分はかけて回廊を歩いて通勤していたことになるな。健康的である。


上:橋の中央部は建物がなく、このように川面を眺めることができる。これは上流側、従ってポルティコの上はヴァザーリの回廊である。


上:同じ部分、欄干にもたれての写真。カヌーが浮いていて涼しげだが、「汚くて泳げない」レベルの水質だそう(-_-;)。左側、ポルティコのある大きな建物はウフィツィ美術館。公式サイトはhttp://it.yahoo.comで「Uffizi」をキーワードに検索したらすぐ出てきた。但し全部イタリア語なので、父にでも来てもらわないとあまり読めない(>_<)。ウフィツィ宮殿も元々は共和国、大公国時代の政府庁舎である。


 

左:橋上からヴァザーリの回廊を見る。
右:左岸、ヴェッキォ橋からアルノ川の上流に向かうヴァザーリの回廊。


 

左:ヴェッキォ宮殿(Palazzo Vecchio)。 1298年から1314年にかけて築かれた中世の宮殿で、共和国、そして大公国時代の政府庁舎である。現在でも一部が市庁舎として使用されている。但し、イタリア語のパラッツォは日本語の宮殿、英語のパレスとはかなり意味合いが違う。単に「大邸宅」というぐらいの意味である。英語のパレスは王家とごく一部の大貴族の住居(モールバラ公爵スペンサー・チャーチル家ブレナム宮殿など)にしか使わないので日本語の宮殿、御殿、御所とほぼ同じ語意だし、フランス語のパレも概ねそうだから(シャイヨー宮殿など革命以降共和政期の大パビリオンにも用いられる例がある)、パレス、パレと語源が同じとはいえ、イタリア語のパラッツォはかなり語意が違っているので注意しなければならない。ここでは慣例に倣いヴェッキォ宮殿、ヴェッキォ宮と表記するが、その点は留意して頂きたい。なおヴェッキオ宮では日本人カップルでも市民結婚式が挙げられるとのこと。
右:シニョリーナ広場にて。

このあと、ヴォッテガ・ヴェネタ本店に赴き、妙な子嬢の叔母上、五藤希和子女史に連絡を取ってもらう。結局店の電話で本人に連絡して頂き、僕が直接お話して八時にホテルのロビーでお目にかかることに。
それからワインバーを探し、山下と藤井女史はテイスティング、僕はオレンジジュースを飲む。生ハムやチーズも美味しい。ゆっくり楽しんで駅方面に戻り、広場にて藤井女史を見送る。
一旦ホテルに帰り、山下はブレザーにネクタイ、僕もスーツに着替えてロビーに降りたら、丁度五藤女史が来られたところであった。そこでホテルからも程近い、マルカート・チェントラーレ前の広場にあるリストランテ、ZA-ZAにご案内頂く。地元の人にも観光客にも人気の店でよくはやっているが、幸運にも店内の席にすぐ通された。予約なしでは結構難しいそうなのだ。さすがフィレンツェ在住二十二年の希和子女史、よい店を知っておられる。オーダーもお任せして、パスタ、ピッツァ、フィレンツェ風牛スライス、サラダなどが運ばれてくるが、どれも美味しい♪ イタリアで食べた食事の中で、この日の晩餐が一番だったといえよう。山下によるとワインもよかったとのこと。
デザートにはチョコレート味のパンナコッタ、これも上出来であった。最後はどろどろの地獄のようなエスプレッソが出てくるので、ラッテ(牛乳)を大量に貰ってカフェラッテにして飲む。
話が弾み、ゆっくりと食事したので、もう十時であった。駅前で五藤女史とお別れし、ホテルに戻る。風呂に入って、あとは寝るだけである。

トップに戻る    伊太利紀行篇・其ノ五 〜フィレンツェの巻・中〜