旧作補遺大阪篇・其ノ八
ミクシィ「近代建築/廃墟と戦跡/近代化遺産」コミュニティオフ会篇


2005年2月26日、ミクシィの「近代建築」コミュのオフ会として、吹雪の中、大阪の都心部を巡った。既に四年が経過したので失われたビルヂングの貴重な写真も含まれている。ただしこのサイトでの初出は殆どない。



 

 

上四枚:まずは大阪証券取引所の玄関ホール、ステンドグラスである。1935年、長谷部竹腰建築事務所によって建てられた第三帝国もしくはスターリン様式の建物で、2004年に外壁保存の上ほぼ全面的に改築された。しかし旧市場館の雰囲気はよく保存、再生されている。装飾は全体的にアール・デコの色彩が濃く、素晴らしい。



 

左:堺筋にファサードを向ける近代建築群の一つ、旧報徳銀行北浜支店である新井ビルヂング。1922年に名匠河合浩蔵の設計で建てられた、ゼセッション様式の高楼である。長らくビフテキの「スエヒロ弘得社」であったが、現在は洋菓子店「五感」となっている。
右:こちらはかつては野村財閥の本拠地であった高麗橋野村ビルヂング。巨匠安井武雄の設計で昭和のはじめ、1927年に建てられた。



 

左・右:高麗橋の三越大阪支店。丁度廃業セールの最中であった。大正建築であったかつての本館は阪神・淡路大震災で失われ、以降はこの新館のみで営業していたのだが、それも2005年までであった。この立地である。かつては丁稚をお供にこの界隈の大店の旦那さん(だんさん)やご寮人さん(ごりょんさん)が買い物に来たわけだが、時代の変化に取り残されて、都心のオフィス街にポツンとある商業施設、となっていた。廃業やむなしといったところか。しかし三井越後屋にとっては発祥の地の一つであり、すぐ隣にはこれまた名建築の旧三井銀行大阪支店(現三井住友銀行大阪中央支店)も存在する。何とか頑張って欲しかった。学生時代はここの八階、三越劇場で上映される「関西エキプ・ド・シネマ」に入り浸った、思い出深いデパートであった。僕が祖父の形見として大切にしているロンジンの懐中時計も、冬場に着ている黒のインバネスコートも、大阪三越で購入したものなのだ。エレベータももちろん手動であった。新館が店舗化されたのは僕が小学校一年生の頃だと記憶している。母に連れられて三越新館オープン記念バーゲンに行った記憶が鮮明にあるのだ。従って1970年頃の建物だろうと思っていたのだが、検索してみると1933年に横川工務所の設計施工だとするサイトが出てきたのでリンクしておく。



上:薬種問屋街道修町の象徴といっていい、小西儀助商店本店。木工用ボンドなどで世界的に知られる大企業だが、明治期の大規模町家として重要文化財に指定されている。かつての船場はこのような大店の甍の海に、ビルヂングが点々を浮かぶ、美しい街並みだったのだろう。



 

左:故・印度ビルデイング。この頃、アートイベントなどに盛んに活用されていたので、まさか破壊されようとは夢にも思わなかった(´ω`;)。元々は薬種問屋新良貴徳兵衛商店として昭和のはじめに建てられ、戦後船場の印僑ジャガット・ナラヤン・ジャスワル氏の手に移り、印度銀行などとして使われていたそう。
右:道修町界隈だけに、このようなテナントが入っていた。業界紙である。



上:印度ビルディングの表札。書体がお洒落。



上:印度ビルデイングの階段。装飾はあまりなかった。



 

左:空室に放置されていた大きな金庫。
右:屋上にはペントハウスがあった。かなりハイカラな造りだったと思われる。



 

左:印度ビルヂング、ペントハウスの内部より。
右:堺筋を西に渡り、伏見町通である。これはいまや有名物件となった、青山ビルヂング。蔦に覆われて殆ど解らないが、スパニッシュスタイルの住宅である。1925(大正14)年に、野田屋三郎邸として建てられた。



