骨董建築写真館 伊太利紀行篇・其ノ六 〜フィレンツェの巻・下〜
骨董建築写真館

伊太利紀行篇・其ノ六 〜フィレンツェの巻・下〜

さて、フィレンツェ二日目も後半に入る。ここからはヴェッキオ橋を渡り、アルノ河左岸地区の散策である。


 

上三点:ベッキオ橋を渡って対岸にも延々と続くヴァザーリの回廊。


上:これが回廊の終点、メディチ大公家の居城であったピッティ宮殿である。前庭は狭いが、背後には広大なボボリ庭園が控えている。これぐらいの大パラッツォになると、英語のパレスと同義、日本語の宮殿と訳すのに抵抗がない。


 

左:ピッティ宮のドアノッカー。大変大きかった。
右:壁面にもこのようにいかめしいライオンの装飾があった。壁面全体が荒々しいルスチカ積みであるし、ルネサンスの庇護者メディチ家の宮殿にしては全体に優美というより無骨な印象の建物である。
ここで宮殿内に入る山下と別行動をすることになって別れる。連日ずっと一緒だと息が詰るので、今日は途中から別れようという話になっていたのだ。


上:ピッティ宮の外壁。これまた荒々しい石積みである。


 

左:その石垣の下に停まっていた、可愛らしい三輪乗用車。「リクシャ」というブランドであった。つまり人力車である。
右:これがかの有名な、ラ・スペコラ博物館。十八世紀に作られた人体解剖蝋人形のコレクションで著名なところで、僕も写真集を持っている。ここの見学を楽しみにしていたのだが、なんと開館時間は午後一時まで・・・。無茶苦茶に短い。僕のあとからも次から次へと欧米人観光客が見学に来ては、唖然とした表情で帰っていった。今回の旅行で一番悔しい出来事であった。


 

左:ラ・スペコラ博物館の入口から中を覗き込む。
右:イタリアの街角では、このように美術、音楽関係のポスターをまとめて貼ってあるところをよく見かけた。


 

左:ボボリ庭園の入口。
右:イタリア中あちこちの窓に、レインボーカラーの旗が掲げられていた。一瞬セクシュアルマイノリティのシンボルカラーかと思ったら、そうではなくイタリア語でPACEと書いてある。パーチェ即ち平和である。つまり、イラク戦争、馬鹿で愚かなブッシュ政権とそれに追従するイタリアのベルルスコーニ・ファッショ政権への抗議の意志表示である。日本でもこういう旗がほしいとつくづく思った。帰国後すぐに行われたイタリアの統一地方選挙並びに欧州議会議員選挙では、案の定我らが左翼陣営の大勝で終わった。素晴らしいことである。


上:ローマ門。フィレンツェ市の旧市街を取り巻く城壁に穿たれた城門である。

 

左・右:ローマ門を市内から望む。このように今でも現役の門で、車が常時通行している。久しく閉められた様子はないが、木製の門扉も閂も現存する。この門より内側は交通規制が敷かれ、旧市内の住民と許可を得たタクシー以外の車は入城できない。


 

左:門の内側。鉄鋲の打たれた門扉と、古いフレスコ画が見える。
右:門の壁の穴。鳩除けの針が植えられているに、平然と鳩が入り込んでいる。かなり厚かましい鳩だ。


上:外側から見たローマ門。


 

左:門につながる城壁。
右:城外からすぐに始まる、マキャヴェリ通。かなりのお屋敷街だが、その入口にローマ帝国建国神話、狼に育てられる双子の兄弟ロムルスとレムスの像があった。


 

左:ご覧の通り、ニコロ・マキャヴェリ通である。彼もフィレンツェ出身なのだ。
右:マキャベリ通の入口付近、芸術研究所の外壁にある、矢鱈に汚い公衆便所。大体剥き出しだし、女性用もない。かなり古い時代のものと思われるが、今でも使う人がいるようで、非常に臭かった(-人-)


上:ローマ門を出てすぐ左、マキャヴェリ通の入口に、広大な敷地を伴うこの建物があった。ISTITVTO D'ARTEと書いてあるから、恐らく芸術研究所なのだろう。VはUだろうから、イスティトゥトとはインスティテュートではないかという推測で、アルテは当然アートである。門が開放されていて、誰でも入れる雰囲気だったので、右の松の下のベンチでしばし休息、歌など詠んだ。犬を散歩させたり、昼寝している人も多く、とても気持いい。しかし、ベンチの周囲には大量の使用済みティッシュペーパーが散乱していて、夜にはどういう場所になるのか一目瞭然であった(≧w≦)。ただのアベックの名所ではなく、ひょっとしたらハッテン場なのかもしれない。


