骨董建築写真館 伊太利紀行篇・其ノ五 〜フィレンツェの巻・中〜
骨董建築写真館

伊太利紀行篇・其ノ五 〜フィレンツェの巻・中〜

●五月十八日(火)・・・別に目覚ましとか仕掛けていないのに、今朝もちゃんと七時過ぎには目覚める。とりあえず、顔だけ洗い、一階の食堂に。ここも朝食はバイキング形式で、パン、ヨーグルト、果物、それに珈琲、紅茶、ミルク、オレンジジュースである。桃のシロップ漬が美味しかった。
一旦部屋に戻り、身支度をして、すぐに出発。今日もいい天気である。


 

左:まずホテルからすぐなので、中央ターミナルたるサンタ・マリア・ノヴェラ駅に行ってみる。どういうわけか、山下は「鉄道は軍事施設扱いで撮影禁止だから、撮るならこそこそと撮れ」と訳の解らないことをいう(-_-;)。僕は欧州は初めてではないし、かつてパリでもあちこちの駅を平気で撮影している。旧社会主義国やビルマのような軍事独裁国家ならまだしも、EU圏内でそんなことあるはずないし、聞いたこともないのだが、ここでいさかってもしょうがないのでなるべくこそこそと撮ることにする。こそこそといいつつも、まず撮ったのは構内専用の電気パトカーだったが。イタリア語では警察はポリツィアである。
右:さすが大きな駅なので、あちこちへ向かう列車が沢山入線していた。国際特急もいるのだろう。


 

左:なお、欧州の鉄道はイギリス以外みんなそうだが、改札はなく、自由に列車内に入ることができる。動き出してから車内検札があるのだ。また、プラットホームが低いのも欧州各国そうである。日本の鉄道がイギリス式なのは、英国から鉄道技術を導入したため。
右:これが宿泊した、ホテルサンジョルジョ


 

左:これが駅名の元になった、サンタ・マリア・ノヴェラ教会。日本にあればカテドラルクラスの大教会だが、もちろん司教座ではない。なお、フィレンツェにしては質素だ、と思ってはいけない。これは裏側、後陣なのだ。尤もこの面が駅前広場に面しているのだが。
右:昨日は入れなかった、マルカート・チェントラーレつまり中央市場に入ってみる。やはりガラスと鉄骨で軽快に作られた、十九世紀末の建築であった。しかしネットで検索しても、この市場を建築として取り上げているところは見つからなかったので、データは不明。皆フィレンツェに行くと、近代以前の建築にしか興味が向かないらしい。


 

左:非常に天井の高い空間で、一部に中二階が設けられている。
右:鉄によりレースのように繊細な装飾が施されいてる。石や煉瓦を積み重ねるそれまでのヨーロッパ建築と訣別した、産業革命以降の近代の建造物である。


 

左:新素材であった鉄と硝子で初めて実現した、明るく開放的な大空間。
右:非常に活気のある朝の市場。


上:フィレンツェの胃袋、マルカート・チェントラーレの正面ファサード。

 

左:中央市場前広場に面した、リストランテZAZA(ツァツァ)。見ての通り、オープンカフェが非常に広い。
右:フィレンツェでも中華料理店は沢山あった。なお、日本の中華料理店は華僑経営より日本人経営の店の方が多いだろうが、イタリアの場合まずほとんどは華僑、華人の経営になるようだ。


 

左・右:中央市場前からドゥオモに向かって歩いている途中で見つけた、実に不細工なドアノッカー。魔よけ的な意味合いがあるのだろうが、およそ美形とは言いがたいモチーフが多く面白かった。


 

左:これは相当古い。ひょっとしたらルネサンス期の建物だろうか? 屋根の軒が木造である。この上に、美しい赤い瓦が葺かれているのだ。
右:通りすがりに見つけた、コンサートのポスター。なんと五月十八日当日である!! ということで、今宵はこのコンサートに行くことに決定した。このあとコルソ通を歩いていて、会場のサンタ・マリア・デ’リッチ教会も無事に発見。


 

左:二階の窓と三階の窓の間に、贋の窓が描かれている面白い建物。
右:同じ建物。左端の二つは本物の窓、その隣二つは贋窓に小窓が開けてある。意図は不明だが、面白かった。


 

左:同じ界隈で見つけた、これまた飄逸なドアの装飾金具。開ける時に握られるのか、ぴかぴかであった。
右:歩いていくと、突然ドゥオモの側面に出た。道が碁盤目でないので、大体の見当をつけて歩いているのだが、時々ずれることがある。正面広場を目指していたつもりが、勘で歩いたのでわずかながら方位がずれてしまったのだ。修復工事中だったのだが、ミニユンボを吊り上げていてちょっと怖かった。


 

