骨董建築写真館 伊太利紀行篇・其ノ八 〜ヴェネツィアの巻・上〜
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伊太利紀行篇・其ノ八 〜ヴェネツィアの巻・上〜

フェラーラから再びベンツに乗り込みアウトストラーデを飛ばすこと約一時間半、あっという間に今日の車での行程を全て終了し、車はヴェネツィア市の入口、ローマ広場に到達した。本土側のメストレからは海上を長大な橋で渡るのだが、車はそこまで、そこから先は全て船での移動となるのである。
広場で降り、ブルーノ氏とお別れ。そこから美芽女史に水上バスターミナルまで案内してもらう。そして美芽女史ともお別れ。あとはヴァポレットVaporetto(水上市バス)に乗ってホテルにチェックインすればいいのだ。


 

左:ところが、とりあえずヴェネツィアのメインストリートたる大運河を走る快速バスである82系統に乗ったのはいいが、どこで降りたらいいのかが判らない。この辺りがHISという旅行社のいい加減なところである。元は個人旅行者相手からスタートした会社だけあって、団体ツアーはどうしても大雑把、へたくそなのだ。今回の旅でも、ホテルは各都市とも穴場ともいえる素晴らしいところを押さえてくれてはいるが、スキポールでの乗り換え案内、レオナルド・ダ・ヴィンチ空港での出迎えなど、旅行の素人が一番途惑いそうな要所要所が実にいい加減なのである(-_-;)。山下は欧州初めてで、僕だって十数年ぶり、そしてイタリアは初めてである。勘と度胸で乗り切ってきたが、旅慣れていない人がHISの団体ツアーに参加するときっと途方にくれることが多々あるであろう。
ともあれ、HISから渡されたクーポン券には「ホテルバルトロメオ、リアルト、サンマルコ」と書いてあるだけである。番地はサンマルコ5494だったか・・・。山下と二人、「ローマもフィレンツェも一等地、中心部のホテルだったから、このバルトロメオもそうであろう。」「それにしても、リアルトのバス停で降りればいいのかサンマルコ広場で降りればいいのかこれではさっぱり判らん。」と悩んだ末、えいやっとリアルト橋で降りてみる。
僕は元気だったのだが、山下は移動の車中ずっと寝ていたにもかかわらず、グロッキー気味であった。僕は毎晩ぐっすり寝て、朝にはすっかりパワーが回復していたのだが、山下は旅程が進むほどにしょぼくれてくる(-_-;)。年齢は同じなのだから、要は酒がいけないのであろう。山下はそんな深酒するわけではないが、毎日必ずワインやビールを飲んでいた。
ということで、大荷物を担いでそのままホテルを探すのはしんどいというので、バス停前のバル(BAR=喫茶店兼バーのような店)に入り、山下はビール、僕はコーラで喉を潤す。バルのオヤジが「ジャポネ? 大阪?」などと尋ねてくるので「Si! Osaka.」などと答えると、なんと「毎度おおきに」とのこと(笑)。関西人が来て教えたようだ。なお、滅茶苦茶観光地のわりにはこのバルは良心的な値段であった。
ともあれ、地図を広げてみると、リアルト橋の袂にサン・バルトロメオ教会があり、その前にバルトロメオ広場がある。恐らくその辺りだろうと目星をつけ、山下と二人、大荷物を背負ってバルトロメオ広場へ。しかし広場に面したところにはそもそもホテルが一軒もない。脇道にも入ってみるが、サルヴァトーレというホテルがあったり、リストランテがあったり、運河に突き当たって行き止まりになったりで、目的地は見つからない。山下が広場のカフェのアジア系従業員に尋ねても判らないし、たまたま事務所から出てきた地元のビジネスマン風の人に僕が聞いても判らない(≧w≦)。一体どうなっているのかと思いつつ、リアルト橋の辺りをうろうろする。とにかくヴェネツィアは名だたる迷宮都市である。真っ直ぐな道など一つもない。街中が巨大迷路のようになっている。僕だからいいが、方向音痴の人間は悶絶死すること必至であろう、恐ろしきところである。
とうとう業を煮やし、リアルト橋近くの教会前の石段で、山下に待っていてもらうことに。僕としても二人で大荷物背負ってうろうろするより、山下に荷物を預かってもらって身軽になって一人で探すほうが早い、と思ったのだ。
