二千十年關東下向記T
左:2010年1月20日の夜、この都市最初の東下りの旅路に就いた。夜明けとともに関東入り、これは箱根山を下り切って小田原市に入った辺りにて。県立の施設なのだが、「生命の星」って何だか新興宗教じみていた。
右:西湘バイパスの出口付近から、朝ラッシュの渋滞に巻き込まれた。工事現場用の足場の材料を大量に積んだトラックに「BI-KE」と書いてある。「バイク」と読むのかなと思ったら……。
左:有限会社湘南ビケと書いてある。「ビケ」だったのだ。工事用の足場のことをそういうらしい。
右:海は結構荒れていた。車が塩まみれである。
左:静かな瀬戸内の海を見て育った人間には荒れた海に見えるが、この辺りではこれで普通なのだろうか。
右:語学マニアのrjuka君が目敏く見つけた、何ヶ国語もで書かれた謎の看板と、ギャルギャルしいヘルメット。
左:川崎市の第二京浜国道沿いにあった、二階建ての近代建築。後ろの建物は川崎総合科学高校。なお、運転しながらだから写真は撮れなかったのだが、この近所で「平安会館さいわい」という葬儀場を見かけた。「川崎市幸区」であり、「さいわい」は地名なのだが、しかし葬儀場の名前として「さいわい」はどうよと思ってしまった(´ω`;)。
右:大渋滞の中、ようやく多摩川を渡って東京都に入った。大渋滞の環八を進むと、こういう道路標識が。ガスビル、水道橋はよくあるが、ガス橋は珍しい。
左:世田谷区瀬田にて。イタリア産のオリーブオイルの宣伝に「オリーブオイルヌーボ」ってあんた、フランス語と英語のちゃんぽんやがな(-公- ;)。世田谷、田園調布界隈の住民レベルが非常によく解る事例であった。
右:隅研吾氏設計の巨大なイオニア式柱、M2ビル。無意味で悪趣味な(これは皮肉ではなく褒め言葉。僕はこういうのは好きである)、まさにバブル期日本を象徴する建物であろう。
左:rjuka君は完全なペーパードライバーで何の役にも立たないのに人に運転させて寝たくれているし、幾ら渋滞中とはいえ運転しながらの撮影では、これが限界。
右:最近団地マニアとの付き合いができて以来、こういうものにも興味がいくようになってきた。世田谷区烏山附近にて、団地の給水塔を見つける。
左:案の定古い団地があった。そしてかつて甲麓庵歌會関東例会を催した蘆花公園を通り過ぎたのだが、その隣に田舎のインターチェンジ脇のラブホかさもなければテーマパークの張りぼてというほかない、ピンクのコリント式列柱を持つ「下品の見本」としか言いようのないマンションを発見、げんなりさせられた。本当に、世田谷って見るのと聞くのでは大違いというほかない。絶対に住みたくないなぁ。恥ずかし過ぎる。写真を撮れなかったのが惜しまれる。
右:早稲田通りとの交叉点附近。いい感じの看板建築が残っていた。
左:荻窪から青梅街道に入り、更に小街道を次々に経由して、武蔵浦和へ向かう。これはその途中、埼玉県新座市野火止で見つけたペットサロン。スペルを見ると普通にフランス語の「愛」なのに、どうして「・」が入るのだろう?
右:いよいよ荒川を渡り、旧浦和市に入った。「ケイアイ」という会社なのだが、かなり専門性の高い商売である。なのにこう大きく看板を上げられると「今日は一丁義足でも作ってやるか」と素人が買い物に行きそう(笑)。
左:その日は武蔵小山のライブカフェ「アゲイン」にて僕のトークライブ「カフェテレマン@アゲイン」であった。これは道すがら、東急目黒駅で見つけた学校の広告。以前大分で「攻玉寮」というのを見つけて当サイトでも紹介したが、まさか学校になっていようとは!! 「女子高だったら怖い」などと皆で盛り上がってしまった。
右:その夜のみぃあ嬢。
左:22日の龍丸邸。裏の崖の上、グレーとクリームのツートンの家の更に裏が、元厚生事務次官夫妻殺害現場である。
右:上野の旧京成百貨店(現丸井)の横手に、非常に可愛らしい雑貨屋があった。戦後すぐの名曲喫茶のような建物である。しかし屋号が不明。
左:裏の表札には「MURASAKI岡野」とあった。
右:国鉄上野駅、階段の装飾。鉄道省の設計で竣工は1932年(昭和7年)。
左:上野駅、地下への階段の親柱。
右:上野駅コンコース。
左・右:上野駅二階はレストラン街として活用されている。
左:浅草にて、元は銀行だったと思しき山本屋総本家浅草雷門店という饂飩屋。しかし以前はここ、イタリアンの店だったようなσ(^◇^;)?
右:日本テレマン協会東京定演だったこの日、上野から浅草まで移動し、この老舗喫茶店「フラミンゴ」にてお茶会となった。
左:ハーフチンバー造りで、築半世紀ぐらいか。戦後のものだが、ここまで来ると最早レトロである。
右:アンティークが飾られた店内は緑色の世界。
右:これは龍丸。
右:落ち着いた店内。1962年創業らしいから、やはりもうすぐ半世紀だ。
左:マダムもいい感じであった。
右:その日の晩御飯。龍丸の手料理だが、物凄い量であった。