 

左:大勢の学生が中で創作している研究所の裏手に回る。左側はそのままボボリ公園に入れるらしい門もあったが、僕はまっすぐ行って裏の住宅地に入ってみる。観光客の姿は全くない。
右:結構瀟洒な住宅地で、豪邸街ではないがいい雰囲気であった。ここにもパーチェ旗が掲げられている。


上:如何にも二十世紀的なモダニズムの個人住宅。よく見えないが、壁画がすごかった。


 

左:住宅の間から市の城壁が見える。
右:阪神間のお屋敷街と非常に似た雰囲気の路地があった。


 

左:同じ道をもう少し進む。
右:あちこちから城壁が見える。

 

左:ニコロ・マキャヴェリ通に出るところには門柱があり、ストラーダ・プリヴァータつまりプライヴェート・ストリートと書いてあった。全体が塀で囲まれた、かなりグレードの高い分譲住宅地だったようだ。
右・マキャヴェリ通の公園。非常に綺麗なところであった。


 

左:マキャベリ通の街燈も三本猫足だった。
右:緑豊な邸宅街に、邸宅を利用したホテルなどもあった。


上:非常に立派な門を持つ個人住宅。


上:一部分だけ修復されたポルティコがあった。


 

左:ローマ門まで戻り、旧市街には入らず、門に向かって左側の城壁に沿って歩いてみる。
右:ところどころ、城壁の内側へ抜けられるトンネルがある。


 

左:夜間は閉鎖されるらしく、インターフォンがついていた。
右:城壁の内側は延々と公共駐車場になっていて、駐車場から出て街中に入るまで随分歩かされた。


 

左:京都や大阪の旧市街同様、イタリアの諸都市の旧市街にもこのようなトンネル状の路地が多い。これは相当古いものらしく、暗くてよく判らないがメディチ家の紋章が残っていた。
右:フィレンツェは職人の都市で、このように様々なジャンルの工房(ボッテガ)が非常に多い。


 

左:既に城壁の内側、つまり旧市街なのだが、中心部とは街並みの雰囲気も建物の規模も異なっている。
右:これは煙草の自動販売機。ガチャポンのほかは、煙草の自販機が時々見られた。


 

左:そして食料品店に置かれたガチャポン。
右:地図で名前を確認していないのだが、これも城壁に穿たれた大きな門である。


 

左:通りすがりの瀟洒なアパート。
右:アルノ河から対岸の中心部を見る。右側の建物は五つ星クラスのウェスティン・エクセルシオールホテルである。

上:同じ位置から更に上流を見る。非常に涼しげな光景である。


上:右岸に渡って同じ堰を見る。閘門が設けられていないので、舟運は無理である。


上:同じ位置から更に上流方向を見る。左端の水門閘門のあとか? フィレンツェの発展にアルノ河の水運は欠かせなかったであろうから、昔からこのような通行不能で閘門のない堰があったとは考えにくい。なお関西では三栖閘門尼崎閘門毛馬の閘門などが現存している。また検索していたら、淀川大堰にも閘門を設ける計画があり、淀川沿岸に河川港(船着場)の整備も進められていると判明。へ〜〜〜とちょっと驚いた。


 

左:河岸にある高級アパルトマンの、ドア本体と一体化したすごいドアノッカー。
右:ボッテガ・ヴェネタのメンズ店「ジオッティ」。


 

左:ジォッティの入っているビル。かなりの歴史的建造物である。
右:その真向かいが超高級ホテル、ウェスティン・エクセルシオール


 

左:ちょっとした建物にも、このように立派なフレスコ画が残っていたりする。
右:かなり暑かったので、通りすがりの教会で休む。乾燥した暑さなので、建物に入るとそれだけでひんやりしていてエアコン要らずである。


 

左:凝ったつくりの説教壇。
右:メディチ家ゆかりの教会だったらしく、床面にメディチの紋章入りのお墓があった。


 

左:サンタ・マリア・ノヴェラ駅方面に歩くと、職人の工房が連なっているエリアを通る。ここは照明器具屋さん。
右:奥の壁に天井装飾用漆喰細工があるので、左官関係の事務所らしい。