一人になって更にリアルト周辺をうろうろするも、どうしてもホテルバルトロメオは見つからない。途方にくれてもう一度クーポン券を見てみると、「サンマルコ5494」というイタリア語表記が目に入った。そう、番地はこのとき初めて気づいたのである。欧州の地名表記の常識で言えば、番地は通りに沿って振られており、また大きな広場ではその周りを巡って振られている。つまり、「これはサンマルコ広場の周囲に違いあるまい」と思ったのだ。
そこで山下のところに取って返し、これからサンマルコ広場まで探しにいく、往復と現地で探す時間を考えると三十分はかかるだろうがそのまま待ってくれ、といって、いざサンマルコに向かって歩き出した。
地図は持っているし、僕は“歩くGPS”と豪語している人間である。ヴェネツィアの街路は本気でぐちゃぐちゃで訳がわからないが、方向さえ判れば僕には道は関係ない。それにあちこちに「→San Marco」といった感じで表示も出ていて、それに沿っていけば間違いない。
と、狭い路地を抜けたらいきなり、サン・マルコ大聖堂の真横に出てしまい、大感動(T_T)。やはりものすごい迫力、美しさである。が、まだ宿を見つけていないので、ゆったりとした気持ちで感動することができない(-_-;)。サンマルコ広場の周囲を見渡すが、大聖堂、ドゥカーレ宮殿、新政庁、旧政庁と巨大建造物が並んでいるだけで、どう見てもどこにもホテルなどない。これは脇道か裏通りかと思ってうろうろするが、やはり他のホテルはあってもバルトロメオはない…。
旧政庁一階、高級ブティックなどがずらっと並んでいるポルティコを歩いていると、各国語で「police polizei polizia 警察」と書かれている看板が目に入り、ここは警察に頼るしかあるまいと思ってその交番に入ってみた。どうも僕もよほど悲惨な表情をしていたのか、先客が一人いたにもかかわらず、巨漢のイタリア人警官はすぐに僕にどうしたのかと聞いてくれたので、早速ホテルを探している旨英語で申告する。彼はすぐにホテルに電話をかけてくれたのだが、結局やはり、元のバルトロメオ広場の周囲だ、とまでしか判らなかった…。
警官に礼を言い、山下の待つ教会前に取って返す。結局40分はかかってしまった。そして山下にもう少し待てと言い残し、バルトロメオ広場へ。さっきは「まさかこんな路地の奥ではないだろう」と入らなかった路地に入って、角を曲がって、曲がって、グニャグニャの路地を更に進んでふと門口の番地を見ると、5480番台である。おお、ではこの辺りかと更に奥に進み、角を曲がり、トンネル状になった路地を曲がると、ようやくに、やっとのことで、バルトロメオホテルを探し当てることができた…。
この写真、アーチの上に黒枠があるが、その中にバルトロメオホテルと書いてあるのだ。アーチの奥、突き当たりは中華料理店「杭州飯店」で、扉の前を右に曲がって、更に左に曲がったところで、ようやくバルトロメオホテルの玄関に着いた。
右:バルトロメオホテル玄関。ご覧のように非常に狭い路地に面して建っており、しかもその路地は杭州飯店前のトンネルを抜けるほかに入口はなく、画面右端の方、突き当たりは運河で行き止まりなのである。
着いてみたらエレベーターこそないが英語もちゃんと通じて、設備もよくて、綺麗で、とてもよいホテルであった。しかし、この判りにくさは何だ!!!!!!!! HISの怠慢である。リアルトバス停からの簡単な地図のコピーを渡し、「ちょっと判りにくいところにあるので気をつけて下さい」と一言注意しておいてくれたら、ここまで途方にくれなかっただろう。歩くGPSの僕がホテルを探し当てるのに一時間以上かかったのである。海外旅行はこれが初めてという英語が苦手な熟年夫婦とかならどうなっていたことか。「新婚さんに最適のツアーです」と書いてあったが、これが新婚カップルなら成田離婚ものであろう…。
なお、あとからホテルでガイドブックをゆっくり読んで判明したことだが、ホテルの所在地が「リアルト、サンマルコ」になっていたのはつまり、サンマルコ区のリアルト、ということだった。サンマルコはサンマルコ広場だけではなく、周囲全体の大地名でもあったのだ。そしてヴェネツィアの番地は欧州式ではなく日本式であった。サンマルコ区全体が通し番号なのである。よって「番地だけで目的地を探し当てることはまず不可能」と書いてある(-_-;)。その番地でホテルを探し当てた僕はやはり化け物ということになろう。


