二千九年關東下向記U

銀座・川越など



 

左:本章は前章の続きである。よって二千九年一月十日、浜離宮にて開催した甲麓庵歌會関東例会の岐路の写真から始まる。銀座エリアに入り、えらく渋いバーを見つけた。廃墟然としているが、現役のようである。
右:古式エレベータが現存している銀座七丁目のS電気ビル。



 

左:悲惨なことになってしまった、交詢社の剥製。慶応閥のやることなんて所詮この程度。
右:いよいよ破壊の危機が迫っている瀧山町ビル。



 

左:瀧山町ビルをもう一枚。これが見納めかもしれない(-_-;)。
右:海洋ビル。設計者、年代とも不明だが、昭和初期と思われる。



 

左・右:アール・デコのエレベータホールで有名な銀座電通ビルだが、玄関周りは結構和風である。1934年、横河工務所の作品。



 

左・右:電通銀座ビル。外観はこのように玄関周りをのぞけば無装飾なモダニズム。



 

左・右:震災復興様式で名高い泰明小学校。大勢で歩きながらの撮影なので、シャッターチャンスを待てず、余計なものが写りこんでいる写真が多いσ(^◇^;)。1929年、東京市の設計。



 

左・右:泰明小学校。



 

左:同上。
右:数寄屋橋にあった岡本太郎デザインと思しき時計。



 

左:翌日、1月11日は川越に行った。これは川越駅からまるひろ百貨店を経て一番街方面へ達する中心市街地のメイン商店街、クレアモールである。この薬局、戦前の看板建築らしい。
右:偽レトロだがロゴが可愛い。川越についての詳細な解説は「弐千八年関東下向記V」参照のこと。



 

左・右:クレアモールの雑踏。このように非常に繁華で、和歌山市のぶらくり丁とはえらい違いである。右上に見えている青地に白の看板が丸広百貨店川越本店である。埼玉県下だけに店舗網を持つという変わった地方百貨店だが、浦和・大宮(つまりさいたま市)ではなくここが本店とのこと。



 

左:歴史的建物がよく残っていて、しかもそれを大切にしている街である。
右:このお箸、動いていた。かなり不気味である。



 

左・右:渋い商家。電話番号が三桁である。肥料屋さんなので、店の奥に播州加古川多木肥料の大看板が見えている。



左:国指定伝建地区である「蔵の街・一番街」が有名な川越であるが、それ以外の地域にも非常にたくさんの歴史的建造物が残されている。これもクレアモールにて。
右:歴史的建造物というほど古くなくても、つまり戦後の物件でも、このように「昭和の香り」を色濃く残しているお店が少なくない。



 

左:クレアモールは北の端、一番街に近づいたところで大正浪漫通と名を変える。元は銀座通だったとのこと。この角の洋館店舗は1930年竣工の大野屋
右:塗料が塗られてしまっているが、典型的な銅版張り看板建築。残念ながら「みこもり(和守)煎餅」は営業していない。1938年の建物らしい。



 

左:みこもり煎餅の看板。何とも凄まじいネーミングセンスである。辛いのは苦手だが、これは食べてみたかった(T_T)。
右:みこもり煎餅と旨続きの高松屋も廃業しているが、こちらも洋館造りとなっている。



 

左:大正浪漫通の街並み。シマノコーヒー大正館いせや。いずれも昭和初期と思われる。いせやの三階はあからさまな増築。
右:大野屋の素敵なマネキン紳士。



 

左:これも旧銀座通。右の商店は蔵造りを改装してしまったもののよう。その隣の看板建築はどうやらごく新しい。
右:立派な蔵造りの商家を再利用した蕎麦屋。



 

左:蔵造りではないが、古い商家。
右:伊勢龜本店と隣の鰻屋「小川菊」も近代建築である。



 

左・右:大正浪漫通の端に、立派な新古典主義の銀行建築がある。川越商工会議所、1928年(昭和3)年に前田健二郎の設計で建てられた旧武州銀行で、登録有形文化財になっている。



 

左:商工会議所の向には、老舗茶舗「龜屋」の豪壮な蔵造りがある。確認していないが、城下町川越きっての老舗菓子司「龜屋」の分家か別家と思われる。
右:こちらが本家の「龜屋」の裏側。山崎美術館を併設している。その他、川越市内には「龜屋○○」という和菓子屋が多い。僭称もあろうが、大半は別家であろう。



 

左:クレアモール商店街とほぼ平行して、川越駅〜本川越駅を経て仲町交叉点に至る道が川越市のメインストリートになるバス通りである。その道はこの仲間地交叉点から、国指定重要伝統的建造物群保存地区である「蔵の街・一番街」となる。
右:蔵の街の入口、松崎スポーツ店。



 

