京都篇其の拾五
左・右:2007年4月8日、大津の街を巡ってから、京都へやってきた。悪名高い国鉄京都駅舎である。原広司の設計で建てられ、1997年に竣工した。古都京都の景観を台無しにする実に醜悪な光景として、国際的に日本の恥をさらしている。
左:とにかく京都にはスケールオーバーな建物である。設計者の自己顕示欲と下品な品性がよく判る。
右:実は建築としては面白い。しかし京都には全くそぐわない。一階から屋上までの大階段は圧巻である。これは屋上から見下ろしたところ。
左・右:SF映画のロケには向いている。悪の秘密組織のアジトにぴったりである。
左・右:僕は高いところは全く平気というかむしろ好きなのだが、高所恐怖症の人間にはかなりたまらん空間かもしれない。
左:駅ビルの東側はホテルグランビア京都、西側は下品で邪悪な東京資本の伊勢屋丹治呉服店となっている。デパート内のエスカレータもこの写真の通り、大階段と同じく一直線に上まで通じている。しかしこの田舎の低等百貨店、伝統と格式と老舗と暖簾の街京都に進出するには相当な意気込みだったろうに、やはり京都人からは洟も引っ掛けられない可哀想な状態なのが笑える。「伊勢丹? 何どすかそれ? あぁ、そないゆうたら街外れにそないな名前の田舎のデパートがでけましたなぁ。行かしまへんけど。」、「あそこはよそさん(つまり観光客=田舎者)がお土産もん買ははるとこどす」で終わり、全く無視されているのだ。まぁ当然だろう。京都において「デパート」といえば目抜き通りたる四条通の大丸と高島屋(と阪急と藤井大丸)であり、特に「大丸さん」とさん付けで呼んでもらえる大丸の独壇場なのだ。新参者がえらそうに出てきたって相手にされるわけがないし、大体京都駅という立地、京都人から見たら「街外れ」以外の何ものでもない。田舎の山猿はろくにマーケティングもせずに出てきたのだろう。愚かというほかない。三越ブランドならまだしも、所詮「大衆ファッションデパート」に過ぎない伊勢丹である。高級感皆無なんだから関西で受けいれらるわけがないのだ。大体、呉服店だなんて高級ぶっても創業は明治になってからという超新店で、何の伝統も格式もありはしないのだ。
右:無駄な空間。
左・右:これも同日撮影。右の琺瑯標章が面白い。「險」以外は現在の字体(当時の略字体)で書かれている。
左:すっかり日が落ちたが、京都市役所がライトアップされていた。1927年、武田五一教授の設計で建てられた官庁建築の傑作である。
右:御池小橋から高瀬川の上流を見る。桜が美しい。
左:御池小橋の親柱。ゼセッション風である。
右:高瀬川沿い、つまり木屋町通の桜並木。
左:高瀬川の水面。今は水量が絞られていて非常に浅いが、かつては水運に使われていたので、もっと深い流れだったはずである。人工河川=運河なので、常時水量は調節されている。
右:一之舟入近くに係留されている高瀬舟。
左:手前が高瀬川本流。柵で仕切られているのが一之舟入で、結構奥行きがある。かつては九つあった舟入だが、現存するのはここだけ。ベンガラ壁の町家は舟入の上に大きく張り出していて、風雅である。
右:島津創業記念資料館。島津製作所発祥の地に、創業当時の建物が残されている。19世紀である1894(明治27)年の建物で、和風だが西洋風縦長窓、ステンドグラスなどがある。ここが木屋町通の北端、木屋町二条であり、高瀬川はここから始まる。
左・右:この界隈、雰囲気のいい路地(ろうじ)が沢山ある。
左:木屋町御池上ルで見つけた、一つ目小僧の看板。バーであった。
右:木屋町二条下ルにある石柱。元々は角倉了以の屋敷址であり、明治時代に山県有朋公爵が別邸とした。現在はなんと「がんこ高瀬川二条苑」になっている。
左:ということで、同行していたアキちゃん、くれぴ少年と共に、「がんこ」にて晩餐会となった。夜だったので外観の写真はないのだが、今の建物も恐らく昭和初期の個人邸宅で、和風数奇屋だが玄関脇にはセオリー通り洋間の応接間があって、僕らはその部屋に通されての食事となった。写真のように、大理石の暖炉があった。
