骨董建築写真館 遊廓篇・其ノ壱
骨董建築写真館

遊廓篇・其ノ壱

『ゆうかく いうくわく 【遊郭・遊廓】 遊女を抱えた家が多く集まっている地域。くるわ。遊里。いろざと。いろまち。』
遊廓という言葉を辞書で引くと、以上のように書かれている。それでは遊女とは何かと引くと
『ゆうじょ いうぢよ 【遊女】 (1)古来、宴席などで歌舞をし、また、寝所に侍ることを職業とした女。あそびめ。うかれめ。遊君。(2)遊郭の女。娼婦(しようふ)。女郎。』
とある。したがってこの場合の遊女は(2)の意味ということになる。
つまり遊廓とは売春を業とする店舗が集まった売春業の街なのである。社会通念的倫理観では「悪」とされ、また法的にも売春防止法や児童買春禁止法で違法とされている売春行為であるが、人類最古の職業とも称され、また法的にはほんの四十年ほど前までは合法であったのだ。世界各国の都市には必ずこのような色街があり、日本で最も歴史の古い巨大都市である京阪神にも当然それはある。そん殆どは“痕跡”を留めるのみとなっているが、今でも往時の姿でそのままの営業を続けているところも、実はある。本編では京、大阪の幾つかの遊里について写真でご紹介したい。
なお、往時の遊廓の様子を知るためには水上勉氏の「五番町夕霧楼」、宮尾登美子女史の「陽暉楼」「岩伍覚え帖」などを読まれることをお勧めする。

  

左・右:遊廓の“廓”の字は本来“くるわ”で、それは辞書によると『くるわ【曲輪・郭・廓】 (1)城壁や堀、自然の崖や川などで仕切った城・館内の区画。(2)周囲を囲いで限られ、遊女屋が集まっている地帯。遊郭。遊里。さと。』という意味である。つまりは仕切られた、囲まれた、閉ざされた空間なのである。往時の遊女身分は本人の意思によって選択されたものではなく、多く人身売買によるものであった。また売春業に従事することは「苦界に身を沈める」といわれるほど肉体的にも精神的にも過酷なことだったのである。よって遊女が逃げ出さないように、日本の遊里の大半は高い塀などで閉ざされていた。遊女は半ば人格を無視され、半監禁状態に置かれていたのだ。この写真は大阪市西成区、旧飛田新地遊廓の大門である。今では門扉は失われているが、高い門柱、それに続く高い塀が往年の遊廓時代を偲ばせる。どちらも外側から遊廓内を向いての撮影。左の写真、門内すぐの建物は交番である。大抵の遊廓では門付近に交番が設置されており、ここでもその伝統が確認できる訳だ。大阪・飛田新地は難波の遊廓が火災により全焼、移転することによって大正年間に開かれた新しい遊廓で、今でも大正時代の趣が濃厚に残る街並を保持する貴重な空間の上、未だに各家の入口に“やり手婆”が座って客引きする様を見ることができる、存在自体が国宝・重要文化財級の街である。
こんな映画もあるようだ⇒<増補>


 

左:大門門柱の装飾を見る。いかにも大正期のものらしい幾何学的な意匠である。
右:飛田は大変規模の大きい遊里で、碁盤目状に区画されている。ただし一軒一軒の娼館は他の色街に比べると小規模なところが多く、このような棟割長屋型の建物も多い。大正期の遊廓だけあって、純和風の御殿と和洋折衷とアール・デコ調の洋館が入り混じっている。写真の長屋はサイデリアで覆われてしまっているが、本来洋館風の建物であった。


 

左・右:大正期の遊廓建築が軒を連ねる飛田新地の街並。

 

左:純和風の御殿風遊廓。しばらく空家になっていたので取り壊しが懸念されたが、また遊廓として復活したので喜ばしい。ただしどこも表向きは料理店ということにはなっているが、営業中は正面から撮ることは不可能なので、側面からの写真ばかりになる。なお大建築なので、この館内に二軒の遊廓が同居している。
右:こちらは大正浪漫をそのままフリーズしたかのような洋館風遊廓。こちらもかなりの規模の建築なので、今では遊廓のほか民家としても何世帯か入居しているようである。

 

左:上右写真の建物には、二箇所に二連の丸窓があるのだが、不思議なことにその造作が異なる。これは南側の二連丸窓。大正建築であるが、明治の擬洋風建築を思わせる、木組みによる色硝子窓である。
右:これは北側の二連丸窓。こちらは鉛の枠に様々な硝子を切って嵌め込んだ本式のステンドグラス、デザインはアール・デコ調である。丸窓左のサッシ引き戸は民家となっていて、自転車のおじいさんが入っていった。右側はすぐ角で、建物全体の正面であり、遊廓の玄関となっている。

