弐千九年関東下向記]



 

左:前章に引き続き、2009年11月14日、甲麓庵歌會関東例会築地吟行の折の写真である。えらく狭い、溝のような池で鯉が飼われていた。これは可哀想なような(´ω`;)
右:築地菊栄ビルの川向にあったマンション。こういう外壁、高度成長期には大流行したな。懐かしい。



 

左:同じマンション。
右:そこから、高速道路と化した掘割を渡ると、このサイトでは三度目の登場となる築地菊榮ビルヂング。



 

左・右:灘五郷の名門、嘉納家の東京支店として使われている築地菊栄ビル。1927年に大林組の設計施工で建てられた。玄関周りなどライト調である。



 

左:菊榮ビルの向かいにあるマンサード屋根、三階建ての看板建築「井筒屋」。よく見ればその隣に「救世軍渡来記念の地」と書かれている。
右:中央新富二郵便局。左二軒隣に看板建築の食堂が見える。



 

左:郵便局二件隣の看板建築は、中華料理の「三久」であった。
右:ここでラ・リュミエールさんの下調べで、ここで昼食を取るつもりだったのだが、なんと暖簾まで出しておいて休業しているやる気のない店、「ひさまつ」。頭にきた。



 

左:このように、皆で入ろうとしたら、鍵がかかっていたのだ。こんな店、潰れてしまえ。
右:どこにも社名の書いていない張り紙。大丈夫か、この信用金庫の仕事ぶりは? 昭和信用金庫にはとてもお金を預ける気にはならんなぁ。



 

左:物凄くポップなネオンサインのある歯医者。ネオン管ではなくビニールチューブ製みたいだが、とにかくアメリカンな歯科医である。
右:結局新富町から築地側に戻って、「元祖カツカレー」という「グリススイス」の築地店に行った。



 

左:これがそのカツカレー。建物は新築だし、セルフサービスなのにとても高いし、味は普通だし、「東京だからやっていける老舗」というほかない。老舗といってもたかだか戦後創業のなんちゃって老舗だし、ともあれ関西なら三日で潰れるだろう。二度と行かない。こんなことなら「三久」に入ればよかった非常に後悔した。
右:「初恋の味」というカルピスみたいなコピーの弁当屋さん、「タクマ」。時計は壊れているのではない。針まで描かれたものだった(笑)。



 

左:築地のこの辺りにあった、協榮堂ビル。この手のモダニズムスタイルのレトロビルは戦前か戦後か判断しづらい。多分戦後だが、結構レトロな味わいになっていた。
右:五月にも訪れた、鬱蒼とした民家。



 

左・右:三階建てのほうは蔵か? しかし蔵にしては窓が大きい。そしてもう十年以上は開けられたことがなさそうな窓である。



 

左:一瞬読めなかったが、変体仮名で「魚可し」と書かれているのだった(笑)。変体仮名を角ゴシック体で書かれては読めないではないかww。
右:新富町も看板建築が多い。カレーハウス「アイチヤ」。



 

左:この川嶌産業は看板建築というより洋館である。
右:謎の東京空衛会館。「東京空調衛生工事業厚生年金基金」やら「東京空気調和衛生工事業協会」やらが入居しているビルであった。航空防衛ではないようだ。



 

左:新富橋交叉点の電柱に、キャバレー「白いばら」の広告が出ていて渋いのだが、「録音で説明します」が意味不明。電話したらテープが回る、ということだとは思うが。ちゃんと市内局番四桁化以降の広告である。
右:新富橋の大野屋足袋店。



 

左:新富橋を渡って東銀座地区に入る。ここら辺の看板建築。
右:当サイトでは二度目の紹介、旧甲子屋倶楽部の鈴木ビルである。



 

左:鈴木ビルとその隣の岩瀬博美商店。
右:鈴木ビルの説明版。1929年竣工、設計は新定蔵だとある。



 