 

左:ホテルで旅装を解いて、一休みして、まだまだ日が高いので気を取り直して早速ヴェネツィア観光に繰り出す。やはり最初はサンマルコ広場であろうと、山下と二人、今度はゆったりとした気分でヴェネツィアの迷路を散策する。さっきとはちょっと違うルートでサンマルコ広場に到着。これはサンマルコ広場の大鐘楼、高さ97メートルである。元々は十六世紀初頭に建てられたものが1902年に突如崩壊し、1912年に現在のエレベーター付きの塔が再建されたんだそう。
右:ヴェネツィア共和国の政庁が長く置かれていたドゥカーレ宮殿。典型的にして見事なヴェネツィアン・ゴシック様式の建物である。九世紀から十五世紀にかけて火災や改築を繰り返し、現在の姿になった。ヴェネツィア共和国の元首は総督と訳されるが、その官邸でもあった宮殿である。


上:サンマルコ広場を運河側から眺める。右にドゥカーレ宮殿、サン・マルコ大聖堂と並び、手前に並んでいるのは新政庁前のオープンカフェのテーブルと椅子である。宮殿に夕陽が当たって美しい。既に八時頃であったと思われる。

上:サン・マルコ広場から大運河の対岸に見える、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。島全体が修道院となっている。ルネサンスを代表する大建築家、アンドレア・パラディオによる1563年の作品である。


上:同じ場所から、もう少しズームアウトして撮る。


上:サン・マルコの船着場付近にて。屋台の土産物屋はイタリア中どこにでもあるが、パーチェ旗やダビデエプロンなど全国共通グッズのほかご当地グッズも色々あって、ヴェネツィアの場合はこのように仮面が代表的なご当地グッズであった。


上:大運河を行きかう船。黄色いのはヴァポレット(市バス)、白いのは沿岸警備隊である。


上:サン・マルコのバス停の屋根の向こうに、大運河の対岸、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会を見る。1630年、猛威を振るったペストの終焉を記念して建てられたバロック様式の教会である。


上:サン・マルコ大広場はサン・マルコ大聖堂(写真正面)、新政庁(右)、旧政庁、そして両政庁をつなぐコッレール美術館に四方を囲まれている。これは一番奥、コッレール美術館前に立って、夕日に輝く大聖堂と鐘楼を撮影したものである。既に八時過ぎだが、これほどに明るい。


上:同じ場所から新政庁を撮影。新政庁一階中ほど、テントが突き出し、オープンカフェが設置されているのが、1720年創業という物凄い老舗カフェ「フローリアン」。画面右端、鐘楼と新政庁の間に見えるレース様の装飾が美しい建物はドゥカーレ宮殿である。

上:典型的なヴェネツィアン・グッズ、仮面とヴェネツィアングラスを扱うお店。仮面も大量生産の土産物からアーティストによる一点物まで色々あって、値段もピンからキリまでであった。


上:大運河にかかるリアルト橋。ヴェネツィアの中心部にあるこの橋は、その昔は木造の跳ね橋だったそうである。現在の橋は1588〜1591年にかけてダ・ポンテの設計架けられた大理石製で、フィレンツェのヴェッキオ橋のように店舗が設けられている。なお、アントニオ・ダ・ポンテは十六世紀の建築家であり、十八世紀の劇作家ロレンツォ・ダ・ポンテとは別人である。


上:リアルト橋から海側の大運河を眺める。左がサンマルコ区である。夕日がパラッツォに当たって実に美しい。


上:リアルト橋を渡って、対岸を歩く。この辺り、卸売市場などあって庶民的な様相である。右の教会は五世紀に建てられたサン・ジャコメット教会で、ヴェネツィアで現存する最も古い教会建築であった。


上:同じ教会の正面に回る。一本針の時計が時代を感じさせる。


 

左:教会前の噴水。
右:暗い回廊の先に大運河が見える。


 

