骨董建築写真館 伊太利紀行篇・其ノ七 ボローニャ〜フェラーラ
骨董建築写真館

伊太利紀行篇・其ノ七 ボローニャ〜フェラーラ

●五月十八日(火)・・・朝、八時には起きる。身支度をして、荷物も全部まとめて、山下と一階の食堂に降りる。日本にいるときには考えられないことだが、今日も朝からたっぷりと朝食を摂り、部屋から荷物を出してレセプションにてチェックアウト。そこに今日一日の通訳ガイドである片庭美芽女史が登場、まずは挨拶を交わす。
美芽女史の案内で、駅前広場に行くと、今日の運転手であるブルーノ氏とシルバーのベンツがお出迎え。今日は移動日で、ボローニャ、フェラーラと回ってヴェネツィアに至るのだが、何とも豪華な大名旅行である。
ブルーノ氏が荷物をトランクに入れ、僕らが乗り降りするときは必ずドアを開けてくれる。朝のラッシュが始まっている(というか日本より遅い)フィレンツェの市街を抜けて、ローマ門からマキャベリ通を登り、今日もまたミケランジェロ広場へ。素晴らしい景色を眺めて、フィレンツェに別れを告げる。とはいえ、もう一度市内に入り、アルノ河を渡り、サンタ・マリア・ノヴェラ駅前を通って旧市街の北側へ抜ける。アウトストラーデのインターチェンジも空港も市の北側なのだ。


上:フィレンツェ初日に撮った写真と殆ど同じだが、この景色でフィレンツェにお別れである。


 

左:フィレンツェの旧市街を抜け、工場地帯を走っているときに、車窓から撮影した街路樹の根元。麦のような雑草が生い茂っていた。こういうところが日本と違う。
右:ベンツでアウトストラーデを飛ばすのは非常に快適である。最初の運転手ジョバンニ氏は非常に陽気なタイプのイタリア人の典型のような人だったが、ブルーノ氏は渋いタイプのイタリア人で、物静かでダンディであった。美芽女史はイタリア人と結婚、既に子供までいるという当地に根を下ろした日本人で、これまたとてもお話が楽しかった(~o~)
ということで、イタリア半島の脊梁であるアペニノ山脈を越えるハードな行程だったにもかかわらず、一時間ほどでボローニャに到着。言わずもがな、欧州でも最古の大学のある文教都市で、知識人が多く、よって左翼の牙城である。これは市の中心部、マッジョーレ広場にあるツーリスト・インフォメーションにて、美芽女史が地図をもらっている間に撮影。さすが大学都市だけあって、ガウンなどを展示していた。


上:マッジョーレ広場にそのままつながっているネットゥーノ広場には、ボローニャのシンボルであるネットゥーノ、つまり海神ネプチューンの像がある。この街もこの季節のイタリアのご多分に漏れず、遠足の小中学生がわんさかといた。


 

左:ネットゥーノ広場に面した非常に厳しい要塞。中世建築であろう。
右:同じ要塞の門。落とし格子を備え、まさに城門である。この地下にチップ制、つまり任意のコインを置けば利用できる公衆トイレがあった。今回の旅行、移動日はいつも慌しいが、ボローニャも一時間ほどで回らねばならない(T_T)


上:撮影する自分が写り込んでしまっているが、宝飾店のショウウィンドウ。東洋的な置物はよく見かけた。これは日本の布袋像か?


上:これがツーリストインフォメーションのあったポデスタ宮。一階のカフェでミネラルウォーターを買って歩きながら飲んだ。乾燥しているのでそう不快ではないが、かなり気温が上がってきたのである。なお、ボローニャのシンボルはこのようなポルティコで、町中新しいビルに至るまでポルティコを備えていた。雨の日でも雪の日でも殆ど傘をささずに移動できるので便利。


上:これも広場に面した、大時計のある建物。市庁舎か何かだろう。ボローニャについてはもう少し下調べしてから行けばよかった( ´,_ゝ`)
と、ここまで作って、検索していてこんなサイトを見つけた⇒<増補>。フィレンツェだけでなく、この街にも人体解剖博物館があったとは!! まぁ知っていても時間的に入っている余裕はなかっと思うが、それにしても惜しい。


 

