近江大津篇



上:2007年4月8日、青春18切符の使いきりのため、九州から大阪に引っ越してきたアキと二人で滋賀県大津市に出かけた。国鉄大津駅から琵琶湖の方に緩やかな下りである。途中で右折すると、まずはこの国威発揚建築が見えてくる。



 

左・右:まさに昭和初期の右翼的国家体制を象徴するような、仰々しい体育館である。ここまで来ると、帝冠様式というより、鉄筋コンクリート造の純和風建築である。三井道雄の設計で1939(昭和14)年に建てられた旧武徳殿、現滋賀県立体育文化館。



上:旧武徳殿ファサードほぼ全景。



上:細かい意匠も、木造建築のものを鉄筋コンクリートで完全に再現している。



上:内部はこんな感じ。今ではポリが使っているのだが、右翼の旗が掲げられている。



上:硝子越しの撮影なので手が写ってしまっているが、内部の階段がちょっと素敵だった。



上:武徳殿の隣は、滋賀県庁である。これは側面だが、脇玄関でもきちんと車寄せを備えた立派なもの。



上:滋賀県庁正面見上げ。1939年(昭和14)年に佐藤功一の設計で建てられた、滋賀県最大の近代建築である。様式的には新古典主義に分類されようか。



上:このように、近年のものと思しき新館も様式や色合いを合わせて建てられている。



上:武徳殿は東に向かって正面玄関を大きく開けている。



 

左:武徳殿とほぼ向き合う、県庁舎西側脇玄関。
右:そして北側、正面ファサード。県庁は琵琶湖に向かって建っていることになる。



上:このように、中央部には高く塔を持つ威風堂々たる建物である。



上:このように正面道路が狭いため、全景を撮りにくい(´ω`;)。



上:県庁のすぐ脇にある、洋館と蔵を備えたお屋敷。



 

左・右:日本基督教団大津教会。近江なので、つまりは近江兄弟社の本拠地である。この教会ももちろん元々は近江ミッションの教会で、設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズで1929(昭和4)年の作品。スパニッシュ・ロマネスクの美しい教会堂はランドマークとなっている。



上:
大津教会全景。



上:屋根だけ本格的に木造瓦葺となっている鉄筋コンクリート寺院。なんと一階には一般店舗も入っている。なんとも珍妙な印象を受ける。



上:大津市は琵琶湖最大の港湾都市(そもそも「大津」という地名は大きな港という意味である。大津港は内水域でありながら国の地方港湾に指定されてもいる)であると共に、東海道も通っている、交通の要衝である。旧東海道に入ると、このように老舗が点在している。



上三枚:旧東海道の街並み。



 

左:あっさりした看板建築。
右:大津事件の碑。このサイトの読者に大津事件を知らない馬鹿はいないだろうが、日本人巡査がロシア帝国の皇太子、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ大公(のちの皇帝ニコライ二世)をサーベルで斬り付けたという大事件である。



上:大津事件解説銘板。



上:大津市は滋賀県庁所在地ながら、京都市と直接に境界を接している。よって県都でありながら京都の衛星都市という側面があり、つまり京阪神のベッドタウンである。しかしその中心部には、結構古い町並みがよく残っている。




上:角に円塔を配したユニークな商家。



上:大津市の有名物件の一つ、島林書店



上:なんと木造三階の町家もあった。



上:黒漆喰の呉服店。



上:洋風意匠の町家。



上:戦後のものだが、それでも古い。まだ市内局番がなかった時代の電話番号プレート。



上:犬矢来が美しい。



 

左・右:日本聖公会大津聖マリア教会。可愛らしいが本格的なゴシック教会である。二階の建て増しが謎。一階玄関欄間には鳩のステンドグラスが。1931(昭和6)年の建物だが、設計者は不詳。



上:同教会ファサード見上げ。



 

左:マリア教会を真正面から。隣のマンションが実に醜悪である。
右:昭和初期の、仁丹将軍付琺瑯町名板。



上:四輛編成の長大な路面電車、京阪大津線。京都地下鉄東西線に乗り入れるので、このように路面電車にしては異例の大きな車輛が走っている。



上:大津市のデパートは膳所にある西武ただ一つ。奈良と共に、「郊外型百貨店しかない県都」なのだが、中心市街地はもちろん、膳所ではなく浜大津である。二階を見れば洋風の軒蛇腹装飾が施されているパーマ屋さん。中心部のアーケード商店街である「丸屋町」にて。



上:同じサロンにて。蛇腹装飾のアップ。かなり本格的な感じ。



 

左・右:丸屋町商店街の中に、大津祭曳山展示館があったので、入ってみた。あまり知られていないが、毎年秋にからくり人形を乗せた曳山が沢山登場する、なかなかの祭らしい。その曳山の一つに「西宮蛭子山」があるのには吃驚。まぁ岐阜県中津川市や栃木県足利市にも蛭子命(ひるこのみこと)つまりえべっさんを祀る西宮神社があるし、戎(ゑびす)信仰の中心が西宮なんだから不思議ではないが。