左:硝子越しの撮影した玄関ホール。
右:非常に個性的な門柱。テラコッタ張りである。



 

左:一階に入っている喫茶店の看板。「アラジン」から「らんぷ」に書き直されている。
みぎ:上部のモノグラムはアラジン時代のままらしい。魔法で変えられたようであった(笑)。



 

左:吟行一行と岩瀬博美商店。
右:二軒隣り合っているのがいい。



 

左:その向側、普通の雑居ビルの階段もそろそろレトロ感が醸し出されはじめている。
右:路地裏で見つけた看板建築の民家。



 

左:同じお宅の玄関。「T.Mochida Violin Lesson」となっている。
右:同じ並びの看板建築。



 

左:ここである。
右:この三階建て三軒長屋店舗もすごく素敵。向かって右端は「閑々堂」という古書店であるが、サイトを見ると移転してしまったらしい( ̄□ ̄;)!!



 

左:「閑々堂」の入っている長屋のパラペットのレリーフ飾り。なかなかに細かい細工である。
右:これも当サイト二度目の登場、「中村畳店」。今気づいたが、横手がお洒落気なカフェになっている。



 

左:中村畳店の、琺瑯プレート。
右:中村畳店の硝子欄間。



 

左:蒸し風呂とはまた古風な。しかしビルの上であった。
右:「秩父錦」の直売所は古い町家であった。



 

左:秩父錦の玄関に貼られた琺瑯プレートと現在の住居表示。
右:そして歌会の会場である竹田ビルに到達した。1932年竣工(設計者不詳)のハイカラなビルヂングである。



 

左・右:竹田ビル。今回はこの「喫茶室ルノアール」の貸会議室が会場なのだ。ほぼ無装飾のモダンな造りだが、一階基層石貼りの部分のレリーフと、(戦後の増築いう説もあるが)最上階の瑠璃瓦がアクセントとなっている。



 

左:「ルノアール」の改装でもしない限り、このシャッターは開けられることはないだろう。
右:竹田ビル、二階以上はテナントビルになっている。正面向かって右側はテナント部の入口で、したがって玄関ホールからいきなり階段になっている。



 

左:歌会を終え、ビルの裏手に回ると、隣のビルに「セカンドオピニオン」を表看板にしている醫院があった。
右:竹田ビルは正面を昭和通に向けているが、裏通りまで続いている。裏手の夕焼け。綺麗であった。一番奥はジャン・ヌーヴェル設計の電通本社ビル。



 

左:竹田ビルの裏側は、更にモダニズム色が濃い。
右:裏玄関もいきなり階段である。



 

左:こんな素敵なイベントのポスターが貼られていた。
右:竹田ビルの裏階段。人造大理石研ぎ出し仕上げによる独特な造形の親柱と手すりから、裏側が幾らモダンとはいえ戦後の建増しでないことを示している。それにしても急な階段であった。



 

左:実は、エレベータはちゃんとある。ただ、二階からしか乗れないのだ。これは当初からなのか、後々の改装によるものかは判らない。しかし、正面玄関、裏玄関の「いきなり階段」という構造を考えると、当初からこうだったのでは、と思われる。
右:共用流し。ジントギの流し台に豆タイルモザイクの床。素敵である。



 

左:共用流し場。
右:表階段。腰壁の緑釉タイルがいい色合いであった。



 

左:銀座の奥野ビルと同じく、ここも当初はハイカラなアパートメントだったらしい。今でも個人名の表記があるので、お住まいの方がいらっしゃるようだ。
右:夕暮れ時で何が何やら判らないが、スーパーのダイエーとは無関係らしいビジネスホテルダイエーなのに、ロゴがそっくりであった。



 

左:なんだか銀座っぽい占いのお店があった。いい雰囲気である。
右:松屋という百貨店は「センスがいい」ということになっているらしいが、この事務棟(東別館)を全く活かしていないんだから、疑わしいものである。1927年竣工らしい。元は日本酸素株式会社の本社ビルだったとのこと。