上:左の黒いのが青山ビル、手前のアヴァンギャルドな装飾のビルが伏見ビルヂング。1928(昭和3)年に、ホテルとして建てられた。



上:伏見ビル玄関のモザイクタイル。



 

左・右:伏見ビル玄関ホールにて。



 

左:伏見ビルの階段。実にいい味わいが出ている。
右:道修町、武田薬品工業本社(武田長兵衛商店)は古い本社ビルを大切にしつつ複雑に建て増しをしているが、これはその裏側。本館は1927年、片岡安の設計である。



 

左:アール・デコ様式の瀟洒なビルヂングは、平野町通りの小川香料ビル。設計は本間乙彦、1930年の竣工である。
右:故・元東京貯蓄銀行大阪支店(旧日本短資大阪支店)。1920(大正9)年、清水組によって建てられた。銀行建築には珍しいロマネスク様式の名品だったが、2007年、悪徳企業日本臓器のだまし討ちにより破壊され、跡形もない。日本臓器はこの建物を再活用すると口約束しながら、2007年になって突然破壊したのである。品格も見識もゼロ、広域暴力団となんら変わらない品性下劣な企業体質と言わざるを得ない。



 

左:故・日本短資のすぐ北隣にある、イトーキ・クレビオビル。同じくロマネスクスタイルで、大正末頃の作品と思われる。こちらも2009年早春に破壊された。かつては有名企業だったのに最近は事務機屋として事務員にしか知られていない程度にまで知名度が落ちているのは、こういう低劣な企業体質だからだろう。早々に倒産するものと思われる。なおこのサイトでは何度か「詳細不明」と記してきたが、今回設計者、建築年とも記されているサイトを発見した。1936年、小川安一郎設計とのこと。
右:平野町通りの新和産業ビル。戦後のモダニズムと思われるが、なかなか上品で可愛らしい。



 

左・右:既にこのサイトではお馴染みである、生駒ビルヂングの雄姿。アール・デコの繊細な装飾が実に美しい。1930年、宗建築事務所の作品である。



上:故・旧第一勧業銀行船場支店。すっきりしたタイル張りのモダニズム建築で、玄関部分の黒御影石がアクセントとなる、美しい建物であった。この頃既に閉鎖され、空ビルとなっていた。



上:「近代建築リノベーションの成功例」として著名になった、船場ビルディング。傘を差している参加者がいるが、雨ではなく雪である。とにかく寒かった。大正末の1925年、村上徹一の設計で建てられた。



 

左:なんとこのビル、当初はメゾネットスタイルのアパートメントだったとのこと。ものすごくハイカラだったことだろう。このように内部は吹きさらしの吹き抜けとなっていて、ぐるりを部屋が囲むスタイル。一階通路は木煉瓦が敷き詰められている。
右:羊歯類をモチーフにした階段の装飾。



 

左・右:屋上からの光景。吹き抜け部分はこのように天井が張られず、吹きさらしになっている。また屋上庭園も有名である。



上:船場ビルディング内部のステンドグラス。



 

左:船場ビルの旧漢字で書かれた放浪看板。正しくは「付」ではなく「就」だろうが、誤字もご愛嬌である。
右:廊下に面した窓もアーチで可愛い。



 

左:かつては空室だらけだったそうだが、リノベーション後は入居待ちが大勢いるとのこと。
右:回廊部分。硝子の庇とスチールの金具がお洒落。



 

左:こういう硝子も今では手に入らない。
右:この放浪看板は現代仮名遣いなので戦後のものだろう。



上:三階廊下より吹き抜け回廊部分を見る。アパートなら住んでみたい。なお、四階建てなので、エレベータは戦時中の金属供出で奪われているはず。今あるエレベータはその後再設置されたものであろう。創建当初は、蛇腹の古式エレベータがあるアパートメントだったと思われる。



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