左:数分並んで、側面(正面向かって左)の入口から中に入る。ここはクーポラ(ドーム)の頂に登るための入口である。堂内は薄暗い。上に見えているのはクーポラの内側の壁画。その下、ゴシックアーチの奥は後陣で、クーポラの真下が祭壇である。
右:六ユーロなりを支払って、クーポラの頂上を目指してひたすら昇る。こんな感じで、延々と石段が続く。非常にしんどい。何しろ高さ107メートルである。通天閣が103メートル、神戸ポートタワーが108メートル、横浜マリンタワーが106メートルだったと記憶しているが、それらとほぼ同じ高さ、ビルにしてざっと三十階前後である。その天辺まで歩いて昇るのだから、かなりの運動量になる。
※なお、ポートタワーといえば神戸しかなかったのだが、最近になって地方貧相な漁港が勘違いした観光振興のために建てたちんけタワーに、オリジナルに敬意も払わず勝手にポートタワーと名乗るところが多い。失礼な話である。


 

左:いい加減息が切れてきたところに、こんな空間があったのでしばし休憩する。教皇冠をかぶった偉そうなおっさんたちの大理石像だから、恐らくフィレンツェ出身のローマ教皇たちであろう。
右:洋の東西を問わず、観光地には落書きが多い(-_-;)。日本語、朝鮮語、中国語なども散見された。


上:更に昇ると、突然視界が開ける。クーポラの内側に出たのだ。転落防止用の高いアクリル板の上に手を伸ばして撮ったので、アングルとかは無茶苦茶だが、クーポラの真下、祭壇部分を見下ろした写真である。左が後陣。


 

左:ここまで昇ってくると、当然ながらクーポラ内面の天井画を間近に眺めることができる。
右:天井画は、下のほうが地獄絵図、上のほうが天上絵図である。仏教寺院と共通するモチーフなのが面白い。なお、下に見えているのは、このとき僕が立っている回廊の一階上の回廊で、帰りにはそこを歩くことになった。

 

左:更にこのような狭い階段を昇り続ける。僕は殆どしたことがないが、ロールプレイングゲームのようである。
右:時折窓があり、外が見える。


 

左:クーポラは二重構造になっていて、内殻と外殻の間に階段があるのだが、非常に不思議な構造になっていた。
右:ようやく頂上に到達。絶景であるが、この柵の低さに注目!! 僕は特に高所恐怖症ではないのだが、慣れるまでの数分間は結構怖かった。なお、床も柱も全て大理石である。


 

左:クーポラの天辺に立ち、その上に建つランターンを見上げる。
右:下界を見下ろす。修復工事用の足場がすぐ下に見えるが、よくもまぁこんなところで仕事ができるもんだ。すごく怖い。


上:サンタ・クローチェ教会が見える。正面のみ化粧ファサードであることが判る。


 

左:わざとらしく大袈裟な演技で怖がる山下。実際、自殺しようと思えばかなり豪快な死に方がすぐにできる場所であった。
右:ベッキオ宮、更にはミケランジェロ広場方面を望む。


上:これは北側。上方白く細長いのがサンタ・マリア・ノヴェラ駅。右中程、緑色の屋根はマルカート・チェントラーレである。メディチ家礼拝堂の下、画面中央やや下に、緑色に緑青を吹いた天文ドームが見える。宮崎アニメに出てきそうな光景で、コペルニクスのような天文学者がいそうであった。


 

左:大聖堂の大屋根を見下ろす。
右:天文ドームのアップ。


 

左:こちらも歩いて昇ることができる、ジョットの鐘楼。
右:鐘楼の頂上にも、非常に小さく人が見えている。


上:柵から身を乗り出して、真下を見下ろす。高所恐怖症の人はこの写真を見ただけで冷や汗が出るかもしれない。


 

左:絶景を思う存分堪能し、降りることにした。下りの階段も超急勾配である。
右:途中の窓から、メディチ家礼拝堂と中央市場が見える。


 

左:またクーポラの内側の回廊を通る。アクリル板が高く、非常に撮影しにくかったが、何とか天上画の撮影に挑戦。地獄の底で悲嘆にくれる老婆。右隅に写っているのが透明なアクリル板で、その上端は手を伸ばしてやっと届く高さであった。
右:同じく、亡者を喰らう魔物。ゴヤの傑作「わが子を喰らうサトゥルヌス」を思い出させる絵であった。


 

左:劫火に焼かれる亡者や、骸骨姿の魔物。
右:何とか下まで到達、クーポラを見上げる。


 

左:大聖堂脇には、常時三台の救急車が待機している。上り下りの途中で心臓麻痺などでぶっ倒れる人や、無事に天辺まで昇ったもののあまりの高さに目を回す人など、連日結構いるのであろう。
右:改めて正面に回る。白、緑、赤と三色の大理石を用い、これ以上は無理というほどの装飾に埋め尽くされている。


 

左・右:大聖堂の正面ファサード。


 

左・右:大聖堂正面の門扉とその周りの装飾。これもイタリア化されたゴシックである。


 

左:ドゥオモ内部。広大で、薄暗く、床は一面大理石のモザイクであった。
右:正面裏側の壁面にあった、不思議な時計。


 

左:時計と、その上の薔薇窓。
左:誰でも自由に蝋燭を捧げられる燭台。


 

