弐千九年関東下向記\



 

左:2009年11月12日、車で東下りの旅に出た。同行は龍丸、ヒロポン邸の書生rjuka君、早稲田大学アングラ研究会会長のアサミン君である。これは、柏原市付近の大和川。川の真ん中に塔を立てて小屋が乗っている、不思議な物件があった。判りにくいが、橋とは小橋で結ばれている。
右:同じく中河内にて見つけて、意味不明な屋号の店。「ひっこしてようなった大ちゃん」って、全く訳がわからない。検索すると、天理市に本店のあるお好み焼き屋らしい。全く無関係だが、検索しててこういうサイトを見つけた。



  

左・右:いきなり飛ぶが、これは信州諏訪市にある市民のための温泉施設、片倉館である。片倉財閥の当主、二代目片倉健太郎により、森山松之助の設計で1928年に竣工した、ネオ・ゴシック様式の大変豪勢な温泉なのだ。前々から入浴したいと思っていて、今回初めて訪れることができた訳だ。ただ、愛用のデジカメが壊れてしまい、このときの東下りは父のお古のデジカメを借りてきたので、やはりぶれたりボケたりしている写真が多いのが残念。



 

左・右:絢爛たる千人風呂なのに、入浴料は五百円と普通の風呂屋さん(一般公衆浴場)と大差ないゆえ、近隣住民の憩いの場となっている。よって、ラフな服装で訪れる人が多かった。11月の信州は既にかなり寒いのに、皆車で来るからこの恰好なんだろうな。



 

左:別館への渡り廊下の入口にて。こういう堂々とした誤字、最近では滅多に見かけない。
右:玄関ホールにて。片倉翁の胸像が出迎えてくれる。



 

左:玄関ホールに置かれたスキー立像。
右:同じくスケート姿。



 

左:玄関ホール細部。高い腰壁は大理石であった。
右:写真を見ているのはアサミン君。



 

左:片倉館前にはいつの時代のものか、タイル張りの池があって、悪趣味ぎりぎりのところだが、大理石製の豪奢なベンチがあった。
右:池と別館の玄関。



 

左・右:スクラッチタイル張りが美しい。いずれも別館の玄関。



 

左・右:同じ敷地内に、帝冠様式の諏訪市美術館があった。元々は片倉家が建てて、市に寄贈したものだそう。なんと戦時中、1943年に建てられたものとの由。「近代建築」としては最も新しいものということになる。



左:とにかくぶれに弱い旧型カメラだったので、これは駐車場の車止めに置いて撮影した。傾いているのはそのせいである。
右:裏側から、浴室を撮影。



 

左・右:男湯と女湯の仕切り壁。ステンドグラスがある。断っておくが、このときは既に閉館時間を過ぎていた。



 

左・右:反対側にある、非常に繊細かつ華麗な大理石の透かし彫り。この裏側は洗い場である。



 

左:これも駐車場から窓越しに撮影したステンドグラス。
右:ここからは、龍丸が撮影したよく室内の写真となる。ちょうど閉館時間までいたので、無人になった浴室を撮影できたのだ。



 

左:髭のおっさんである。
右:孔雀模様のステンドグラスのある、豪奢な洗い場。



 

左:この浴槽が「千人風呂」。さすがにそんなには入れないだろうが、百人ぐらいなら入れるかも。深さが一メートル以上あるので、子供は危ない。
右:イスラム建築風にも見える。下の湯船の端に切り欠きがあるのが判る。かけ流しである。



 

左:昭和一桁の当時としては、しかも信州の山奥の小都市で、これは相当にハイカラだっただろう。
右:イスラム式蒸し風呂を意識したのだろうか? 



 

左・右:館内の意匠。この重厚な階段は素晴らしい。



 

左・右:主階段細部。アーチ窓はステンドグラスではなく素通しだった。



 

左:梁を支えるスクロールの意匠。
右:天井の照明。



 

左:玄関ホールの腰壁細部。
右:正面ファサード。塔がシンボリックである。



 

左・右:玄関前広場の池。一面モザイクであった。



 

左:夜のファサード。
右:窓周り。



 

左:窓から撮影した男湯。
右:電話番号が三桁である。



 

左:玄関天井灯。龍丸撮影分は以上。
右:諏訪市のあちこちの電柱につけられていた、何やら怪しげなの広告。「波動強命水」だそう。マツキヨで扱っているそうだが、サイトには「当社独自の特殊製法(企業秘密)により、健康細胞の正常波動エネルギーを強力に関与させてあります。この水の波動は細胞の波動と共鳴します。」なんて書いてある(´ω`;)。更には「波動測定器による数値や市販の波動転写器のようなものは弊社も認めていない立場ですし、」ともあるが、そもそも波動エネルギーって何やねん(-公- ;)。リンクした旧漢字旧仮名遣いの変わったサイトによると、長野県では有名で、大々的に宣伝されているようだ。教育水準の高い県のはずなのだが(>_<)。