左:同じ回廊から、大運河を行くヴァポレットを撮影。
右:一旦ホテルに戻り、ファーストフード(バーガーキング)で軽く夕食を済ませ、リアルト地区、サン・サルヴァドール教会近くの古い舘へ。ヴェネツィアでは毎晩至るところでクラシックのコンサートがある。ホテルを探しながら歩いているうちにあちこちに貼ってあるチラシでそれに気づいたので、チケットをゲットしていたのだ。どういう建物だかわからないが、床の大理石の磨り減り具合からも、相当に古い建築であることがわかる。


上:このように、バロック時代の服装をしての観光コンサートであった。歪んだ部屋で面白い。楽器は古楽器ではなくモダン楽器、チェンバロはローランド製の電子チェンバロだったが、それでも雰囲気は楽しめた。
十時開演だったので、終わったらもう十一時半を過ぎている。さすがに疲れていたので、あとは歩いてすぐのホテルに戻り、ヴェネツィア初日の全日程を終了した。

●五月十九日(水)・・・昨夜もぐっすりと寝て、七時過ぎには目が醒める。毎日非常に爽やかである。山下も同じぐらいに起きて、一緒に二階の食堂へ降りる。ここのメニューもローマ、フィレンツェのホテルとほとんど同じ。ただしセルフサーヴィスではなくちゃんと女給がテーブルまで持ってきてくれるので、このクラスのホテルとしては異例の高級なサーヴィスであるといえよう。
朝食後、交代でシャワーを浴びて、服を着替えて、早速街に繰り出す。今回のイタリア旅行でも伯爵的に最も楽しみにしていた街、ヴェネツィアである。

 

左:ホテルの前の狭い路地をドン突きまで歩いてみる。このようにトンネルになっていて、その向こうは運河で行き止まりである。ただし、行き止まりなのは歩行者にとってであって、この水際は今でもしょっちゅうモーターボートが接岸し、物資の荷揚げが行われていた。
ヴェネツィアはイタリアの中でも特に物価が高いと感じたが、それは観光地であるせいだけではあるまい。つまり車が乗り入れられない分、ターミナルから小船に積み替えて市内中心部の各店舗まで配送する訳だから、運送コストが一般の他都市とは比べ物にならないぐらい高くつくのである。
右:左の写真で山下が立っている位置よりの運河の景色。実用船のほか、観光ゴンドラも非常に多かった。


 

左:運河側からホテルを見る。玄関前に日除けテントがかかっているのがバルトロメオホテルの入口である。突き当りを右に曲がると、外界への唯一の陸上通路であるトンネルがある。
右:緑色の鎧戸がいい雰囲気のバルトロメオホテル。


 

左:突き当りを右に曲がったところ。赤く塗られているのは中華料理店杭州飯店の存在ゆえだろう。赤い中華提灯の右が飯店の入口、左が外への路地である。このようなトンネル上の通路をヴェネツィアではソットポルテゴと呼ぶ。小さなものでも名前が付いていることが多い。なお、オープンエアの路地はカッレと呼ばれる。
右:ソットポルテゴを抜けると、このような小広場(カンピエッロ)に出ることが多い。広場というより中庭に近い。袋小路のこともあれば、通り抜けてされに進めることもある。


 

左:ソットポルテゴの先にカンピエッロが見える。
右:カンピエッロの中心には井戸があることが多い。ただしヴェネツィアはいくら掘っても真水が出ないので、井戸といっても地下水を汲み上げる施設ではなく、雨水を溜めておく石造タンクである。


 

左:これもホテルの近くで見つけた“イタリア地蔵”である。
右:ホテル付近のカッレやソットポルテゴをぐるぐる巡ったのち、バルトロメオ広場(カンポ)に出る。まだ朝早いのだが、既に賑わっている。


 

左:朝の運河は交通渋滞を起こしていた。なお、運河にも一方通行ほかさまざまな交通規制が敷かれている。
右:賑やかな商店街を通って、サン・マルコ広場を目指す。途中で不動産屋があった。生涯に一度はヴェネツィアで暮らしてみたいものである。


上二枚:ビザンティン様式の傑作、ヴェネツィア大司教座カテドラルである聖マルコ大聖堂の入口付近のモザイク画。

上三枚:聖マルコ大聖堂正面、五連アーチの装飾モザイク。このカテドラルは828年頃から建設が始まり976年に火災で一度崩壊、ほぼ完成したのが1073年とのこと。それ以降の改装もあり、ビザンチンをベースにロマネスク、ゴシック、そしてルネサンスの要素も加味されている。


 