左:大聖堂付近。団体観光客が各国から押し寄せている。
右:歩いてすぐのところにある、サンタ・クローチェ教会に向かった。藤井女史、五藤女史が絶賛してやまない名刹で、ジョットはじめとする十三世紀の名画で溢れており、ミケランジェロ、マッキャベリ、ガリレオ、フォスコロ(詩人)、ロッシーニなどイタリア芸術史上の錚々たる英雄たちの墓もある。建築的には1294年アルノルフォ・ディ・カンビオの設計に基づいて建設が始まり、1385年に本堂が完成し、最終的にファサードが出来上がったのは十九世紀になってからという、フランチェスコ派の教会である。

上:サンタ・クローチェ広場。広場を囲む建物が非常に古い。


 

左:聖十字架教会の入口。ドゥオモと同じく、ファサードは十九世紀に入ってから完成しているので、イタリアン・ネオ・ゴシック様式である。
右:入口上部の装飾。


 

左:聖十字架教会内部。三身廊形式だが、ゴシック特有の石造ヴォールト天井ではなく、木造小屋組が支えている。壁面は白漆喰だが、これは十七世紀にフレスコ画の上から塗られたもので、はがせば名画が沢山現れるんだそう。
右:床面のお墓。日本人の感覚では理解しにくいが、カトリック的発想では多くの人に墓を踏まれると、罪が祓われて天国に近づけるんだそう。この教会は特に「フィレンツェのパンテオン」と呼ばれるほど、偉人、英雄のお墓が多く、床も壁もお墓だらけであった。


 

左:正面祭壇。かなり大規模な修復工事中であった。
右:祭壇脇に設置されたパイプオルガン。


 

左・右:大作曲家、ジョアッキーノ・ロッシーニのお墓。


  

上三点:聖堂内にはこのように小礼拝堂が数多あるが、どれもフレスコ画や油彩画に覆われている。一々詳述するときりがないが、巨匠の傑作があちこちにあって圧倒されてしまった。


 

左・右:これらも小礼拝堂。元々は旧家、名家、金満家が個人の専用礼拝堂として寄進したものなんだそう。


 

左:祭壇脇から、正面方面を望む。側廊に沿ってずらっとコリント式柱に支えられたペディメント(破風)が並ぶが、これら一つ一つが小礼拝堂、お墓、記念碑などである。
右:祭壇向かって右脇、パイプオルガン下の扉を出ると、そのまま付属修道院方面へ抜ける通路に出る。非常にいい雰囲気なので、今にして思えば山下には脇に寄ってもらって撮ればよかった(-_-;)


 

左:上右の写真の廊下の突き当り、扉の上にメディチ大公家の紋章が飾られていた。
右:その扉の奥は、また小さな礼拝堂。祭壇を支えるアーチのキーストーン部分にも、メディチ家の紋章があしらわれている。


 

左:上の廊下の途中に、ミュージアムショップと、古い楽譜など展示されている小部屋があった。
右:その部屋の上部。壁は一面のフレスコ画、小屋組まで華麗に彩色装飾されていた。

 

左:更に奥に進むと、豪奢なポルティコがある。ドームの下、左側アーチ上の入口を入ると、パッツィ家礼拝堂である。
右:ドーム天井の青いテラコッタが非常に美しい。


 

左:パッツィ家礼拝堂の内部。
右:聖十字架(サンタ・クローチェ)教会南側ファサード。ポルティコが付き、中庭になっている。


 

左:同じ中庭。奥の門を抜けると、更に素敵な中庭が。
右:左の写真の奥の門を抜けたところ。実に素敵な中庭であったが、風太に見せると「精神病院みたい」だそうσ(^◇^;)。確かに四周を囲まれた閉鎖空間で、やや朽ちた美しさがあり、車椅子に乗せられた廃人がいるとすごく絵になる光景ではあるが…。


上:中庭全景。若干の入場料はかかるが、地元の人にとっても憩いの場であるらしい。庭の中央は南欧風の釣瓶井戸、奥に見えてる円形の建物はフィレンツェ国立中央図書館である。


上:同上


 

左:細部のディティールも美しい。
右:庭の隅。


 

左:パッツィ家礼拝堂と、修復中の鐘楼。
右:革工房で有名な修道院なので、門前にはこんな店も。


 

左:僧院の庭からも上部が見えていた、フィレンツェ国立中央図書館の円形塔。
右:アルノ河に面した正面玄関。ビブリオテカ・ナツィオナーレ・チェントラーレと大書してあるので、図書館と判明。国立中央図書館がフィレンツェに?と不思議に思って地図を見てみたら、正式名称はビブリオテカ・ナツィオナーレ・チェントラーレ・ディ・フィレンツェであった。


上:アルノ河を望む。対岸に、市壁の外れの砦が見える。


 

左:アルノ河に沿って下流に向かって歩くと、ウフィツィ美術館にいたる。
右:ウフィツィ美術館からベッキオ宮を望む。

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