骨董建築写真館 弐千五年関東下向記其ノ弐(池袋界隈・横浜)
骨董建築写真館

弐千五年関東下向記其ノ弐(池袋界隈・横浜)

2005年の十月一日から五日にかけて、甲麓庵歌会第一回関東例会のために風太と二人、愛車アルファロメオ156に乗って東下りの旅に出た。本章はその折の写真で構成したい。

上:まずは道中である。愛知県岡崎市にて。足助街道に沿って昔の花街の名残がわずかに残っている。車の窓から撮影したので写りは悪い。


上:元は妓楼だったと思われる旅館。唐破風の玄関が立派である。


上:同上。これは風太の撮影。いずれも動く車から撮ったのでひどい写真なのはご容赦願いたい。


 

左:十月二日、歌会当日は正午に池袋に集合して午餐会ののち、界隈の都市探検から始まった。これは池袋の繁華街の外れ、雑司ヶ谷の鬼子母神へ向かう路地の入口にあった石製の車止め。まるで猫の影に見える汚れがついていた。
右:雑司ヶ谷鬼子母神こと法明寺は日蓮宗の中で本山格の一つらしく、境内には塔頭の並ぶそこそこの規模であったが、外れには稲荷も祭られていた。神仏習合である。


上:鬼子母神の本堂。寺としての本堂とは別に存在していた。


上:境内の駄菓子屋。雰囲気はいいのだが、女店主は氷のように冷たい雰囲気の人であった。とりあえずキャラメルを買ったが、多分もう二度と買い物しないだろう。


上:駄菓子屋の商品。懐かしい。僕らが子供の頃はまだ普通にこんな店があちこちにあったものだ。


 

左:門前の小公園にあったポンプ井戸。十月とは思えない暑い日であったので、井戸水が気持ちよかった。
右:車止めには鳩らしき彫刻が。


上:門前にあった古い木造のお宅。ひょっとしたら戦前か?


上:境内から都電の駅にかけて、ちょっといい感じの参道になっていた。明らかに戦前のものと思われる木造店舗長屋。

 

右:左:前ページ最後の建物の隅である。ビルヂング風の正面だが屋は木造日本家屋で、雰囲気のいい路地が裏手に続いていた。


上:都電荒川線鬼子母神前電停附近。都電で唯一の請った荒川線は、このように殆どの区間が専用軌道である。


 

左:住宅地図の隅に小さく変な標語が貼られていた。
右:都の施設(職員宿舎と思われる)の生垣に何故だかゴーヤーが生っていた。都電には乗らず、歩いて雑司ヶ谷宣教師住宅へ向かう道中である。


上:雑司ヶ谷墓地の近くの中華料理店「ターキー」。屋号は七面鳥ではなく水の江滝子女史にあやかったと思われる。


上:ほぼ平坦で、市民の殆どが町人だった大坂と違い、江戸は武家人口が半数であり、また街は起伏に富んでいた。そこで丘の上の「山手」と低地の「下町」がモザイク状に入り組んだ複雑な街となり、今に至っている。この界隈、鬼子母神附近は下町で、坂を上って墓地周辺は山手になるのだろう。お屋敷街というほどではないが、池袋駅から徒歩圏なのに閑静な住宅地が広がっている。道は狭くしかも曲がりくねっており、方向音痴の人間には嫌なところだと思われる。


上:十月とは思えない猛暑の中、ようやく雑司ヶ谷宣教師館に到着。左の人物は風太である。1907年(明治40年)、アメリカ人のプロテスタント宣教師ジョン・ムーディー・マッケーレブによって自宅兼事務所として建てられたコロニアルスタイルの洋館で、現在は豊島区が所有しており無料で見学できる。


 

左:宣教師館の出窓。
右:同内部。なかなか凝ったデザインの暖炉があった。


 

左:竹を用いて和のテイストを加味した天井。
右:階段室。


 

左・右:ぼやけた写真になってしまったが、古い足踏みオルガンがあった。


上:再度都電の駅へ向かう途中、個人住宅の表札にしか見えないビルの表札があった。しかも「石井」なのか「石丼」なのか判読できない。

上:都電荒川線に乗って大塚へ。国鉄山手線大塚駅ホームより、えらくオタクな看板を撮影。


上:巣鴨駅で下車し、「東の石切さん」と呼ばれる巣鴨・刺抜き地蔵こと高岩寺の参道を歩く。えらく暗く写ってしまったが、石切さんの長大な参道と比べるとごくごく小規模であった。


上:再度国鉄に乗って池袋で下車、自由学園に向かう途中の散髪屋にて。ニグロとはアフロヘアのことか?


