旧作補遺泉州篇T



 

左:これはおまけである。撮影日時不明なるも2006年8月であるらしい。京都の四條寺町のコインパーキングだが、「バック」にハートマークがついている(笑)。
右:2006年8月20日、岸和田市の大邸宅「五風荘」にて甲麓庵歌会第20回関西例会を開催した。まずはその日の写真から。集合地点だった南海電車南海本線蛸地蔵駅にて。古風な洋館駅舎で有名なのだが、ホームの壁、そしてベンチも木製であった。五風荘、蛸地蔵などについてのデータ、解説は次章参照のこと。



 

左:蛸地蔵駅ホームと線路。ホームが石積みであることが判る。構内踏切、跨線橋、地下道ともないので、上下線ホームの間で行き来はできない。
右:マンサード屋根の洋館は上り線駅舎である。



 

左:下り線駅舎はとても小さい。
右:上り線がこの駅のメイン駅舎である。通過電車が写っている。



 

左:踏切を渡り、上り線駅舎へ。
右:蛸の軍勢が墨を吐きながら武者の軍勢を駆逐するというすごい図柄のステンドグラス。



 

左:防備を固める岸和田城。
右:正面ステンドグラス全景。



 

左:蛸にやられる騎馬武者。
右:天井中心装飾とシャンデリア。



 

左:美しい装飾の入った金具。
右:駅舎全景。ステンドグラスは正面(南側)に三連のもの、西面に二連のものがある。



 

左:蛸地蔵駅上り線駅舎西側ファサード。
右:踏切を挟んで駅東側商店街を見る。



 

左:駅西側の商店街。
右:素敵な美容院。伯爵が硝子に映っている。このすりガラスのアップは次章にある。



 

左:蛸地蔵商店街点景。
右:商店街だが素敵な民家もあった。昭和初期以前だろう。今は料理屋になっている。



 

左:同じお店。
右:廃業した電気店。



 

左:蟲籠窓の素敵な町家。
右:紀州街道(熊野街道)に近づくと、いい雰囲気の路地もあった。



 

左:路地の奥にあった式台つき玄関のお宅。上級武家屋敷の造りである。
右:だんじり祭の練習をしていた。



 

左:ファミレス「ボンズ」にて皆で食事をしたが、古いポスター(本物っぽい)が飾られていた。「変装ニハ奇抜ナルオペラノ衣装ヲ」とある(笑)。
右:武家屋敷地区。古い煉瓦塀があった。



 

左・右:知られざる岸和田の文化遺産、マンサード長屋。次章に詳述するが、破壊の危機に瀕している。



 

左:本当に巣晴らしい長屋である。大正後期のもの。
右:歌会の会場、五風荘に到着。寺田財閥(これも次章参照)の別邸として建てられた。完成は戦時色の濃くなった1934年である。「欲しがりません勝つまでは」の時代にこんな贅沢な迎賓館を建てるなんて、寺田家は軍部と結託して悪行三昧していたに違いない。



 

左:五風荘正門。門は屋根もない簡素なもの。
右:五風荘正玄関。これも上級武家屋敷の造り。右側、見事な松の辺りに普段用の内玄関がある。



 

左:正玄関。
右:五風荘は「洋館附設数寄屋住宅」ではなく、全体が和館なのだが、玄関入ってすぐの応接間だけアール・デコ調の洋間であった。登録有形文化財の標章が置かれている。



 

左:洋間の向こうに畳敷きの玄関が見える。暖炉はスチーム、つまりセントラルヒーティングである。
右:アール・デコ調の繊細なシャンデリア。



 

左:天井のステンドグラス。
右:当時の甲麓庵は吟行を実施していなかったが、まずは邸内を散策する。



 

左:歌会の準備が整った座敷。
右:縁側から庭園が見える。



 

左・右:ここから数枚、カメラの露出設定が変になってしまっているσ(^◇^;)。ともあれ、暑い日だったが庭も散策した。



 