左:大聖堂の入口は団体客と個人客に分かれていたが、どっちもものすごい行列であった(≧w≦)。拠って入るのを断念、可愛い子供たちを撮影しただけで我慢することにした。
右:ドゥカーレ宮と大聖堂の繋ぎ目。


上:仰角で見る大聖堂。連日天気も素晴らしかった。


上:新行政庁の、ドゥカーレ宮殿側ファサード。連続アーチのポルティコが素晴らしい。アーチのキーストーン(要石)の意匠が一つ一つ違うことに注目。


 

左:サン・マルコ広場前に繋留されているゴンドラ群。対岸のジュデッカ島に豪華客船が停泊している。このような豪華客船が連日入港していた。ヴェネツィアをベースにしたアドリア海・地中海クルーズ船なのかもしれない。
右:サン・マルコバス停前で観光客の撮影に応じる大道芸人。ヴェネツィアだけあって、謝肉祭スタイルである。


 

左:同じ場面を角度を変えて撮影。左の建物はおそらく近代の建築であろう。可愛らしいネオ・ルネサンス様式であった。
右:ジュデッカ運河を入港してくる豪華客船。うしろに見えるのはサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会である。


上:ヴァポレットに乗ろうとサン・マルコのバス停に入る。注意書はイタリア語、フランス語、英語、ドイツ語の順番で、確かにフランス人、ドイツ人は目に付いた。しかし日本語がないのは寂しい。なお、注意アイコンは右から「ペット乗船可」「禁煙」で左端が笑える。船から船に飛び移るのは三角印となっているのだ。さすが欧州、何から何まで管理されることに慣れた日本と違い、いい意味での自己責任が徹底しているのだ。どうも日本では人権を抑圧しなんでも管理したがる層(でも当の本人は庶民階級だったりすることが多いのがばかばかしい)ほど自己責任を主張するようだが、本来の自己責任、そして法の精神とはこういうことである。


上:バス停から見たジュデッカ島の先端。岬の突端に訳の解らない芋虫状のオブジェがあった。夜になると光るらしい。

上:ということで、船に乗った。水上バスからサン・マルコ広場を眺める。ここがヴェネツィア共和国の正面玄関である。
※なお、ヴァポレットのチケットは一回券も二十四時間券も、乗る時に印字機を通せばいいことになっている(一日券などは初回のみ)。しかし、そこに係員がいるわけでなし、また日中は検札は殆どない。ただ乗りしようと思えばいくらでもし放題という感じであった(-人-)。僕らは二十四時間券(オールナイトで動いているので使おうと思えば本当に二十四時間乗り続けられる)を買ったが、金を払っているのは観光客だけで、勝手知ったる地元民の大半はただ乗りしているのではなかろうか、という疑念を拭い去れない( ̄(エ) ̄)


上:サン・マルコ運河を東へ進むと、これはもう動くことはないのだろうか、かなりレトロな、小さいけれど豪華な船が繋留されていた。レストランか会員制クラブといった感じである。


 

左・右:停泊中の巨大豪華客船。船名は「ブリリアンス・オブ・ザ・シーズ」号である。


上:ジャルダーニバス停付近。この辺りまで来ると建物の間隔がゆったりとしてくる。舫綱は巨大豪華客船のもの。


上:ジャルダーニのバス停。僕はイタリア語は音楽用語ぐらいしかわからないが、giardaniならおそらくフランス語のjardinや英語のgardenつまり庭園と同義語であろうと類推できる。といってもフランス語も大学で習ったことはないのだが。


上:実際、このバス停より東は建物が少なく、このように公園になっている。この公園の中に有名なヴェネツィア・ビエンナーレの会場もあるらしい。今年はヴェネツィア建築ビエンナーレの年で、丁度「日本のオタク」展なんて国恥的イベントをやっていたが、無論のこと、わざわざイタリアまで来てそんな気色の悪いものを観るほど馬鹿馬鹿しい話はないので、一切無視して過ごした。こんな国辱物の展覧会を企画した連中は全員焚刑に処すべきである。小汚くいけてなく醜くもてないオタクどもにとっては「萌え」は「侘び寂び」に通じる美意識なんだそうだが(げろげろ)、そんな不気味な感覚が現代日本のコモンだと思われては極めて甚だしくも顕著に迷惑なことこの上ない。