右:食後は庭園を散策。この屋敷の住所は中京区木屋町二条下ル東側、である。つまり木屋町通と鴨川に挟まれていて、裏は直接鴨川に面している。鴨川に架かる最初の橋(それより上流は賀茂川である)、賀茂大橋(今出川通)の下流で鴨川本流から取水されたみそそぎ川は、鴨川右岸の河川敷を本流と平行して流れ下る。そのみそそぎ川から取水された水がこの庭園の池泉となり、それが流れ出たものが高瀬川なのだ。つまりこの庭園は、高瀬川の源流そのものということになる。
左・右:それほど大規模ではないが、水の流れが豊かで豪壮な庭である。
左:このように、贅沢に水を使っている。池ではなく、流れがある。
右:あまりセンスがいいとも思わんが、巨大な石灯籠があった。下に立っているのはくれぴ少年。右に離れがある。
左:離れはこんな感じ。茶室だろうが、歌会などにもよさそうだ。
右:離れ附近から見た庭と母屋。
左:水使いが巧みな庭であった。
右:アキちゃんが写っている。これは三條京阪辺りと思われるが、なかなかに昭和な雰囲気の看板であった。
左:昔懐かしいホモ牛乳(笑)。
右:仁丹将軍の町名表示板。「下京區寺町通六角下ル中筋町」である。
左:ここから同年4月27日である。伯爵邸に逗留していた龍丸、ラ・リュミエールさんと都をどりをみに上洛した。この写真は四條河原町西入ル北側の呉服の老舗「ゑり善」。当時はまさか破壊されるとは思っていなかったので一枚しかとっていないが、貴重な写真となった。丸窓など見えている。
右:こちらは河原町通蛸薬師下ルの佐々浪薬局(社名は轄イ々浪ファーマシー)アーケードのせいで判りにくいが、実は堂々たる三階建ての洋館である。検索しても建築としては全く出てこなかったが、1933年に薬局部門を設立したときに建てられたものだろう。
左・右:ということで、このサイトでの紹介も何度目かになるが、祇園甲部歌舞練場にて、都をどりを鑑賞した。大正2年の木造劇場建築で、登録有形文化財である。
左:緞帳の寄贈者は高島屋と大倉酒造(月桂冠)。
右:二階は桟敷席となっている。
左:舞台の上には千鳥破風がかかっている
右:この桟敷席なら結構安いのだ。
左:幕が上がり、演奏が始まる。
右:そして両花道からまずは舞妓さんたち。実に華やか。
左:右:最後の総踊り。
左:一回の公演は一時間ほど。
右:こちらの緞帳は川島織物、朝日麦酒、大丸であった。
左:花道、オーケストラピット(笑)、二階のボックス席。
右:二階ボックス席。
左:歌舞練場の大屋根と、同じ敷地に建つ帝冠様式の大廈、弥栄会館。竣工は1936(昭和11)年、設計は劇場建築の名手木村得三郎である。これもこのサイトでは何度も取り上げている。提灯は大丸と高島屋の紋入りが交互に下げられている。伊勢丹などの入り込む余地は全くない(笑)。
右:四月の祇園はこのように雪洞が沢山設置されていて、ことのほか華やいでいる。この花見小路は電線地中化が済んでいるので、空がすっきりしている。
左・右:大変美しい街並みだが、花見小路以外は電柱が目障りである。
左:この町家、実は新築である。ここまでやってくれたら素晴らしい。兵に見える部分も実はガレージなのだ。
右:伯爵行きつけの老舗喫茶店「たんぽぽ」。戦後すぐの開業で、見事な京言葉を操る大正生まれのマダムが迎えて下さる。
左・右:非常に美しい佇まいの喫茶店である。
左:たんぽぽの看板。但し、祇園である。一見客は入らないほうがよい。どうしても行きたい方はご連絡下されば同行します。よって場所も書かないでおく。
右:花柳街なので、裏通りには婦人科醫院が。
左:「たんぽぽ」の近所の置屋さんの前に繋がれている、おばあちゃん柴犬。いつも可愛い。
右:この日の晩餐は東華菜舘だったようだ。左の手はくれぴ少年、右の指輪だらけのては龍丸である。