左:よく判らない地図(極めて大雑把であった)を頼りにボローニャ大学を目指す。前を歩いているのは中学生ぐらいの少年たち。とても可愛い子もいた。
右:とにかく延々とポルティコが続いている。非常に美しい。

 

左:ボローニャのカテドラル、サン・ペトローニオ大聖堂の側面。由緒ある大都市の大司教座だが、今まで回ったイタリア諸都市の大聖堂と比べると質素である。
右:逆光だが、ボローニャ大学の一部らしき建物に行き着いた。


 

左・右:大学らしき建物。遠足の少年少女たちで騒がしかった。天井は紋章で埋め尽くされている。


上:サン・ペトローニオ大聖堂を後ろから眺める。左には鐘楼が見える。


 

左・右:ポルティコが連なるボローニャの街並み。日本のような湿度の高い土地だと陽射しを遮っても暑さにあまり変わりないが、イタリアのように乾燥したところだとこうして陽射しを遮るとそれだけで暑さがかなりしのげるのだ。


上:ボローニャ中央郵便局。これは統一イタリア王国成立後の近代建築だと思われる。


 

左:中央郵便局前の郵便ポスト。
右:ピサのように有名ではないが、ボローニャにも斜塔がある。


 

左:天井部分が木造のポルティコ。かなりの古いものであろう。
右:古い建物が連なる、風情のある路地。


 

左:見事なゴシック様式のポルティコ。
右:歴史ある大学都市だけあって、学術書専門の書店があった。

  

左:前ページのゴシック様式のポルティコ。実は二連アーチという短いものである。
右:これがボローニャの斜塔。


 

右:このように二本の斜塔が並んで建っている。
右:斜塔の根元付近。


 

左:石畳が美しい。
右:この塔も若干傾いている。山下の後姿が写っている。


上:集合時間が近づいたので、マッジョーレ広場に戻り、サン・ペトローニオ大聖堂を拝観する。途中で予算が途切れたとかで、正面ファサードも下の方しか大理石の化粧張りが施されていない。なお、内部は撮影禁止だったので、律儀にそれを守ったので写真はなし。


 

左:大聖堂の正面玄関。石造ではなく煉瓦の躯体に、大理石の化粧張りが一部施されている。
右:マッジョーレ広場を囲む建物。


上:マッジョーレ広場にて。

上:駆け足のボローニャ観光を終え、美芽女史と合流、ブルーノ氏のベンツに乗り込んで、またまた“運転手つきのベンツプラス美人通訳つき大名旅行”状態でアウトストラーデを飛ばす。次の目的地はエステ公爵家の都として名高い芸術の街、フェラーラである。エステ家といえばイタリア史上に名高い名家の一つであり、フェラーラ公国モデナ公国の支配者であった。かのヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアの妹、悲劇の美女ルクレツィア・ボルジアが政略結婚でフェラーラ公アルフォンソ・デステ(姓はEsteであるが、貴族であるので名乗る時にはd'Esteになる)の許に嫁いだことでも世に知られている。また、我々ゲイにとっては忘れられない映画、「フェラーラ物語」(1987年イタリア映画、ジュリアーノ・モンタルド監督)の舞台としても感慨深い地である。
ということで、1135年に建立された、ロンバルディア・ロマネスク様式のフェラーラ大聖堂前にて、この街で最初の一枚を撮影した。写っているのは我々のベンツである。


 

左:ドゥオモの壁に、カーディナルハット(枢機卿冠)をかぶった紋章があった。教皇庁がエステ家からフェラーラ公国を奪い教皇領化してからは教皇の代官たる枢機卿が統治したというから、その当時のものであろう。
右:大聖堂の重厚な玄関。獅子の背で柱を支える小鬼がいる。


 

左:玄関を入り、聖堂前の前室にて撮影。ここにも奇妙な柱があった。
右:聖堂に入り、バロック風の小祭壇を見る。


 

左:薄暗いところをノーストロボで撮影したので、かなりぶれ気味だが、大聖堂入口付近より主祭壇を見る。
右:見事な天井装飾。


 

左:浮き彫りではなく、実は騙し絵装飾でが施された柱。
右:以下にもイタリア的な、聖堂の規模に比べると小さなパイプオルガン。


 