左:庭の茶室。
右:同上。



 

左:庭の片隅に放置されていた石像など。
右:名門、府立岸和田高校前の堀端から、五風荘を見る。



 

左:歌会終了後、寺田財閥の社員倶楽部だった自泉会館(旧岸和田紡績倶楽部)を見る。この建物についても解説は次章参照のこと。
右:自泉会館前にある、寺田財閥の創業者、寺田甚与茂の胸像。



 

左:別寅蒲鉾所有の豪邸。
右:丘を下り、城見橋を渡ると、かつての町人町に入る。この商店街は残念ながらあまり元気ではなかったが、その分昭和の香りが非常によく残っていた。



 

左・右:城見橋商店街の入口に位置する、平井皮泌科。なかなかの名建築である。



 

左:南海電車岸和田駅前ながらアーケード街にあって見えにくい近畿大阪銀行岸和田支店。検索しても昭和初期、とまでしかデータが出てこない。
右:その隣にある洋館、西田クリニック。これについても「昭和初期」と馬鹿なことを書いている素人丸出しの建築ブログ・サイトが多いが、田舎の村役場ならまだしも、城下町岸和田の駅前である。この立地でこの下見板張りは、どう見てももっと遡る。大正中期ぐらいだろう。



 

左・右:あとはおまけである。よって泉州ではない。大阪の都心、三井住友銀行大阪本店(住友本館)の裏側に当たる、南側ファサード。当サイトでは何度も紹介しているビルヂングだが、こちら側の写真は初めてである。詳細データは「大阪健脚ツアーT」など参照のこと。撮影日不明だが、2006年8月頃、日本テレマン教会マンスリーコンサートが開催された日である。



 

左:そして大阪倶楽部。これも既に何度も取り上げているのでデータは省略する。



 

左・右:大阪倶楽部のはす向かい、旧大阪市消防局東消防署今橋出張所。数年放置されたあと、丁度「アンティカ・オステリア・ダル・ポンピエーレ」に生まれ変わる工事をしていたところであった。設計者不祥なるも1925年に建てられたゴシック様式の小品である。



 

左:大阪倶楽部正面ファサード。
右:テレマンの聴衆が次々に入っていく。



 

左:正面に四本立っている不思議な飾り柱。
右:正面玄関上には大阪倶楽部のモノグラムが。



 

左:正面玄関の鬼面噴水。東洋的な意匠である。
右:四階大ホールホワイエ。中央の後姿は作家の中野順哉氏である。



 

左:開演直前。満席である。
右:そして演奏開始。この日は真夏ということもあり、カジュアルなファッションであった。



 

左:主階段を四階より見下ろす。一階床、大理石の市松模様が見えている。
右:大阪倶楽部のエレベータは残念ながらオリジナルではないが、手動時代の名残がこの表示である。手動エレベータの呼出ボタンは運転手をブザーで呼び出すものなので、短く押さないとやかましいのである。



 

左:電光式インジケータはオリジナルである。
右:更におまけ。同年8月27日に大阪市平野区へ行った。近代和風建築としても名高い融通念仏宗総本山大念仏寺で年に一度、寺宝の「亡女の片袖 や」幽霊画などが公開されるのだ。それにしても、さすが大阪のお寺である。この看板のおどろおどろしげな書き方、お坊さんもいちびりとみえる。



 

左:大念仏寺のトイレにて。
右:平野の商店街にある、小林新聞舗。1929年に建てられたハイカラな新聞屋さんである。



 

左:同じく平野区の全興寺にて。随分おもろい坊さんである。
右:最後に2007年6月10日に撮影した大阪市中央公会堂の写真を。中集会室で樋口裕子先生のバロックダンス公演が開催されたのだ。データはこれをクリック



 

左・右:以下、中集会室を中心に、公会堂の華麗な内部空間を。



 

 

 

 



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