播州篇T
2007年の早春、銀聲舎代表のヒロポンと二人、認識研究会のフィールドワークとして播磨地方をそれぞれ日帰りで探索してきた。その時の写真で本編を構成する。まず「播州篇T」は加古川市である。
上:2007年3月3日、青春18切符を使って223系新快速に乗って、まず訪れたのは加古川であった。
これは駅前に聳えるヤマトヤシキ百貨店加古川店。加古川市は京阪神通勤通学圏の周縁、人口二十六万人ほどの地方都市である。「純然たる田舎ではなく、かといって京阪神中心部ほどの都市部でもない」ちょっと中途半端な街で、なおかつ兵庫県播州地方においても姫路に次ぐナンバー2であり、トップではない、という存在なのだが、それにしては駅前のデパートは相当に大きい。僕はデパートを「都市の都心型(心斎橋、銀座など)」「都市のターミナル型(梅田、新宿など)」「郊外型」「地方型」と個人的に分類しているのだが、この加古川ヤマトヤシキは規模的、立地的に大都市型に近い。加古川市が「大都市圏の衛星都市とも、地方のちょっとした中心都市とも言える」というどっちつかずの存在であることを体現しているともいえよう。
因みにこれ、ヤマトヤシキになる前はそごうであった。バブル全盛期の、「トリプルそごう計画」により誕生した、わりと新しいデパートなのである。そごうの破綻後、姫路の名門ヤマトヤシキが引き継いで、以降は順調に経営しているようである。
上:加古川といえばこれ、カツ飯である。といいつつ、僕も最近までまったく知らなかったのであるがσ(^◇^;)。戦後、播州加古川とその周縁部だけで広まった、皿に盛ったソースカツ丼で、この辺りの名物なんだそう。駅前商店街の喫茶店だが、なかなかに美味しかった。
因みに、僕は兵庫県阪神間の人間である。阪神間というのは大阪と神戸の間に位置し、日本で最初に開けた「郊外住宅地」として戦前から「阪神間モダニズム」と呼ばれる独自の文化圏を形成して来たところで、旧国としては摂津に属する。そして加古川は、天気予報では阪神間と同じ「兵庫県南部」に入るのだが、旧国は播州で、実は阪神間とはあまり関係は深くない。
兵庫県は日本で最も県民意識が希薄なところだそうで、東京に唯一存在しない県人会が「兵庫県人会」だと聞いたことがあるが、さもありなんなのだ。旧国にして播磨、淡路、但馬、丹波の半分、摂津の半分の五ヶ国からなり、本州を瀬戸内から日本海側まで縦断している。元々の文化圏がばらばらなので、近代以降、一つの県にまとめられてからも、それはあくまでも行政上のことに過ぎず、文化的にも経済的にもあまり一体感が育たなかったのである。僕自身のアイデンティティを考えても、「西宮市民」「阪神間の住民」「関西人」という順になり、県レベルは欠落している。
だから西宮市民の僕にとって、大阪は「日常生活圏」だし、京都も近い。奈良もそれほど遠くない。しかし播州というのは「とても遠いところ」と感じてしまうのだ。心理的な距離感だけでない。うちから電車を乗り継いで一時間圏内というと、京都も姫路も入るのだが、大手私鉄を乗り継いでいける京阪神圏はとても安いが、播州に行くには国鉄も山陽電車もやたらと高い、というせいもある。
上:駅前商店街は案外と面白くなく、商店街を抜けて、それと交差する国道二号線に出たところで、ようやくちょっと昭和の香りに触れることができた。
上:同上。藤原薬局は看板建築的洋館で、明らかに戦前のもの。
左:駅前商店街も、一歩裏に入るとなかなか面白い路地もあった。特に、ヤンキーカップルがバイオレンスな別れ話をしていたのがとても面白かった。因みに、国鉄加古川駅の駅裏は破壊尽くされ、ひどいことになっていた。
右:コミュニティバスに乗って、山陽電車の別府駅(べふえき)まで行った。車窓の風景は「むちゃくちゃ殺風景でつまらない」の一言。おそらく高度成長期に美意識のかけらもない開発により、農村風景が殺風景な新興田舎町に変わっていったのだろう。本当に醜い、典型的な日本の田舎の景観であった。
そしてこれは別府駅。普通しかとまらない小さな駅なのに、駅前広場はやたらと立派であった。因みに私鉄を「社名+電車」で呼ぶのは文化の発達した関西独特の優美な風習である。関東のような粗野な地方都市では、味も素っ気もなく小田急線、西武線などと「線」というので、その文化度の差は歴然としている。言語感覚が「鈍い」どころか「ない」のだろう。
上:同じく別府駅前。山陽電車は相鉄が偉そうに大手に格上げになったあと、「準大手私鉄の筆頭」となった。実際1435ミリゲージで最高速度110キロの直通特急が山陽姫路駅から阪神梅田駅まで疾走しており、中小私鉄の中では抜きん出た存在である。但し料金が高い。これが大手との違いである。
上:別府駅から別府港に向かって歩くと、つまらないイトーヨーカ堂の前を通り、この重厚な洋館に至る。加古川の盟主、多木化学の旧本社社屋である。建築データが判らないが、木造下見板張りの洋館なので、大正時代ぐらいのものと推測する。建物に沢山つけられ、看板にもついている、アメリカの騎兵隊のマークによく似た社章は鋤を二つ組み合わせた神代鍬である。