左:大聖堂入口付近に点された蝋燭。僕らも献金して一本づつ捧げた。
右:大聖堂を出て、美芽女史に案内されて昼食を摂るピッツェリアまで歩く。これはまず出された、ボローニャ風のイタリアパン。結構硬かった。この辺りはスパゲティ・ボロネーゼつまりスパゲティミートソースの本場なので、昼食は生ハムとチーズ、スパゲティ・ボロネーゼ、ピッツァ、それにワインであった。もちろん僕はワインはやめてミネラルウォーターとオレンジジュースをもらう。


上:これがそのレストラン、「サン・ドミニコ」。静かで感じのいい店であった。

上:エステ家の居城、エステンセ城全景。世界遺産である。欧州には何度も旅している伯爵だが、城は初めて。四周を堀で囲まれたロの字型の構造で、本丸、二の丸、三の丸とあるのが普通の日本の城の感覚からいうとそれほど大きな城ではない。また、石造ではなく煉瓦造で、この地方は非常に平べったい地形であることもあり、屋城(岐阜の因幡山城や愛知の犬山城など)や平山城(大阪城や姫路城など)ではなく典型的な平城(名古屋城など)である。但し着工1385年であるから、日本の主だった城よりかなり古い(完成は十六世紀に入ってからとのこと)。現存する日本の城のイメージは概ね室町末期以降、戦国時代に発達したものなので、それ以前の中世の城砦は、日本でもこの程度の規模である。


上:エステンセ城の堀。満々と水を湛えている。ご覧のように、堀の小島に四角い砦を設け、外部から城に入るには二つの橋を渡らなければならない構造になっている。しかも内側、本体側は跳ね橋で、よく見ると今でも腕木と鎖で吊られているのが見える。煉瓦のアーチの奥、床板部分は跳ね上げ式なのだ。


 

左:城門の上部。縦の溝はかつて跳ね橋を上げ下げする腕木が出ていたところである。
右:城内は四角い中庭になっている。内側から塔を見上げたところ。


 

左:城内中庭。二つの優美な井戸があり、遠足の子供たちがたむろしていた。右端を歩くのは美芽女史。
右:城門前広場。中世の石畳の上に大砲が置かれている。


 

左:一ヶ所、城が張り出して堀が非常に狭くなっている部分があった。籠城戦の時には一番の弱点になりそうである。
右:四つある塔の一つは時計塔になっている。昼食後というのがよく判る時間である。かなり暑かった。


 

左:下層階の窓は小さく、少なく、上層階の窓は大きい。昔の武器はあまり高くまでは届かなかったようだ。
右:城外から、城門に入っていく老紳士二人を撮る。跳ね橋の二本の腕木が見えている。


 

左:城門と跳ね橋。
右:城の近くで見つけた、天蓋付の素敵な階段。

 

左:古いポルティコつきのアパートが風情をかもし出す通り。日陰と日向の明るさの違いで、陽射しの強さがわかる。
右:大聖堂にくっついている古い古いポルティコ付の商店街。なんと十五世紀の建築とのこと。フェラーラ市は人口当たりの自転車保有台数がイタリア一とのことで、街中自転車が走り回っていた。起伏のない土地柄の故であろう。


上:同じ商店街を近くから見る。左手に見えているのは大聖堂真向かいの市庁舎である。


 

左:中世そのままのポルティコには古い水飲み場があって、非常に暑い午後だったので鳩たちが水浴びをしていた。
右:中世そのままの街並み。


上:四角錐の大理石を積み重ねて建てられたディアマンテ宮(Palazzo dei Diamanti)。エステ家のお抱え建築家ビアージョ・ロッセッティの作品で、ルネサンス真っ盛り、16世紀初頭の建物である。煉瓦建築が殆どのフェラーラ市において純白の大理石は非常に目立つ。


 

左:ディマンティ館の正門。美芽女史が写っている。
右:中庭より正門方向を眺める。美しい庭で、井戸は花壇と化している。


 

左:ディアマンティ宮殿の裏門。
右:ディアマンテ館のトイレ。パリではよくこのスタイルの、つまりトルコ式トイレを見かけたが、イタリアではここだけでしか見なかった。


 

左:ディアマンティ宮前の石畳。相当な歳月を経ているであろう。
右:これが僕らのベンツ。この日はフィレンツェ⇒ボローニャ⇒フェラーラ、そしてヴェネツィアまで、ブルーノ氏運転するこのベンツで旅したのである。

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