 

左・右:諏訪市中心部で見つけた、東大進学会という名の塾。どう見ても近代建築、元は銀行だったと思われる。このサイトによると、1925(大正14)年に建てられた旧長野農工銀行上諏訪支店のようだ。それにしても、引用している二つのサイトを見ても判るとおり、諏訪市は山の中の小都市と思っていたら、驚くほどの近代建築の宝庫であった。しかも、まるみつ百貨店というデパートまであった。



 

左・右:上諏訪駅前にあったサイキ薬局とその隣の理髪店。支えなしで撮影したので、ぶれぶれである(>_<)。



 

左・右:とにかく、運転していても次々近代建築が現れて、ハッとさせられる。路肩に車を止めては撮影したが、きりがないほどであった。一度じっくり訪れたいものだ。甲麓庵歌會関東例会の諏訪吟行など実現させたい。



 

左・右:そして11月14日、甲麓庵歌會第16回関東例会・築地吟行である。まずは集合地点となった、西本願寺東京別院、通称築地本願寺である。五月の東下り時にこの界隈を歩いているので、「2009年関東下向記E」「同F」にて既出の物件が多い。



 

左:伊東忠太設計のこのインド・サラセン様式の大寺院には、なんとパイプオルガンまである。1970年に設置された、ドイツ・ヴァルカー社製のものである。つまり、「パイプオルガンの不毛時代」であるモダニズム全盛期のオルガンなので、まだ実際に聴いたことはないので断言できないが、一般論としてはあまりいいオルガンとは言えない。実際見ての通り、ケースがなく、パイプが剥き出しですだれのようになっている。これでいい響きが出せるわけないのだ。浄土真宗本願寺派はお金持ちだろうし、そろそろ新しい、もっといいオルガンに変えるべきだと思う。1978年に僕が生まれて初めて生のオルガンリサイタルを聴いた思い出の場所であるカトリック大阪大司教区カテドラル(玉造教会聖マリア大聖堂)のオルガンも、今にして思えばこのタイプのものだった。あそこの場合、建物自体の残響が非常にあるので、貧相なオルガン(大きいのだが)でも結構豊かな響きとなっていた。よってこの築地本願寺も、建築がオルガンの弱点を補っていい響きになる可能性もある。
右:ボケた写真だが、煌びやかに荘厳(しょうごん)された内陣。



 

左:さすが伊東忠太のデザインだけあって、非常に構成的な狛犬だった。
右:築地本願寺正面ファサード。丁度報恩講の最中であった。



 

左・右:いずれも門衛所。門柱、門扉、門衛所も伊東忠太デザインだろう。



 

左:えらいハイテク化された掲示板。枠は伊東忠太のデザインによるオリジナルだと思われるが、中は液晶テレビになっていた。
右:本願寺門前、ビルの合間から華僑大廈が見える。



 

左:同じ位置から、ズームを使って撮影。
右:本願寺脇にある、古い日本家屋。



 

左・右:華僑ビルヂング。五月に東下りしたときはまだ一部テナントも入っていたのに、とうとう入り口が封鎖され、取り壊しを待つばかりとなっていた(>_<)。



 

左・右:ライト調の細かいタイルの玄関外壁に設置された真鍮の表札。



 

左:華僑大廈ファサード。剥落防止のネットがかけられている。1928〜9年頃の建物だから、既に八十年以上経っているのだ。何とも勿体ない。
右:本願寺前交叉点から見た築地場外市場。



 

左・右:道路の対岸から見た華僑大廈。六階は建増しのようだ。



 

左:華僑ビルヂング向側の商店のショーウィンドウにあった布袋像。
右:築地本願寺遠景。



 

左:正直過ぎたのか、廃業していた(´ω`;)
右:有名な看板建築、宮川商店。1901年創業の老舗だが、この建物は震災復興期のものだろう。吟行中、雨が降ってきた。



 

左・右:なんと路地裏にもマンサード屋根の、かなり大きな看板建築があった。宮川商店の向側、すぐのところである。これは五月には気づかなかった。



 

左:非常にハイセンスな看板建築に入居している「美容室ツキジ」。
右:これは看板建築ではなく、本格的な近代建築といっていい「トラヤ薬局」。



 

左・右:五月にこの界隈を歩いた時は既に逢魔が刻だったので気づかなかったが、トラヤの一階欄間と二階窓は見事なステンドグラスだった。



 

左:トラヤ薬局横の路地の奥に、大きな二階建て住宅が見えた。これは町家=店舗兼住宅ではない。
右:そこがなんと、素敵なレストランとなっていた。しかし、店名を撮影し忘れている(´ω`;)



 

左・右:ステンドグラスも天井飾りも後付だろうが、「ちゃちな偽レトロ」ではなく、本格的なものであった。非常に素敵。



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