
阪~間雜記X

左・右:阪神出屋敷駅前の出屋敷薬局。木造二階建てだがファサードはモダニズムビルヂング風の仕上がりとなっている。戦後ではあろうが、半世紀以上は経っているだろう。本章は2008年12月23日撮影分からスタートする。

左・右:高度成長期まで、尼崎市が大工業都市として栄え、産業労働者が溢れていたころには殷賑を極めたであろうアーケード商店街。

左:風呂屋さんがあった。「宝来湯」と読める。
→:渋いパーマ屋さん。

左・右:崩れかけの廃墟もあった。

左・右:見所の多い商店街であった。

左:石畳の路地。
右:振り仮名付であった(笑)。なかなかに達筆である。

左・右:アーケードを抜けたところにある「大衆喫茶玉一」。ごく近年、廃業されてしまった。非常に残念。

左・右:「玉一」細部。実に渋い。窓の硝子も今となっては貴重品である。

左・右:廃業はされたが、お住まいなのできちんと手入れされている。シャッターが開いていることも多い。「玉一」はチェーン店だったようで、福島区に「総本店」があり、新世界など他にも現役の店舗がいくつかある。フランチャイズというより、「暖簾分け」だったのだろう。

左:あえて「玉一」を入れずに撮影した、アーケード入口。左の高架が阪神電鉄阪神本線。高架になったのは平成になってからだったか。
右:昭和初期だろう、銅張りの立派な町家、「道善本家」。

左:以前はゴジラがいた漢方薬局のショーウィンドウ(笑)。
右:滅茶苦茶渋いものを扱う専門店。「ありがた屋」という屋号もいい。

左・右:三和商店街、尼崎中央商店街を中心に、多くの市場が集まったこの界隈はいいものが安いことで有名である。アニメ版「涼宮ハルヒの憂鬱」には「祝川商店街」として登場する。「祝川」とは「夙川」であろう。

左:三和商店街の入口。
右:新三和サンロード商店街の入口。

左:シャッターの下りている店も、特にエリアの南側では少なくないが、それでも和歌山のぶらくり丁や富山の総曲輪と比べると非常に頑張っているし、賑わっている。
右:裏側へ抜ける路地。

左:この谷商店は明治生まれのおばあさんが椿油などを量り売りしているお店だったのだが、さすがにもうやってらっしゃらないようだ。
右:石畳の路地。


左:石畳の路地が多い。とてもいい雰囲気である。
右:三和市場。定休日に重なったので、しまっている店が多い。

左・右:八百屋さん。

左・右:三和市場。

左・右:掃除が行き届いてないのもご愛嬌である(笑)。非常に昭和な雰囲気であった。

左:すごい名前のかしわ屋さん。
右:出屋敷には大衆演芸場「天満座」がある。

左:鯨肉も扱う魚屋さん。
右:賑わう市場。亜細亜的光景である。

左・右:町家を洋風に改装して醫院としている、土谷医院。

左・右:当サイトでは三度目の登場。戦後すぐの赤線か青線だったと思われる「現役」の、「スタンドセンター」。このときは看板が塗りつぶされていた。

左:スタンドセンターの入口通路。
右:スタンドセンター内部。外側、街路に面して店舗の入り口があるのだが、この裏側にも店舗がある。

左:スタンドセンター裏側。こちらから見ると普通の長屋のようにも見える。三階建てだが。
右:古い消火器。「パーク飲食店組合」と書かれている。
左:威風堂々たる猫様。
右:スタンドセンターの西側に連ねる青線っぽい店。現役である。

左:同上。
右:このように、東側には三階建てのスタンドセンターがつながっている。

左:「何でも買います」ではなく、「何品でも買ます」であった。
右:玩具屋さんの看板には「坊チャン嬢チャンの店」とあった。

左・右:アーケード商店街と市場が複雑に入り組んでいる。この日は火曜日だった。


左・右:尼崎市は「阪神間モダニズム」「細雪文化圏」といわれる阪神間にあって唯一工業都市であり、下町が中心なので、阪神間唯一の「風俗街」もある。その猥雑なエリアに、この渋い喫茶店「ジャワ」がひっそりと佇んでいるのが面白い。1958年創業、1972年改装とのこと。「純喫茶」全盛期のものである。当時はこの辺りも「盛り場」ではあっても「フーゾク街」ではなかったのだろう。

左・右:行き止まりの路地。普通の焼き鳥屋、スナックなどに混じって、いかがわしい店がある。

左:居酒屋とは思えん店名。
右:渋い壁画。

左・右:三和・尼崎中央・出屋敷地区を離れ、阪神尼崎駅北口の再開発地区を抜け、その西向こうに残る下町へ入っていった。

左:空家から廃屋に変わりつつある民家。
右:未舗装の路地があった。

左:路地を挟んで両側に長屋という、日本の伝統的な下町の光景が残っている。奥の高架は阪神電車の本線となんば線(尼崎〜大物間は複々線)
右:トラックが並んで停まっている空き地は、かつての国鉄尼崎港線の跡地。もう少し東の杭瀬駅附近には阪神電車の旧国道線浜田車庫(路面電車)と本線を繋ぐ渡り線もあった。僕が子供の頃、既に本線は1500ボルトに昇圧されていて、路面電車が自力で本線に乗り入れることができなくなっていたせいか、廃線となっていた。「あの線路はどこにつながっているんだろう?」といつも疑問だったのだが、要するに僕は小学校低学年の頃、既に「僕」だったのだなぁ。本線と軌道線(路面電車)を繋ぐ渡り線だったということは、大人になってから判ったことである。

左:尼崎港線跡地は切り売りされ、あまり原形をとどめていない。この建物がまさに線路敷いっぱいに建てられている。手前の空き地、フェンスに囲まれている部分からずっと線路がつながっていたのだ。
右:西側は阪神電車の尼崎車輛吉である。地図では線路になっているこの更地、当時はモダニズム建築ながらいい雰囲気だった戦前の変電所を破壊したところであった。

左:ズームで撮影。阪神電車と近鉄電車の相互直通運転は2009年3月20日からなのだが、この頃既に、このように試運転の近鉄車輛が乗り入れていた。当時としては非常に珍しい光景だったので、一同歓声を挙げていた。
右:車庫の外壁はかなり古めかしい。