 

左・右:ビルの一階に拝殿が、屋上に本殿があるという朝日稲荷神社。しかし残念ながら既に本殿のほうは開いていなかった。写っているのは甲麓庵歌會一行である。



 

左:東京から帰ってすぐ、「蟹睦会館」で検索しても全くどんな団体の会館なのか判らなかった、銀座蟹睦会館ビル。謎だと思っていたのだが、今「団体名なら」と閃いて「蟹睦会」で検索してみたら、一発出てきた。銀座に立派なビルを構えているこの「蟹睦会」は、なんと元々明治末に誕生した夜店の組合だったそうである。
右:これは初出ではない、歌舞伎座近くにある「傳八」のビル。曲面硝子がお洒落な戦後初期モダニズムである。



 

左:色んな会社があるもんだ。東洋精米機の本社ビルらしいが、色々テナントも入っているようであった。
右:その向かいは工事現場だったのだが、「大地への愛 人間への愛」というコピーが笑えた。



 

左:蟹睦会館の並びにあった、閉鎖されたビル一階壁面が全部瓦葺という不思議な外観であった。
右:ぶれた写真しかないのだが、有名なビアホール「銀座ライオン」の幟。百十周年ということで駄洒落であった(笑)。



 

左:京都の先斗町のような表示があった。
右:何と銀座にも、ビルからビルへ、喫茶店の中まで通って抜けられる路地があったのだ!! これは楽しかった。しかも真っ赤なお稲荷さんである。後姿は手前からrjuka君、ラ・リュミエールさん、アサミン君、龍丸。



 

左・右:みなが行ってしまうのを待って、更に撮影。



 

左:銀座グリーンビルの路地を更に一枚。
左:ちょっと離れて、今度は海洋ビルヂング。初めて内部に入ってみた。しかし、リンク先の写真を見ると、かつてはスクラッチタイル張りだったようだ!!



 

左:ぶれてしまったのが惜しい(´ω`;)海洋ビル階段の装飾金具。
右:小さいが素敵なビルである。



 

左:海洋ビル内部。
右:更に歩いた。今度は有楽町から新橋へ至る国鉄高架下である。こんなアジアンゴシックな空間が潜んでいようとは。



 

左:「インターナショナルアーケード」である。まるで進駐軍時代を思わせるネーミングであった。
右:中華料理屋があった。



 

左:産経新聞の関連会社か?
右:真鍮製の古い消火栓。



 

左:インターナショナルアーケードの階段の窓から外を見たら、平行してこういう通路があった。
右:インターナショナルアーケード内。開いている店舗は非常に少なかった。



 

左:JR東海の管轄であった。ということは、東海道新幹線の高架下、ということになるのか。そうであれば、進駐軍時代ではなく僕と同い年、ということになる。
右:いきなりこんな壁画が。あとで外を通って判ったのだが、この部分は現役のビアホールだった。既にインターナショナルアーケード側には店の入り口がなくなっていたのだ。



 

左:こういう協会もあった。
右:古い煉瓦の高架で、大口径のアーチが連続しているのだが、色々な使われ方をしており、ここはハイヤーの操車場であった。この煉瓦アーチの部分は明らかに物凄く古い。新幹線どころではない。



 

左:石と煉瓦のガード下。美しい。
右:先ほどのハイヤー操車場を外側から見るとこんな感じ。丁度一台出庫していった。



 

左・右:新橋駅近くにあった、廃墟と見まごう近代建築。実際空き部屋が多いのだが、まだ現役で一階には蕎麦屋なども入っている。この外壁の黒ずみは、戦時中コールタールで真っ黒に塗られて、そのままなのだろうか? 元々はコンクリート洗い出し仕上げの、多少装飾もあるレトロビルなのだが。



 