 

左:吹き抜けの空間に巨大な実物が展示され、からくりも披露されている。
右:丸屋町にて。杉玉をぶら下げた造り酒屋。



上:裏通りで見つけた、木造三階建ての古い洋館。昭和初期のものだろう。



上:同じ洋館。壁面に第六回勧業博覧会と書かれている。



上:同上。手入れが悪いのが惜しまれる。大切に末永く使ってほしいものである。



上:この素敵な洋館は、1937(昭和12)年に建てられた石田齒科醫院



上:角度を変えて。側面の丸窓はステンドグラスである。



上:電線が邪魔だが、ステンドグラスのアップ。さすが、浜大津港にすぐという場所だけあって、船の図柄である。



上:白大理石らしい表札もいい雰囲気。



上:その向かって左隣もいい町家である。



上:そして、甲麓庵歌會を催したこともある旧大津市公会堂(現社会教育会館)。立っているのは同行したアキちゃん。1934(昭和9)年に建てられたが、設計者は不詳。右側に見える架線は京阪電車石山坂本線(いしやまざか・ほんせんではなく、いしやま・さかもと・線である)で、その向こうはもう港である。



 

左:玄関車寄せ。車寄せだが、石段があるので車では乗り付けられない(笑)。
右:正面玄関。



上:車寄せの正面は今では車椅子用のスロープになっているので、本当に自動車では乗り付けられないようになってしまった。



 

左:車寄せの正面と、軒に同じ意匠の装飾が施されている。
右:階段。親柱には素敵なランタンがあった。床はタイル、手摺は人造大理石であった。



上:玄関ホールのシャンデリア。



 

左:古い建物独特の雰囲気が濃厚に漂っている廊下。
右:スクラッチタイル張りの重厚極まりない外観。窓のサッシもオリジナルが残っている。



道路に沿った低い外壁もスクラッチタイル張りである。



 

左:玄関ホールから外を見る。欄間が美しい。
右:玄関ホールから左右両方に階段があり、その踊り場がトイレという構造。



 

左・右:外観はスクラッチタイルで覆われ、車寄せは石張り、窓回りなどはテラコッタが用いられている。



上:港側から見た旧公会堂。手前の線路は京阪電車。石山坂本線は小型車輛が二両編成で走るローカル線なのだが、国際標準ゲージ1435ミリなので、立派に見える。



上:ペデストリアンデッキから浜大津港の埠頭を望む。停泊しているのは左がミシガン、右がうみのこ。いずれも一千トンを超える巨船で、どちらもエレベータまで備わっている。防波堤を巡らした大きな港と共に、湖というより海に見える。



 

上:浜大津駅からすこし歩くと、ちょっとした歓楽街もあった。



上:坂本駅から来た電車。正面に見えるのが浜大津総合駅。行き先はその先の石山寺と掲示されている。石山坂本線が併用軌道となっているのはごく一部。殆どは専用軌道を走る。



上:琵琶湖疎水である。これは琵琶湖から引き込まれた直後の第一疎水。正面の山をトンネルで抜けて、京都市に至る、1890年に完成した明治の近代化遺産である。今も水道、発電に用いられているが、当初は運河としても多くの船が行きかっていた。この日は桜のシーズンなので花見客が多かった。



上:水門と桜。



上:疎水を渡る京阪電車。奥のほうは琵琶湖が見えている。



 

左:どうやらこの水門は閘門らしく、二重になっている。
右:その閘門を避ける水路。



上:疎水の岸邊。斜めに切り取られたような造りの料亭があった。



上:閘門と、それを迂回する水路の合流点。結構流れが速い。



上:古い運河なので、橋も古い。



 

左:第一トンネルへ一気に流れ込む第一疎水。
右:第一トンネル入口は、ギリシャ神殿のように立派な造り。設計は日本人だけでこの大土木事業を完成させた若き技師長、田邊朔郎博士本人である。



上:この界隈、洋館も多い素敵なエリアである。渋い町家が売りに出されていた。



上:ぶれてしまったが、昭和初期と思しき洋館。



上:奥まったところにあって、どうにもこうにも接近できなかった。



上:大津赤十字病院の近くで見つけた、洋館附設住宅。



上:随分暗くなってきたので、撮影が難しい。



上:空き地に残されていた、古井戸。



上:木造のとても渋いお風呂屋さん、「御幸湯」。玄関庇は唐破風である。

 このあと更に国鉄大津駅まで歩き、京都に出て、三條京阪にてくれぴ少年と合流、「がんこ高瀬川二条苑」にて食事したのであった。



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