上:リド島に向かうにつれ、ラグーナに浮かぶほかの島々が見えてくる。画面中央の船は車を積んだフェリーボートである。ヴェネツィア市内と言えども、ラグーナの大きな島は車が走っているので、それらの島と本土を結ぶフェリー航路がたくさんあるらしい。


上:ラグーナの水深は浅いので、航路を示す澪つくしが点々と並んでいる。


上:本島を振り返ると、ヴェネツィア大学らしき建物が見えた。


上:リド島が近づいてくる。既にヴェネツィア慣れしていたので、車が走っているのはちょっと驚きであった。


上:これがリド島の船着場。沢山の路線が集まっているので、バス停というよりバスターミナルという感じである。なお陸上側にも自動車の市バスのバスターミナルがあった。なお、このカンパリのネオンが、ヴェネツィアで見た唯一のネオンサインである(店の看板など小規模なものは除く)。

上:リド島に上陸する。このように、普通に道路があって車が走っている。非常に細長い島で、内海(ラグーナ)と外海の間の防波堤的な存在となっている。ヴェネツィアの市内ではあるが、ここは別世界で、19世紀以降に開発された超高級リゾートである。この素晴らしいアール・ヌーヴォーのホテルは、島のヴァポレットターミナルから反対側まで、せいぜい一キロ程度の目抜き通りを歩いているとその途中にあった。


 

左:同じホテル。英語名で、オーソニア・パレス・ホテルと書いてある。
右:ヴァポレットターミナルから十数分歩くと、もう島の反対側に出る。ラグーナは汚くてとても泳げたものではないのだが、外海側にはこのように素晴らしい遠浅の海水浴場が連なっている。山下ともども、よほど泳ごうかと思った。


上:目抜き通りの突き当りから砂浜にかけて、このようにウッドデッキが整備されている。これは波打ち際の真上から陸側を見たところ。正面、鉄骨のドームのある建物の一階はクラブになっていて、深夜にいくと非常ににぎやかな音楽が聞こえていた。なお、正面左手にかの有名な、映画「ベニスに死す」の舞台としても知られている超一流ホテル、「オテル・デ・バン」がある。ルキノ・ヴィスコンティ伯爵の傑作であるこの映画、僕は学生のころから大好きで、よっていつか、いつか必ずこのホテルを訪れる、というのが長年の夢だったのである。


上:反対側を見る。まだ五月半ばなのだが、すでに十分泳げる気候で、実際海水浴客が沢山いた。


上:デッキ上にて、写真を撮っている山下。


上:これがオテル・デ・バンである!!!!!


上:同じくオテル・デ・バン。もう少しアップで撮ってみた。今この写真を見ていて気づいたのだが、どうやらフェンスより向こうはオテル・デ・バンのプライベートビーチのようだ。映画の中で主人公グスタフ・フォン・アッシェンバッハが借りていたのと同じ小さな草葺の小屋が並んでいる。


 

左:ビーチから道路に戻る。オテル・デ・バンはヴァポレットターミナルとビーチを結ぶ目抜き通がビーチに突き当たり、海岸通とのT字路を右に曲がってすぐの陸側、海岸通を挟んでビーチに面して建っている。
右:広大な敷地は生垣に囲まれている。内部は美しい庭園である。歩いていくと、生垣越しにようやくホテルの本館が見えてきた。壁面にGRAND HOTEL DES BAINSと書かれているのが読める。


 

左:さらに歩いて、ホテルの門に到達した。
右:これが正面玄関である。古典様式の優美な建物で、大時計がはめられている。ご覧のように人影は少なく、非常に静謐な空間であった。




上:ストロボを焚かずにとったので非常に暗くなってしまったが、ホテル正面玄関を内側から撮影した。


上:同じところを横から撮影。これは明るく写っている。


 

左:ぶれてしまったのが残念だが、ダンスパーティーなどが開かれたらしい大広間。
右:映画にも登場、アッシェンバッハ男爵がお茶を飲んでいたテラス。


 

左:ホテルの玄関ポーチ。ということ、本当はここで優雅にお茶を楽しみたかったのだが、時間がまだ午前中だった上、こんな日に僕はノーネクタイだったのだ…(-人-)。どうせ憧れのオテル・デ・バンでお茶するならちゃんとネクタイ締めて、ベストに懐中時計をぶら提げている時にしたいなぁと思って、この時は写真を撮っただけでホテルをあとにした。ヴェネツィア滞在はまだまだ時間がある、と思ったのが失敗であった(-_-;)
右:リド島は高級別荘地の間に一流リゾートホテルが点在するところである。