左:前篇ではリノベーション工事中だったのだが、この時は既に保刈齒科醫院として再オープンしていた、旧山吉(やまよしかと思いきややまきちらしい)百貨店。1936年(昭和11)年に保岡勝也の設計で建てられたもの。
右:そのすぐ隣にある、田中屋仲町店。元は1915年(大正4)年に建てられた旧桜井商店である。



 

左:旧桜井商店と旧山吉百貨店。ここだけ見ると神戸か横浜か上海のようである。
右:一番街の街並み。このように素晴らしい建築が並ぶのだが、交通量が激しすぎる。



 

左・右:いつ見ても感動する、路地裏の洋館長屋。目抜き通り一番街からすぐ入ったところとはいえ、表通りではない、狭い路地に面して大正末〜昭和初期と思しき看板建築の長屋店舗が並んでいる。素晴らしい。



 

左・右:「ナイモノハナイ」というキャッチコピーで有名な時計眼鏡貴金属商の「きんかめ」。1927年、棟梁小峯晟佐の施工とのこと。創業者が近江商人で、奥さんが亀さんだったので、近亀という屋号になったとか。屋号は近江商人であることを窺わせる。



 

左:素晴らしい天気であった。このように美しい蔵造りが並び、電線も地中化されている。それにしても車車車車車である。
右:登録有形文化財、埼玉りそな銀行川越支店である。1918(大正7)年、旧八十五銀行本店として建てられた。その後大手都市銀行の埼玉銀行、協和埼玉銀行を経て関西資本のりそな銀行参加に入り、現在に至っている。設計は山吉デパートと同じ保岡勝也。



 

左:旧八十五銀行。左側、建て増し部分は実は相当新しい。きちんと意匠を合わせて建てられている。
右:一番街のど真ん中、時の鐘交叉点付近。右端に「フカゼン美術表具店」こと深屋善兵衛商店が見えている。「塔」所属の歌人、豊島ゆきこ女史のお宅である。



 

左・右:「フカゼン」正面ファサード。立派な袖壁が特徴である。信号機が見えているが、まさに時の鐘交叉点のT字路に位置する。明治26年の川越大火のあと再建された蔵造りのうちの一軒。



 

左:まだ松の内だったので、一番街には創作門松が飾られていた。
右:「フカゼン」の裏手に旧天理教会があるのだが(市文化財指定)、そこが「猫の楽園」となっていた!! どうやらこちらで飼われているようなのだが、無茶苦茶人懐こい猫たちがお庭に何匹もいて、通りすがりの観光客も出入り自由なのだ(^_-)-☆。



  

左・右:楽園のヌコたち。左の子は寝ながら鼾をかきつつにゃーと鳴いていたww。



 

左:文化財建築らしいのだが、すぐに補修が必要な状態であった。
右:全く人を恐れない。実に可愛い。



 

左・右:ラ・リュミエールさんが抱き上げたのではない。自分から膝に乗ってくるのである!!



 

左:鼾の子ww。起きても眠そうであった。
右:十匹以上はいるようだ。



 

左・右:元々天理教の教会だったらしいのだが、今では独立して「陽気づくめ川越教会」となっているらしい。ただ、全くの単立ではなく、各地に「陽気づくめ教会」が存在しているようだ。大阪の鶴橋の近所の天理教の分派の天光教があるが、同じように分派したのだろう。



 

左・右:陽気づくめ川越教会の建物。宗教について検索していると、酷いサイトを見つけた(笑)。カルトに洗脳されてしまった知性の控えめな人が、自分のところ以外の全ての宗教に罵詈雑言を浴びせている稚拙なものなのだが、造りは立派で笑わせられる。



 

左・右:すっかり観光地となり活況を呈している菓子屋横丁。川越は駄菓子の一大産地であり、特に芋菓子が有名なのだ。僕も行くといつも芋大福を買う。洗練の極みである京都の和菓子とは対極の素朴なものだが、とても美味しい。



 

左:古民家を見るときは、玄関先の古い標章類を見るのも楽しみの一つである。赤い星は川越瓦斯か? しかしこのエリアは東京ガスではなく武州瓦斯の営業エリアであり、同社は当初から武州瓦斯という社名だったようである。ちょっと謎。しかも同社、サイトを見ると会長も社長も原姓である。今時、しかも公共事業で同属経営とは、埼玉県の後進性の象徴のような旧態依然振りというほかない。
典型的な看板建築の自転車屋さん、「藤田自転車商会」。三階建てである。



 

左・右:その向かいにあった牛乳石鹸共進社のような可愛い看板。



 

左:再び一番街へ。「偽レトロ」バスが走っている。
右:一番街の街並み。



 

左:蔵造りの落ち着いた街並みなのだが、とにかく観光客が多い。
右:これが「時の鐘」。



 