左:多木化学本社の玄関。
右:多木化学本社前には藤棚があった。
上:この洋館が建てられるときに作られたと思しき、創業時の石臼を埋め込んだ記念碑。
上:本社社屋に隣接、というか繋がって、豪壮な邸宅があった。都会的な数奇屋ではなく、豪農の住宅を思わせるつくりだが、多木家の本邸と思われる。
上二枚:道路を挟んで反対の西側にも、破風に大きく神代鍬をつけた屋敷があった。多木一族の邸宅だろう。
別府港(河口港となっている)にかかる橋から、今日の目的地、あかがね御殿(多木浜洋館)が見えてきた。すごい。創業者多木久米次郎翁が迎賓館として建てた、四階建ての大洋館である。1933年の竣工だが(ウィキペディアでは1918年となっているが誤りっぽい)、着工から15年もかかったとのこと。国の登録有形文化財となっている。因みに、別府駅前の交番で道を尋ねたら、若い巡査は「あぁ、あの妖怪屋敷」と言っていた(笑)。確かに、ホーンテッドマンションというか、アダムスファミリーが住んでそうな雰囲気である。
上:別府港附近にて。昭和臭ぷんぷんであった。
上:別府川の河岸にずらっと漁船が係留されている。その向こうには、埋立地のコンビナートが見える。
左:港に沿って下流に向かって行くと、途中のものすごく狭い道の奥に、あかがね御殿が建っている。一階は煉瓦造、二階から上は木造銅張りのようだ。
右:建物に近づくと、ここにも神代鍬の紋章が見られる。
左:道路はあかがね御殿にぶつかって左へ曲がる。御殿は敷地の端に建っているので、建物が直接道路に面している。とにかく道が狭いのが判る。端のほうに門が見えている。
右:威風堂々たる石造、金属扉の門。
上:門の細部。門灯も素敵。梁の一つ一つにも、柱頭にも、神代鍬が刻まれている。
上:更に角度を変えて、門を見る。セコムシールも貼られているし、掃除も行き届いているし、きちんと管理されて入るのだが、人気が全くなく、ちょっと恐ろしい雰囲気であった。
左・右:門前から御殿を見上げる。あちこちに神代鍬が付いているのが判る。
上:御殿は敷地のはずれに建っているので、塀はこのように延々と続いている。イギリス積みの煉瓦塀である。
上:もう一度、正門の細部。この部分の紋章は神代鍬ではなかったようである。
左:こちらは塀に穿たれた通用門。母屋に荷物を出し入れするにはかなり不便な場所なので、庭師関係の物品を搬入するためのものと思われる。
右:にも拘らず、なぜだか郵便新聞受はこちらにあった。執事や女中がここまで取りに来たのであろうか?
上:ぐるっと回りこんで反対側から。
上:更に回りこむ。
上:四階建てというよりは、三階+屋根裏部屋、といった感じだが、とにかく規模が大きい。
左:破風の部分の装飾は、ちょっとアール・ヌーヴォー風である。
右:御殿の隣は公園になっていたのだが、そこにものすごく巨大な石碑があって、「肥料主」と刻まれているのだが、一見「肥料王」に見える。しかもこれ、石碑ではなく、銅像の台座だと書いてあったので吃驚。多木久米次郎翁の銅像本体は戦時供出で失われ、そのあとに「彰功」の碑が加えられたらしいが、こんなでかい台座に乗っていた銅像ってどれほど大きかったのだろうか? 多木家のかつての威光のものすごさを偲ばせるに十分な台座であった。揮毫は内閣総理大臣斎藤實子爵(提督)とのこと。
※ウィキペディアによると、斎藤子爵は「大変な筆まめで、贈物に対しては必ずといっていいほど礼状を出していた。揮毫をよく頼まれたが、元来の性格のよさから断れず週末は別荘に籠もって筆を振るう日々だったという。」と書かれている。
上:このように、「多木久米次郎翁銅像応召之址」と彫られている。
上:ちょっと離れたところから。やっぱりすごい迫力。左端、街灯の向こうが例の石碑である。
上:公園に隣接して、猟師町らしく住吉神社があったのだが、郷社の旧社格に似つかわしくない巨大な石灯籠があり、ここにも多木家の紋章と名前が刻まれていた。もうこれでもか、という感じである。
左:同じ燈籠。
右:旧ビートルが停まっていた。
上:別府駅に向けて戻る途中、上で紹介した多木家の分家のほうの屋敷をもう一度撮影。周囲の街並みは大手資本量販店などの進出により、崩れつつあった。
左:別府駅近くにて。なんとネパール料理店があった。
右:同じく駅附近にて見つけた「おばば」(笑)。ヒロポンが写っている。
左:逆光でとても判りにくい写真だが(´ω`;)、旧別府鉄道の跡地は遊歩道として整備されている。多木家の私設鉄道である。
右:山陽電車のガードに、古い煉瓦の部分があった。
左:別府駅から山陽電車で姫路に行こうと思ったら、異常なまでに高いことが判明。青春18切符を使うことにして、コミュニティバスで国鉄加古川駅に戻った。国鉄加古川駅の現駅舎の一部に、貴重な明治の木造建築だった旧駅舎の玄関が、新建材により申し訳のように復元されている。全く無意味である。
右:駅前にあった、とても住みにくそうな高齢者向住宅。