 

左:リド島の目抜き通り。別荘やコンドミニアムが並んでいる。
右:これも目抜き通りに面した邸宅。


 

左:ヴァポレットターミナルから目抜き通りに入ってすぐのところにある、郵便局。庇の下に公衆電話のサインが出ていた。この辺りはスーパーマーケットも多く、生活しやすそうである。
右:ラグーナ側の海岸通にある、アール・デコ風の建物。どうやらヴェネツィア出身の戦死者を祀る霊廟らしい。


 

左:霊廟の表札。国防省の所管らしいことが何となく解る。ミニステロ・ディフェサはディフェンス・ミニストリーであろうと類推できる。
右:霊廟は無料で誰でも入れるので、入ってみた。シーンと静まり返って、入口の守衛さんのほかは誰もいない。涼しくて、美しい室内であった。これはオルヴィエートの大聖堂にもあった、マーブルグラスのステンドグラス。左右の長方形の石版には、それぞれ人名が刻まれている。おそらく戦死者であろう。


 

左:霊廟の地下は、円形の室内の壁をぐるっとこのようなステンドグラス窓が取り囲んでいる。階上はおそらくセレモニーができる空間なのだろう。
右:霊廟のまん前はラグーナ側の海岸通である。小船に詰まれた食料品が荷揚げされていた。右の白いバンが荷物を受け取りに来た車である。


 

左:リド島を離れようと、ヴァポレットターミナルへ戻る。今度はヴェネツィアの郊外に転々とある島を巡ろうというのだ。郊外路線である12系統の船は本島を巡る路線よりかなり大型である。本数も少なく、一時間に一本程度だった。
右:12系統のバスの最上デッキより、リド島のターミナルを望む。リド島から最初の目的地ブラーノ島まで、一時間ほどもかかるちょっとした船旅である。


上:ヴェネツィア大学を間近に見る。


 

左:途中停まった、島のバス停。「プンタ・サッビオーニ」という名前だか、日本語ガイドブックでは一切触れられいないのに、白人客はわんさか降りていった。きっと日本人の喜ばないスタイルのリゾート地なのだろう。
右:ラグーナにはこのように島と呼べない程度の砂洲が沢山あった。このような島を盛り土して、杭を打ち込んで、市街地にしていったのがヴェネツィアの歴史なのだろう。


上:静かなラグーナを一時間ほど航海して、ようやくブラーノ島が見えてきた。教会の塔が傾いているのが判る。


 

左:傾いた塔の辺りが島の中心部である。
右:島の造船所。


 

左:バス停近く。郊外の島でもやはりヴェネツィア市内、運河が掘られている。
右:上陸し、運河に沿って歩いてみる。一軒一軒の家が全てパステルカラーで塗り分けられていて非常に美しい。ここは猟師町なので、沖からでも一目で自分の家が判るように塗り分けてあるんだそう。

 

左:沖に出た漁師から見えるはずもない運河沿いの建物も、新しい建物も古い建物も、全て塗り分けられていた。
右:水飲み場のある小広場。


 

左:この島にも非常に美しい路地があった。
右:広場の水飲み場で水を飲む幼児。


 

左:ガラスと鉄の、アール・ヌーヴォーな庇。タイル製の番地表示もいい味わいである。
右:マドンナという名の路地があった。まぁたんに聖母という意味なのではあるが。


 

左:運河にかかる橋は、船の通行を妨げないよう全て高くなっていた。
右:猫柄の毛布が干されていた。


 

左・右:家の間の小道を抜けると、すぐに海に行き当たる。教会の塔が傾いているのがよく判る。


 

左:裏通りに回ると、門構えのある庭付きの家が並んでいた。
右:どの門も門柱に石像があって面白い。二階の露台で若い女の子が寛いでいたが、観光客たちはお構いなく写真を撮りまくっていた(@_@;)。


 

左:洗濯物と斜塔。
右:小路を行く老婆。この島は、男は漁師、女はヴェネチアンレースを伝統的な生業としている。このおばあさんもひょっとしたらレース編みの名手かもしれない。


 