上:サンタ・マリア・ノヴェラ教会の正面ファサード。全体としては質実なイメージのこの教会も、正面はこのように飾り立てられている。


上:同教会、東側側面。ゴシックアーチが連なっている。

上:サンタ・マリア・ノヴェラ教会の近くにあった、僕の好きそうな品がいっぱいのアンティークショップ。
このあとサンタ・マリア・ノヴェラ駅前地下街(梅田など日本の地下街と比べると滅茶苦茶小規模だが、フィレンツェにも地下街があった)のインターネットカフェに行ってみるが、二軒とも満席。駅裏方面に行って少しだけ円をユーロに両替し、地下街に戻ると、ようやく席が開いていたので、イタリアに来て初めてインターネットに接続し、メールチェック、返信、そしてこのサイトの掲示板のレスなどをする。
ホテルに帰って山下と合流。今夜はバロックのコンサートに行くので、スーツに着替える。


 

左:ホテルを出て、まずは腹ごしらえと昨夜と同じZAZAに行く。今日は五藤さんがいないので苦労して自分たちで注文したが、やはり昨日の晩御飯のほうが美味しかった。
ということで、これはトラットリア・ツァツァのトイレ。イタリアでは、時々、トイレの鍵が内側の鍵穴に差し込んであるのに出くわした。こんなん、誰かが鍵を抜いて持っていってしまったら次の人は鍵をかけられなくて困ると思うのだが、そういういたずらはないのだろうか?
右:そして、かなりあせって支払いを済ませて、コンサート会場に向かう、のだが、歩くGPSを豪語する僕がなんと道に迷ってしまい、コンサート開始時間に十分ほど遅れてしまった(≧w≦)。会場はコルソ通のサンタ・マリア・デ’リッチ教会。バロック様式の小さな教会で、プログラムはオルガンソロでバッハ、そしてオルガンとヴァイオリンという珍しい組み合わせでヴィヴァルディの四季全曲であるが、前半を聞き逃してしまったのだ。
ともあれ、地元フィレンツェの若手音楽家と思しき二人組の演奏、なかなかにうまかった。聴衆は観光客が殆どのようだが、聴き手の水準も低くなさそうな雰囲気である。
この写真はコンサート終了後に撮ったもの。オルガンは電気制御のかなり新しいもので、移動コンソールを祭壇においての演奏であった。実に面白いオルガンで、祭壇脇の隠しパイプと、入り口上部、クワイアギャラリーのメインパイプを同じコンソールで、一台のオルガンとして演奏できるようになっていたのだ。こんなのは初めて見た。


 

左:正面祭壇。右側、おじさんの向こうにオルガンコンソールが見える。
右:コンソール。三段手鍵盤+足鍵盤である。


上:ストロボを焚いてもかなり暗いが、これが入口上部、クワイアギャラリーのメインパイプである。デザイン的にも二十世紀のオルガンといえよう。


上:これが祭壇脇の隠しパイプ。木の透かし彫りの奥にパイプが隠されている。なお、右端に見えているのは別の小型オルガン。


 

左:教会をあとにする。21時15分からのコンサート、終わったらもう11時を過ぎている。十時頃までは薄明かりのある五月のイタリアでも、さすがに真っ暗になっていた。ぶれているのはそのせい。
右:ホテルまで高級ブランド街を歩いて戻る。これはルイ・ヴィトン。


 

左:ボッティチェリ展をやっていたルネサンス期のパラッツォ。
右:ライトアップされていて夜も美しい。


 

左:“イタリア地蔵”のある風景。
右:交通量は殆どないが、煌々とライトアップされている。


 

左:見事なバロック様式の教会。
右:高級ブティックにて朱頭巾ちゃんをモチーフにしたとても可愛いハンドバッグがあった。


 

左:上のハンドバッグがあったお店。王冠状のトレードマークからして高級陶磁器店のリカルド・ジノリ(日本ではなぜか英語でリチャード・ジノリと称している)の本店だろうと思われるが、スペルの最後がiがlに見える。
右:ホテルに帰って、部屋の前の消火栓をパシャリ。ローマのホテルと共通の消火栓マークがついている。法律で決まっているのであろう。
ということで、もう深夜十二時近かった。今日も随分歩き回ったが、実に気分がいい。風呂に入ってから寝る。

トップに戻る    伊太利紀行篇・其ノ七 〜ボローニャ〜フェラーラ〜