上:自由学園の関連出版社である婦人之友社の建物は、戦後物件だがライト調であった。


上:自由学園の敷地は道路によって二分されている。重要文化財明日館(みょうにちかん)の梟像。明日館はフランク・ロイド・ライトの設計で1921年(大正10)に建てられ、道路を挟んで向かいにある遠藤新設計の講堂とともに重要文化財となっている。


上:これが甲麓庵歌会第一回関東例会会場となった、明日館本館。明るく写っているが実は相当暗くなってきたので、撮るのには苦労した。


 

左:事務室の受付の窓も素晴らしい意匠である。
右:この事務室の外側、街路に直接面している壁に梟が設置されている。


上:非常に暗い写真だが、これが遠藤新設計の講堂。


 

左:自由学園明日館は旧帝国ホテルや旧甲子園ホテルと違って木造だが、やはり大谷石が用いられている。これは講堂外壁に設けられた水盤。
右:講堂玄関。


上:講堂の外壁。左側が正面舞台である。


上:窓から撮影した講堂内部。

上:明日館本館の両翼は正面道路に直接面しているが、そこに開口部はない。


上:結婚式が開かれていたので、礼服の人物が多かった。このおじさんの真後ろが歌会会場になった豊島の間。


 

左・右:旗竿とその基部のデザイン。如何にもライト調である。


上:豊島の間に於ける歌会光景。


 

左・右:豊島の間にて使用されている、ライトのデザインになる椅子。


上:歌会終了後、すっかり夜になった。


 

左:日程的にはこのあと横浜にいったのだが、あまりにも大量に写真を撮ったので別に独立した一章を設けようと思う。ということで、これは新宿二丁目の羅府大廈(ラシントンパレス)。最上階、かつては開店レストランだったと思しき部分が発展サウナ(といいつつサウナはなかった)「スカイジム」であったのでゲイには馴染みの深い建物で、僕も若い頃はよく泊ったものだ(一泊1500円だったのだ)。しかし昨秋の段階で殆どのテナントが退去し、一階の路面店である「餃子の王将」のみが営業している状態であった。取り壊されるのだろう。台湾資本らしいアジアンゴシックなカオス的雰囲気が素敵だったのに(´・ω・`)
右:文京区本郷3-38-9にあるロマネスク風の可愛らしい建物、さかえビル。1934年の竣工である。一階にコンビニが入っているが大切に使われているようだ。元々は近藤薬局という薬局だったとのこと。移動中の車内から大慌てで撮影。


 

左:これも車の中から、恐らく風太が撮影したもの。我が日本基督教団の本郷中央教会である。1929年、川崎忍、ヴォーゲルの設計で建てられたネオ・ゴシック様式の大規模な教会で、登録文化財となっている。
右:既に閉鎖され、ネットがかけられ、破壊される寸前の京成聚楽。2006年11月の東下り時に悲しいことに破壊を確認した。その時は真向かいの聚楽第にてお茶をすることになった。


上:同じく京成聚楽。いずれも車中からの撮影である。


上:浅草に車を停めて、神谷バー方面へ歩いている最中に見つけた、けったいな装飾の飲食店。


 

左:毎度お馴染みの神谷バー。1921(大正10)年の建物である。食事をしようと思ったら定休日だった????●ガーン。この写真を撮っている位置に和風トランクス専門店がありこの時も買い物したのだが、2006年11月東下り時には発見できなかった。廃業したのか移転したのか?
右:戦前から殆ど変わってないと思われる、東部浅草駅前の地下への階段。

 

左:すっかり日が落ちて、雨が降ってきた。神谷バー前から隅田川の対岸にある有名な「金のウンコ」を臨む。巨匠フィリップ・スタルクの作品だが、「金のうんこ」で検索したらちゃんとこれが出てきた(笑) → http://www.enjoytokyo.jp/OD003Detail.html?SPOT_ID=s_13005955
右:東京にある近代建築のデパートのうち、松坂屋上野店と松屋浅草店の二つは、外壁が救いがたいほど不細工に改装されてしまっている(>_<)。ということで外部写真はないが、これは松屋浅草店で一番往時の雰囲気をとどめていると思われる階段室である。1931年(昭和6年)に久野節設計事務所によって建てられた。東武鉄道浅草駅を付設するターミナルデパートであるが、同じ戦前のターミナルデパートである阪急梅田本店や高島屋難波本店と比すると規模にして三分の一程度の可愛らしいものである。なお松屋は発祥の地横浜からは撤退しており、現在営業しているのは浅草と銀座の二店舗。そのいずれもが戦前建築でありながら実に不細工に改装されているというセンスの悪さである。


上:同じく松屋浅草店の階段室。扉も古いものがそのまま使われていて、ノブも真鍮である。モデルは風太。


上:階段の手すり。人造大理石の手すりに金属製の装飾がつけられている。


 