左:島の中心部、一番賑やかな広場にやってきて、サン・マルティーノ教会に入る。斜塔のある教会である。島にはほかにも教会があるようだが、ここがこの島の教区の中心のようだ。かつてはかなり豊かな島だったのだろう、小さな漁村の教会とは思えないほど大きくて、オルガンもイタリアの教会としてはかなり大規模だった。
右:教会の室内ドアにつけられていた、真鍮製のムーア人と思しき装飾金具。


 

左:両開きドアなので、もう一つムーア人があった。微妙に違うのは手作りのせいだろう。
右:目抜き通りからちょっと脇に入ったところに、なんと清涼飲料水の自動販売機があった。しかも戸外である。なんとも珍しいが、ここは夜になると殆ど島民以外いなくなるだろうし、車もないから、盗まれる心配がまずないのであろう。


上:橋の上から、運河沿いの街並みを見る。このように、目抜き通りや運河に面した建物は前庭がない。


 

右・左:中心からわずかに外れると、すぐに庭と門のある家が多くなる。道は石畳で立派。

上:ブラーノ島から一区間のみの枝線であるT系統に乗り、殆ど無人島に近いトルッチェロ島を目指す。ヴァポレットも小型艇であった。このように、ヴェネツィア市を構成する島々は元々が砂洲なので、非常に標高が低い。


 

左:トルッチェロのバス停。本気で何もない。土産物屋もバルもない。そもそも建物がない!!
右:そんな島でもこうして運河が張り巡らされている。奥には素敵な家もある。金持ちの別荘(ヴィッラ)であろうか。この島はヴェネツィア本島より先に都市開発が進んだ歴史があるのだが、疫病の流行により廃れたところだそう。


上:ただっぴろい低湿地に時折人家があるのみのトルッチェロ島。草原が殆どだが、時折葡萄畑などあった。


 

左:運河で見かけた道路標識。地上のものと全く同じである。トルッチェロ島の非常に通行量の少ない運河でも、一方通行であった。
右:運河に沿って島の中心部に進んでいくと、ようやく人家が並んでいる。どこも今は観光客相手のリストランテとなっているようだ。しかし、ブラーノ島にもここにも、日本人観光客の姿は殆どない。


 

左:リストランテになっている民家。なかなかいい感じに寂びている。
右:この辺りが島の中心部。綺麗に塗り替えられているレストラン。奥に教会が覗いている。


 

左:露天の飼い犬。暑さのせいかでれでれしていた。
右:教会前広場に、鐘楼つきの小建築があった。


上:トルッチェロ島の中心は、この二つの教会である。しかし、日本の場合は様々な宗派があるから大きな都市の場合「寺町」として寺院が集中しているところがあるのも理解できるが、イタリアのように基本的にカトリックしかないところで、しかも教区制を敷いているのに、同じカトリックの教会が隣り合ってあるというのはどういうことなのだろうか? ここに限らず結構見かけた。右端の少年はなかなか美しかった。


 

左:教会の前に、「アッチラの玉座」と呼ばれる石の椅子があったのでふんぞり返ってみる。実際ヴェネツィアは史上何度も異民族に蹂躙されている。
右:教会にあった禁止事項の絵表示。右上から撮影禁止、ビデオも禁止、携帯電話禁止、左下に回って禁煙、アイスクリームなど飲食禁止までは解る。左上のパンツ禁止には笑ってしまった。別にフリチンで入れということではなく、宗教施設だから半ズボン禁止という意味なのだろうが、この絵だけだととてもそうは取れないのである(笑)。




 

左:扉の上にあった天使のレリーフ。
右:教会玄関のポーチから広場を眺める。


  

上三枚:どこを切り取っても絵になる。真ん中の少年は美少年だったが、逆光なのが残念。


 

左:中には入らなかったが、非常にいい感じで寂びた、ロマネスクスタイルの教会。
右:教会前のギャラリー。


 

左:蔓薔薇が咲き、美しいギャラリーの外壁。
右:ギャラリー前には大仰な石のベンチがあり、偉そうな猫様が寝ていた。しかしこの子、イタリア旅行中出会った中で、唯一触らせてくれた猫である。意外と気さくだったのだ。


 

左:教会の横手に回ると、誰もいない草地が広がっていて、実に気持ちよかった。
右:教会のポルティコ。

トップに戻る    伊太利紀行篇・其ノ九 〜ヴェネツィアの巻・中〜