 

左:同じ建物の二階窓。このような二連のステンドグラス窓が東面だけでも六組もあり、見事である。窓の上の丸い硝子は元々は電球が容れられていたのであろう。往時の華やかさが偲ばれる。
右:これは別の建物で見つけた擦りガラスの窓。海藻揺らめく海底に魚や珊瑚というメルヒェン調の図柄である。(※2004年1月4日追記。本年一月二日に探索したところ、この建物は既にプレハブアパートに建て替えられ、失われていることが確認された)

上:飛田新地で一番の大楼であった「鯛よし百番」。大正時代の典型的な遊廓建築で、国の登録文化財に指定されている。現在は大衆的な料金で鍋物などを楽しめる料亭となっており、僕らもオフ会などでよく利用、毎回好評を博す大変面白い空間である。

 

左:正面玄関より、北面を見る。このようにかなり規模の大きな遊廓である。角に取られた玄関の上にかけられた唐破風屋根が「千と千尋の神隠し」の油屋を連想させる。
右:玄関より向かって右、西面には、洋館造りが附設されている。和館に洋館を附設するのは、大正期の住宅にもよく見られる当時の典型的な手法である。この「百番」の洋館部の場合内部は継ぎ目も判らないほど和館部と一体化しており、和室として設えられている。

 

左・右:「百番」ほどの大楼でも独立した建築ではなく、東側は隣と棟続きになっている。中段左の写真で言うと、左端、電柱より奥の部分、二階に赤い欄干がある部分が「百番」である。この二枚は「百番」のすぐ東隣、旧遊郭「一歩」、現アパート「一歩荘」の裏側(何面)である。ここも全体の造りは和館であるにもかかわらず、裏側の一階部分のこの2スパンだけは洋風となっている。紅殻色の漆喰壁にアーチ窓、その左右には八角形と菱形の小窓を配し、当時のハイカラ趣味をうかがうことができる。

 

左:赤いタイルが艶めかしい遊廓建築。唐破風屋根の門には波模様が施されている。
右:飛田新地の廓は北西南の三方が高い塀で囲われ、残る東面は上町台地の境崖で廓外と隔てられている。これは飛田新地の大通りがその崖にぶつかる突き当たりにある階段。近年整備されたが、それでも往時の雰囲気を留めている。左右の崖にはほんの十年程前までバラックの二階建てが壁のように並び、廓内の赤線(官許の売春窟)に対する青線街(非公認の売春窟)を構成していた。なお崖の上、阿倍野区旭町は近年までいい雰囲気の下町が残っていたのだが、愚かな行政当局による再開発によって、見る影もない味も素っ気もない高層マンション群と化してしまった。阿倍野の再開発を題材に「阿部野橋魔法商店街」というアニメ作品が制作されているが、ちゃんとした大阪の下町言葉が使われていていい番組である。(以上飛田新地の写真は2002年6月6日撮影)

 

 

左:淀川水運の河港であり京街道の宿場である京都府八幡市橋本地区にも、ひっそりと静かに遊廓街が残っている。こちらは現役ではなく、静かに朽ちゆくのを待つのみといった風情。この写真は京阪電車橋本駅の改札前にて。何とも長閑といえよう。
右:駅前に古い火の見櫓が残っていた。(橋本遊廓は2000年夏の撮影)

上:ひっそりと静まり返った旧街道筋には、往時を偲ばせる古い遊廓建築がずらっと並んでいる。無住の空家、廃墟寸前のものも少なくないが、多くは民家となっている。

 

左:現在は民家となっている古い和風建築。しかし紅殼色の壁、二階窓の手摺や欄間などが、この建物が元々はただの民家でなかったことを物語る。
右:別の民家の勝手口。こった造作の屋根に注目。やはり元は遊廓である。

 

左:飛田新地より歴史の古い橋本遊廓であるが、やはり大正〜昭和戦前期にかけての洋館作りの娼館も何軒か残っている。
右:左の写真とは別の建物。尖頭型のゴシックアーチ窓にアール・ヌーヴォー調の見事なステンドグラスが嵌っていた。

 

左:上段左の写真の建物。側壁はトタン張りなのに、窓はちゃんとアーチ窓で設えられている。
右:旧街道筋の裏側。淀川堤防からの眺望である。街並と堤防の間のクリークは排水路で、淀川本流は堤防の反対側。

 

 

左:無住となり、庇などが崩れ始めている純和風の旧遊廓。
右:既に完全に廃墟と化している和洋折衷様式の旧遊廓。この建物は裏側に回ると更に廃墟全としている。下の二枚の写真である。

 