左:松屋の階段。上から見下ろしたところ。
右:金龍山浅草寺の参道、仲見世商店街。浅草寺は元々天台宗の寺であったが、戦後独立して聖観音宗総本山を名乗っている。


上:宝蔵門下から見た雨の本堂。


 

左・右:いずれも本堂から見た五重塔。全て戦後の再建である。


上:大提灯は雷門が有名だが、仲見世の奥にあるこの宝蔵門にも大きな提灯がぶら下がっている。


上:本堂から見た宝蔵門。


 

左:五重塔の瓦はアルミ合金製だそう。
右:境内に神戸の阿鼻叫喚像を思わせる不気味な群像があった。


上:その銅像の碑銘。なんと朝倉文夫作「慈雲の泉」であった。超大物である。

 

左:まだまだ頑張る花やしき
→:「街娼」なんていう言葉がまだ生きているとは!!


上:雨の夜に撮っているのでとても写りが悪いが、花やしき前の戦前建築。


 

左・右:一度は泊ってみたい曖昧宿、栃木屋ホテル。この界隈の紹介は「東京篇・其ノ弐」以来である。


上:とても渋い洋食屋さん。戦後すぐぐらいの物件か?


上:いよいよ帰路に就くのだが、日本橋でちょっと寄り道。これは重要文化財日本銀行本店である。トラックが全然移動してくれなかった(´・ω・`)


上:同じく日本銀行本店辰野金吾によって丁度110年前の1896(明治29)年に建てられた。


上:日本銀行とその隣にある三井本館。どちらもライトアップされている。三井本館のオフィシャルサイトでは恥知らずにも「私たちが造り、育み、守り、そして、次世代に伝えるべき. MItsui Main Building」等と偉そうに謳い上げているが、三井不動産など所有する三信ビルを破壊しようとしている守銭奴営利企業に過ぎない。


上:重要文化財三井本館正面ファサード。なお、住友本館は三井住友銀行大阪本店となっているが、この三井本館は三井住友銀行東京本店ではなく、日本橋支店となっている。


上:三井本館正面のアップ。道路工事中であったので変なものが写りこんでいる。トローブリッジ・アンド・リヴィングストン社の設計で1929(昭和4)年に竣工している。


上:三井本館の側面。日本銀行に面した西側である。


 

左:三井本館のジャイアントオーダー。コリント式で壮大なものである。
右:三井本館南西角部。


 

左:三井本館、西側のファサード。
右:三井本館の南側に向かい合う三井越後屋呉服店日本橋本店の塔。


上:三井越後屋つまり三越日本橋本店は、大丸心斎橋本店と共に日本を代表する高級呉服屋系老舗百貨店である。しかしここも、古式エレベータの大半が自動式に改造され、手動式は殆ど残っていない。横河民輔の設計で1914年に竣工。


 

左:走行中の車から風太が撮影した高島屋日本橋支店(※高島屋本店は大阪の難波)。この東京店は高橋貞太郎の設計により1933年に完成している。
右:これも走行中の車内から自分で撮影した銀座の顔、銀座四丁目交差点の和光(旧服部時計店)。渡邊仁の設計で1932(昭和7)年の竣工である。

 

左:東京を離れる前、風太のたっての希望で立ち寄った品川のファミレス「アンナ・ミラーズ」。たかだか一年前だが、この頃はまだメイド喫茶はあまり一般的ではなく、ファミレスでありながらメイド服のこの店が関東で名を馳せていたのであった(三重県資本の井村屋経営なのに関東にしか店舗がないのだ)。今にして思えば接客は普通のファミレスに比してむしろ悪いし、美味しいわけでもないのに値段はファミレスにしてはかなり高めで、全然大したことのない内容であった。最近店舗を減らしていると聞くが、さもありなんとしか思わない。
右:静岡県下、三島、沼津附近で見つけた昭和レトロ調のカラオケボックス。国道一号線沿いである。


上:夜が明けて、名古屋を抜け、名四国道23号線で三重県に入ってすぐ、桑名市にある有名なギロチン工場「鬼頭商店」である。この工場を初めて見たのは、学生の頃の回送ドライバーのバイトのときであった。のちにVOWなどで話題になったが、その頃は何も知らなかったので、目が点になったのを覚えている。


上:以下、説明は省くが四日市石油化学コンビナートの豪壮にして雄大な美しい工場群の写真を並べる。いずれも車窓から、殆ど風太の撮影である。





上:上の写真の煙突部分をトリミングしてアップ。






上:第64章の最終ページも四日市のコンビナートの景観である。






上:コンビナートの写真は以上。曇り空だがこの景観にはよく似合っている。


上:四日市市にて。何がどう「れんこん君」なのかさっぱり判らない。


上:奈良県を通り抜け、八尾市にて発見した喫茶店。店名の横のイラストが「湯気を立てる大便」のように見える。

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