骨董建築写真館 阪神間雑記
骨董建築写真館

阪神間雑記

 阪神間在住でありながら、このギャラリーでは阪神間をあまり取り上げておらず、その間に撮りだめた写真も結構な枚数になってきたので、ここらで一章を阪神間のために設けることにした。まずは2002年の十日戎の写真である。

上:十日戎で賑わう西宮神社。西宮神社はゑびす信仰の総本宮で、その祭神は蛭子命(ヒルコノミコト)とされている。十日戎は関西を代表する大きなお祭で、毎年一月九日、十日、十一日の三日間開催される。西宮神社のほか、各地の末社でも開催され、関西では今宮戎神社、堀川戎神社、柳原戎神社、六波羅戎神社などでもかなり大規模に行われる。岐阜の中津川の十日戎も有名である。西宮は総本家、最も賑わい、三日間で百万人以上の参拝客が集まる。クリスチャンの僕も、地元の大きなお祭なので、子供の頃から欠かさず通っている。以前は見世物小屋も何軒も並んで、壮観であった。この写真は、普段は入れない、拝殿と本殿の間の部分。大きな鮪が毎年奉納される。


上:あまりいい写真がないが、賑わう社前。国宝だった社殿の大半は戦災で焼失したので、今の建物は鉄筋コンクリートである。安土桃山時代の赤門と大練塀は重要文化財に指定されている。


上:軒の照明。なかなかの逸品である。


上:阪神間一円の神職が応援に駆けつけている。伯爵にとっては前権宮司(サキノゴングウジ)吉井貞俊さんを訪ねるのが毎年の慣わしである。


上:一年と少し、時間が経つ。これは2003年、桜が満開の芦屋川である。画面中央左より、山の中腹に積木を重ねたような白い建物が見える。重要文化財、旧山邑邸である。巨匠フランク・ロイド・ライトの手になる、邸宅建築の傑作として知られる。


上:芦屋川が山麓から扇状地に出るところの堰堤。御影石を積み上げてある。昭和初期、半身大水害の直後に作られたものだろう。


上:芦屋川から旧山邑邸(ヨドコウ迎賓館)を見上げる。


上:同じく。四季折々美しいが、櫻の時期はまた格別である。


上:芦屋川天井川であることがよく判る写真。川の下を国鉄東海道本線が走っている。芦屋仏教会館屋上にて撮影。


上:芦屋仏教会館にて。左手の塔屋が階段。正面妻壁が見えている。

上:芦屋仏教会館、階段途中の丸窓。


上:芦屋仏教会館、二階ギャラリー部分から本堂を見下ろす。教会のようなつくりである。


 

左:ギャラリー席。後ろのほうは物置と化していた。
右:よって雑然と詰まれた諸々の間から、かろうじて見えるステンドグラス。教会なら薔薇窓に当たる位置である。


 

左:2003年撮影の外観写真がなかったので、これは2004年春に撮影した芦屋仏教会館。昭和2(1927)年に片岡設計事務所の設計で建てられたとあるので、辰野・片岡設計事務所の後進だろう。
右:2003年春撮影の、芦屋カトリック教会。見事なゴシック様式だが、実は戦後の建物である。住友臨時建築部出身の巨匠、長谷部鋭吉の手になり、1953年に竣工している。長谷部は更に十年後、遺作として大阪カテドラル聖マリア大聖堂を設計している。こちらはもはや戦前建築と見紛うことはないので、日本の様式建築としては恐らくその掉尾を飾るものといえよう。


 

左:これも櫻の時期だが、2004年の撮影。
右:同じく2004年、裏側から撮影した芦屋カトリック教会。


 

左:以下、また2003年の撮影で、芦屋警察署旧庁舎正面玄関の要石。梟の彫刻が施されている。芦屋署は建替えに当り、旧庁舎の一部を保存している。
右:旧庁舎玄関扉。現在この玄関は使われていないのがもったいない。ステンドグラスが清楚で、警察とは思えない華やかさである。1927年、兵庫県営繕課の設計で建てられている。


 

