遊廓の解説は「遊廓篇・其ノ壱」をご覧頂くとして、本章でも引き続き大阪・飛田新地とその中でも一番の大楼である「鯛よし百番」の写真で構成。撮影は二千四年三月である。
左:飛田新地遊廓は大正期の新興遊廓であるにもかかわらず、高い外壁に囲まれている。この写真館は既に営業していないようだが、外壁のすぐ外側に位置する。往時の雰囲気を今に忍ばせてくれるハイカラな写真館である。
右:そのすぐ近くにある、いい感じで朽ちた階段。
上:これが廓(くるわ)の外壁である。西側の壁を、廓外からみたところ。このように現存しているところは極めて珍しい。かなりの高さ。飛田の場合西側、正面大門側に多く現存している。北側は一部残っているが、南側は未発見である。なお東側は壁ではなく上町台地の崖で仕切られていた。
左:これが遊廓の正門の門柱。これは南側のもので、左が廓外、右が廓内。
右:同じ柱の根元。いかにも大正建築風である。
左:南側門柱の全体像。立て看板に「大門町会」と書かれているのに注目。今でも町会名に残っているのだ。
右:北側門柱を廓内から見る。右側の建物はポリ小屋。遊廓の門内には必ず交番があるものなのだ。
上:右端に写っているのは八歳児ことアキト少年(当時)らしいが、いかにも大正ロマン風の総タイル張りの旧妓楼。長らく明治牛乳の販売店になっていたのだが、現在は廃業したようだ。但し、二階はアパートとして現役である。旧遊廓には大抵、このような住んでみたくなる、妓楼アパートがたくさんある。
左:同じ妓楼のアップ。タイルの色使いがすごく妖しげで美しい。
右:これが有名な妓楼料亭「鯛よし百番」である。この日は第七回甲麓庵歌會のあと、共同管理人風太の大学合格祝賀会としてここを訪れたのだ。
左:「鯛よし百番」の正面玄関は、北西角に切られている。長屋型妓楼の多い飛田にあって、ずば抜けて大きいこの建物ならではの玄関のつけ方といえよう。現代のビルで角に入口を持ってくる例は希だが、近代洋風建築では角に入口を取ることはむしろ非常に多い。時代性を感じさせるレイアウトである。
右:玄関に向かって右側に純和風の勝手口(というか飾り門で用いられない)があり、そこから右は洋館造りになっている。参照⇒<増補>
左:「鯛よし百番」裏手、南面の造形。表と打って変わって渋い造りである。やくざの事務所があるので、ガラの悪い車が停まっていた。
右:同じく、西面である。左端が正面玄関。
左:西面の飾り門。実際には使用されない。この左側が右上の写真で、右側が洋館部分である。
右:玄関に入った途端にこれである。
左:同じく玄関。右側から上がる。
右:トイレの入口にしてこの派手さ。扁額は「清浄殿」と書かれている。
上:清浄殿入口周り。廊下が狭いので全景は魚眼レンズでもないとちょっと撮れない。
左:清浄殿の引き戸。なんと螺鈿細工である。
右:飾り金具のアップ。非常に質の高い細工が施されている。
左:一階廊下の壁画。太閤豊臣秀吉の醍醐の花見の図であろうか。
右:これも一階廊下。南蛮船と南蛮人の図である。
左:手入れは悪いが非常に豪奢な唐獅子の襖絵。これは廊下側である。
右:一階の太鼓橋。左側の中庭に面して吹きさらしなので、冬場は寒い。渡っているのは八歳児ことアキト少年(当時)である。
左:一階、玄関ホールにある陽命門。門の内側の部屋が待合室である。
左:陽命門の門扉。門といっても実際は左右に開く引戸である。
右:門扉上部のアップ。金彩螺鈿の鳳凰の図。
上:扉を開けて、待合室に入る。これは天井近くの壁面。蛙股など建具も螺鈿細工が施され、ありとあらゆるところが装飾で埋め尽くされている。
上:鏝絵の施された壁面。
上:飛天の舞う待合室奧の壁面。
左:天井には圓山應擧ばりの飛龍圖が描かれている。
右:陽命門の門扉を内側から観る。
左:二階への大階段。親柱が京都の三條大橋と三條小橋になっている。
右:その横手、一階、旧ダンスホールの装飾天井。漆喰の鏝細工ではなく、型押し鉄板である。
左:二階の個室は一部屋一部屋意匠が違う。この部屋は今は物置と化しているが、壁に巨大な五つ玉算盤が嵌め込まれている。
右:元は浴室だったと思しき部屋の天井飾り。これは鉄板ではなく本式の漆喰だが、もう殆ど原形をとどめていない。
上:浴室と思われる部屋の壁面。鸚鵡らしき鳥のタイルモザイクである。
左:物置と化している部屋の床の間と違い棚。廊下に立っているのはミゼラと思われる。
右:これは現在も使われている客室。畳は焼けているが、障子の桟がすごく凝ったものであることが解る。
左:物凄いデザインの床の間。
右:遊廓によくある、一見外の路地のように作られた廊下。各室には窓が設けられ、庇もかかっている。携帯メールをしているのはさっきから何度も登場している八歳児(当時19歳)である。
左:廊下から部屋に至るにも工夫の凝らされている。石畳の路地の奥に、井戸まで設けられていたりするのだ。
右:井戸の前から入った部屋。入口付近、つまり井戸のところに立っているのは共同管理人の風太である。
左:これも廊下に開いた窓。
右:非常に凝った作りの室内。一段高くなった部分は舟形になっている。
左:狭いので全景を撮りにくいが、このように船形になっている。
右:天井もこのとおり。
左・右:島田宿の情景が描かれた壁画と、宿場の宿屋をイメージした個室外側。戦後の六十年で「日本人としての常識的教養」が崩壊してしまったために今では島田の宿といわれてもぴんと来る人間は少ないだろうが、昭和戦前期までに教育を受けた人間なら、たとえ尋常小学校卒の職人階級であっても、歌舞伎や浄瑠璃、浪曲や講談などで古典文学についての知識は当り前にあったのだ。
上:これも廊下側から見た客室の入口。柱にまで金彩が施されている。
左:洋館部分は廊下側も洋風になっている。但し室内は和室である。
右:豪奢な折り上げ格天井を持つ客室。
左・右:同じ部屋の天井を見る。一枚一枚手描きである。
左:二階の窓から中庭側を見る。窓硝子はいまや骨董的価値のある歪み硝子、意匠も凝っている。廊下を挟んで西側外壁の高欄装飾も見えている。
右:室内。これなど地味な部屋だが、それでも天井、窓など、非常に凝った作りである。
上:中華風の装飾がある、部屋の入口。中は和室である。
上:同じ門のアップ。装飾欄間は木彫である。
左:天井に杓文字模様のある客室。大正期のものとしてはかなりのモダンデザインではなかろうか。
右:二階裏階段の壁画。天神祭の船渡御の図だろうか。
左:同じ階段。一階まで下りると桃太郎がいる。
右:一番豪奢な一階大広間の襖絵。登録有形文化財なのだから、もう少し大切にしてもらいたい(^_^;)。
上:同じ部屋にて。右端は伯爵の中学高校時代の友人、鈴木教授。
上:大広間、中庭側の硝子障子。豪華な彫り物が施されている。
上:大広間撮影中の風太。