左:一階玄関から階段を見上げる。どうやら本当にエレベータはないようだ。
右:この看板だけは新しい。ビルの名は堤第一ビルであった。引用サイトによると大正九年=1920年の竣工である。



 

左:有名な鍵屋さん、堀商店ビルヂング。1932年、公保敏夫の設計である。
右:細部。ロマネスク調である。この段差はなんだろうと話していたら、丁度お店の人が出てきて「周囲の土地が地盤沈下したため、ビルの玄関がどんどん高くなったのだ」と伺えた。基礎がしっかりしているから、ビルは沈下しないのだ。



 

左:かなり怒っていることは解るのだが、何に対してどう怒っているのかが謎の貼紙。しかもドラえもんもどきは怒ってないし。
右:「登運とん」という居酒屋にはいんてり・ばばぁのマダムがいるらしい。しかし今検索していくつかブログを読んでみたが、「いんてり・ばばぁ」に会ったことのある人はいないらしい(´ω`;)



 

左:どういう意味があるのかよく解らない、旬報法律事務所。「遵法精神」ではなく「旬報」である。雑誌でも出してるのだろうか? 調べてみたら、案の定雑誌、でも「キネマ旬報」ではなく「労働法律旬報」であった。納得。
右:明けて11月15日のみぃあ姫。ラ・リュミエールさんのスーツケースの上がお気に入りである(笑)。



 

左:鞄の上からどかされて、ふてくされているみぃあww。
右:日本テレマン協会の東京公演のために訪れた東京文化会館。この日初めて気づいたが、このキンキラキンと赤の壁は結構気に入った。外観はつまらないのだが。



 

左:御徒町付近で見つけた、「俄然モンゴリ庵」という名のラーメン屋。
右:11月16日、関東下向時はほぼ恒例となっている川越「フカゼン」訪問を敢行した。これは「おばちゃんマネキン」で有名な「冨士洋品店」の素敵な看板。「金の品質」「銀の価格」というコピーが渋い。



 

左:おばちゃん、結構頻繁にお召し変えしていらっしゃるそう。
右:その近所の米屋さんで見つけた、手書きポスター。復活発売されたそうで、それに合わせて結構レトロ調で描かれている。



 

左・右:東武電車東上線で池袋へ出るのではなく、この日は西武電車新宿線で新宿へ出たようで、これは思い出横丁である。



 

左・右:闇市時代の雰囲気を今に伝える思い出横丁。



 

左:11月17日、武蔵浦和の龍丸邸から国道17号線で都内へ向かう途中見つけて、えらい大阪テイストなラーメン屋「殿様ラーメン秀吉蕨本陣」。まぁ大阪人なら豊臣秀吉のことを「太閤さん」とは呼んでも「殿様」とは言わんか。
右:「両面焼きそば」という謎の食物を売る店。



 

左:荻窪まで行って、帰路は国道を通らずに浦和へ向かった。途中東久留米市ですごい名前のNPO法人があった。「SOS」である。
右:いつも通り、地図を持たずに全国を走る僕である。適当に走っていたのでルートを再現しにくいが、途中に十文字学園大学、立教大学などあった。



 

左:これは武蔵浦和駅近くで見つけた、すごくレトロな駄菓子屋さんの「大文字屋」。
右:そのあと龍丸、洋子ちゃん、rjuka君で神田の近江屋洋菓子店へ行ったのだが、ぶれぶれの写真しかない(-公- ;)。そこで解散して、あとはrjuka君と一路西上の途についたわけである。これは川崎市にて、国道一号線沿いのレトロな風呂屋さん、生麦の「朝日湯」である。天然鉱泉らしい。



 

左・右:途上、箱根宮下に、大学時代の旧友のO邸を訪ねた。元は旅館だった建物なので、このようにレトロな鏡が。



 

左・右:よく十八日の早朝、大阪に辿り着いた。遠景は天王寺MIOか? とにかくビルの側面の模様が、不思議な形の雲とシンクロしていた。



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