左・右:このように、最早完全に崩壊するのも時間の問題といった風情である。橋本の街は既にこのように空地、草原と化しているところも少なくない。京阪本線の駅とはいえ普通しか停まらぬ上、京都、大阪のどちらからも離れており、また幹線道路からも遠いという立地条件が、巨大都市圏内でありながらこのような空間を生み出しているのだろう。

 

左:前頁の廃墟の玄関。色ガラスが嵌められた両開き戸が、和洋折衷のハイカラな雰囲気を伝えている。
右:この廃墟のすぐ向かいの民家の玄関先に置かれてる、古い防火用水。

 

左:廃墟すら崩れ去ったあとはただ夏草が生い茂るばかり。そして朽ちつつある建物は木に覆われ、木はまた蔦に覆われてゆく。
右:いわゆる“原爆型”の“超芸術トマソン”。棟続きの遊廓が取り壊されたため、残った隣の建物の壁に階段の跡などがくっきり残っている。

 

右・左:橋本遊廓が紅灯賑やかなりし頃、つまり売春防止法施行以前より営業していると思しき古い洋食屋さんが、駅前で営業を続けている。

上:京都市内の遊廓というと歴史的には島原が有名であるが、現在街並として遊廓街の雰囲気がよく残っているのはむしろここ、旧五條樂園遊廓である。なおここは大阪の飛田新地、松島などと同様、遊廓として“現役”であるので撮影には若干の注意が必要。地理的には京都市下京区の五條通から正面通にかけて、高瀬川(木屋町通)の両岸に沿ったエリアである。(五條楽園の写真は2002年3月撮影)

 

左・右:六大都市の一員、人口百五十万人の大都会である京都市の都心部ではあるが、五條樂園は全体にひっそり静まり返っており、死都といった趣がある。従ってこのように朽ちかけて廃墟になりつつある遊廓建築も散見できるのだ。

 

左:河原町通に面して建つ大規模な木造三階建て建築を裏側、つまり五條樂園側より眺める。
右:前頁ラストの写真で奥に写っている洋館の丸窓。元遊廓だが、現在はアパートになっているようだ。

 

左:同じアパートの丸窓。こちら側はステンドグラスが嵌められている。見事なアール・デコ様式で、保存状態もとても美しい。
右:御茶屋(旧遊廓)である「淺とみ」。手前の洋館と奥の和館が実は一つの建物となっている。あわせて一軒の店(お茶屋)なのである。

 

左:洋館部玄関の大きな表札。金文字が褪せていないし左書きなので、文字は付け直されたものと思われる。
右:玄関灯。値打ち物の擦り硝子フードである。

 

左:洋館部玄関にはこのようにステンドグラスが設えられている。
右:内側から撮影、色鮮やかな桜の図柄である。このように両面ともに外気に触れる形で設置されているステンドグラスは神戸の舞子ホテルなどでも見られるが、極めて珍しい例である。

  

左・右:「淺とみ」洋館部の玄関の脇には、このように美人画風のステンドグラスが嵌めらた窓が二つある。

 

左:「淺とみ」和館部の玄関。唐破風屋根を頂いた典型的な遊廓建築である。
右:五條樂園では狭い通に面して幾つもの遊廓建築が軒を連ねている。これは丸くとった角に正面玄関を置く、かなりモダニズム色の濃い洋館建築である。左側、段差のある二つの丸窓はステンドグラスが嵌められている。

 

左・右:前頁最後の写真の建物のステンドグラス。スクラッチタイルの壁に穿たれた丸い窓にはアール・デコ調のステンドグラスが嵌るという、まさに大正浪漫の典型である。

  

左:五條樂園歌舞練場・検番。因みに検番とは辞書によると『けんばん【検番・見番】 (1)三業組合の事務所。また、近世、遊里で、芸者の取り次ぎや送迎、玉代(ぎよくだい)の精算などをした所。(2)「検番芸者」の略。』となっている。豪壮な木造三階建て建築なのに、裏手の鉄筋コンクリート造マンションが景観を思いっきり破壊してくれていて興を削がれること甚だしい。
中:大変ハイカラなデザインの遊廓。市松模様のタイル壁に丸窓、ステンドグラスはやはりアール・デコ調であった。
洋館風遊廓の玄関を飾る愛らしいランプシェード。

 

左:全面タイル張りの洋風娼館。上の写真のランプシェードはこの建物の玄関である。
右:高瀬川に面して建っている古風で純和風の風呂屋。赤いネオンがいい味わいである。

 

左:高瀬川に架かる人道橋。鉄製で渡り心地がよい。
右:2000年夏に「新アララギ」の石井・北夙川一門歌会を行った平岩旅館。これも純和風の旧遊廓である。写真右側の唐破風屋根が旧玄関であり、左側が現在の玄関となっている。

トップに戻る    遊廓篇・其ノ弐(飛田百番の内部)