左:「フカゼン」の隣、「まちかん」こと「町屋勘右衛門商店」にあった古い琺瑯看板。
左:再び埼玉りそな銀行。黒漆喰、黒瓦の街並みに忽然と聳える西洋館である。建て増し部分が相当気を使って建てられていることがよく判る。



 

左:埼玉りそな銀行の塔。実用的な意味は殆どない。飾りではあるが、望楼としてはなかなかの見晴らしだと思われる。
右:失敗した睫毛パーマのようなカゲ盛が特徴的な「くらづくり本舗」。お菓子屋で、元々の屋号は「なかじまや」。そのほうがいいのに。



 

左・右:再度「金亀」前を通る。ファサードの片仮名書きのキャッチコピーがかなりはがれているのが惜しまれる。



 

左・右:散策した順番に掲載しているので、同じところを二度通るとこうなる。ということで、ちょっと薄暗くなってきたが洋館長屋である。



 

左・右:旧山吉百貨店のステンドグラス。非常に細工の細かい素晴らしいものである。しかも窓枠は大理石。



 

左:これも保刈齒科醫院のステンドグラス。
右:一番街の入口、仲町交叉点にある老舗和菓子屋「龜屋」。川越城下に数多ある「亀屋○○」という和菓子屋の本家筋である。



 

左:店蔵、袖蔵、袖壁のセットが揃っている。
右:駅へ向かっての帰路なので、ここから蔵の街の外になる。仲町交叉点の洋館店舗「秀月モリヤ」。同店はこの並びで営業中であるのに、ここは閉鎖されている。勿体ない。活用が望まれる。



 

左:蔵の街と駅を結ぶ目抜き通りは、その裏の繁華街クレアモールと共に非常にいい雰囲気の昭和レトロな商店街となっている。これはかなり大規模な四軒長屋の看板建築店舗。
右:中央に、裏へ抜ける通路があった。入り口はアーチである。



 

左:覗くと裏の建物の入り口などが見える。
右:そしてこのハイカラな洋館長屋店舗に、このおばちゃんがいた。大阪・鶴橋の五一屋のおばちゃんマネキンと生き別れの姉妹であろうと思われるお方である。



 

左・右:実に素敵なマネキンである。



 

左:店名を控えていないのだが、場所はこの辺である。
右:古きよき戦後の香りが濃厚に漂っている。



 

左・右:この辺り。前篇でも書いたが、川越は表通りから一歩入ってもこういうものが沢山あってよく残っている。素晴らしい。



 

左:バス通りも看板建築方于故。これは時計店。
右:何しろお釜が重ねて売られているのである。こんな光景、滅多に見られない。



 

左・右:いずれもバス通りの看板建築群。



 

左:明治時代の芝居小屋、旧鶴川座の隣も正面に色々建て増しがあるが、洋館造りである。
右:これが旧鶴川座。建築データは前篇参照。



 

左・右:これも前篇でも紹介した、川越名物「デムパの家」。



 

左・右:とても洋服屋とは思えない屋号のお店、「スメル」。しかも建物はどう見ても元銀行っぽい。



 

左:看板建築がこれだけ並んでいると、壮観というほかない。
右:川越は洋館歯科医の多いところであった。これは小杉歯科医院



 

左:小杉齒科醫院。暖炉もある、スパニッシュスタイルの本格的な洋館である。昭和初期だろう。
右:バス通りの看板建築。



 

左・右:とにかく看板建築の数が半端ではない。宝庫というべきであろう。



 

左:その夜は恒例となっている、「中部短歌」の歌人中條レイコ女史のお宅でのホームパーティーであった。ワインを注いでいるのはシェフ役の計良誓乃、座っているのは「玲瓏」の歌人城山達郎氏である。
右:その日のご馳走。



 

左:メインは鍋であった。
右:ベニヤミンお手製のケーキ。



 

左:2009年1月13日、帰路の高速バスの車窓より、三菱一号館のパッチもの。こんなものを再建するぐらいなら、今ある近代建築を大切に保存しろというのだ。このゴミのような張りぼては丸の内八重洲ビルを破壊した上で建てられたもので、ナンセンス以外の何ものでもない。まさに糞である。全く何の意味もない。本物のほうは1894(明治27)年、かのジョサイア・コンドルの設計である。
右:重要文化財明治生命館。1934年竣工、設計は岡田信一郎。



 

左:こちらはGHQとして知られる第一生命館。1938年に渡辺仁・松本与作の共同設計で建設された。
右:逆行で見えにくいが、日比谷公会堂(東京市政会館)。1929年竣工、設計は佐藤功一。



 

左:首都高から見えた駒沢給水塔大正12年に建てられたものである。実に美しい。
右:御殿場にて。珍しく富士山が綺麗に見えた。



※おまけ・・・川越市の近くにこんな廃線があるらしい。今度行ってみようと思う。



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