左:地階の鉄格子が美しい、芦屋署の外壁。
右:これは2004年初に撮影した、芦屋署玄関の天井装飾。


上:2004年の雨の日に撮影した、芦屋署保存部分全景。左側、高さの違う部分が新庁舎である。


上:2003年撮影。真っ暗でひどい写真だが、日本一の高級住宅街芦屋でも屈指の邸宅街である平田町(芦屋川河口部右岸一帯)の旧旧阿部邸(サンアール不動産芦屋寮。設計は松井貴太郎である。芦屋も西宮も、「山手がお屋敷街で浜手が下町」という法則は当てはまらず、むしろ浜手に平田町、打出浜町、浜甲子園、香枦園など錚々たる邸宅街が連なっている。


 

上:これは2004年撮影の阿部邸。午前中に撮らないとこの角度はうまく撮れないようだ。

上:正門から見た旧阿部邸。以降阿部邸は2004年撮影分。


上:傾いてひどい写真だが、これも同じ位置から。


上:旧阿部邸西側。こちらが正面である。


上:旧阿部邸。やや南よりからみる。


上:これも平田町の洋館。平田町の有閑階級を描いた田中康夫の小説に、その名もずばり「芦屋市平田町」という作品がある。


 

左:平田町の邸宅の塀と土蔵。
右:平田町、芦屋川沿いの洋館。チューダー・ゴシック様式だが、恐らく平成になってからの建物である。


上:これは平田町とは対岸、芦屋川左岸にあるモダニズムスタイルの洋館。


上:同じく芦屋川左岸の住宅。ガレージの門扉に富士山と甲山のような装飾があった。既製品ではあるまい。


 

左:2004年4月3日芦屋市立美術博物館にて開かれた阪神間倶楽部にて。アンリ・シャルパンティエに特注した石垣風ケーキである。
右:同館の庭に復元されている、洋画家小出楢重アトリエ


上:芦屋川左岸にて。1970年前後に建てられたと思しき小さなマンション。マンションが珍しく、ハイソなものだった時代に建てられたのだろう。

上:芦屋川左岸に、洋館風土蔵があった。


上:玄関上部のアーチと装飾。見事なものであった。


上:国鉄芦屋駅東側の跨線橋。戦前のものだろう。


上:阪神電車に多い橋上駅の一つ、阪神芦屋駅。柱の装飾がユニークである。


上:同じ部分のアップ。ウンコかソフトクリームのようである。


上:芦屋川、2004年春の櫻。遠景はルナホールである。


上:同じく。仏教会館が見える。


上:2003年撮影の、阪神電車香枦園駅。高架化までは明治の開通以来の駅舎が残る唯一の駅であった。これは旧駅名板。


 

左:2003年春撮影の、夙川カトリック教会聖テレジア大聖堂。2003年の写真はこれで最後。
右:ほぼ同じところから撮影した同教会。2004年春である。1932(昭和7)年4月17日献堂。設計は梅本省三で、見事なネオ・ゴシック様式の大伽藍である。1945年6月から1965年までカトリック旧大阪司教区(1969年より大司教区に昇格)の臨時司教座だったので、「大聖堂」の格式を持っている。キリスト教会において、「大聖堂」とは単に「大きな教会」という意味ではなく、教区全体を統括する高位聖職者=司教、大司教、主教、大主教の聖座がある教会、ということである。カテドラルも同じ。


上:玄関の華麗な天井装飾。


 

左:真正面から。カメラを構えているのは一緒に行ったまおび(ミクシィではのび太)さん。コレギウム・ムジクム・テレマンのコンサートであった。
右:コンサート後、夕日に映える鐘楼。カリヨンが備えられている。

 

左:我々プロテスタントにはあり得ないことだが、カトリック教会にはこのように偶像が置かれている。
右:コンサートが終わって、聴衆が続々と出て行っているところ。光が強すぎて白く飛んでいるが、祭壇の窓はステンドグラスで美しい。繊細なシャンデリアにも注目。


 

左:天井のシャンデリアのアップ。
右:壁の照明。


 

左・右:内陣のステンドグラス。


上:ポジティフオルガン、チェンバロが置かれたコンサート直後の内陣。


 

左:カテドラルクラスの教会でしか見られない説教台。今は使われていないようだ。
右:クワイアギャラリーを見る。下、扉が開け放たれているのが正面玄関である。阪神・淡路大震災では、クワイアギャラリーからパイプオルガンが落下するという大きな被害が出ている。


上:バブルと震災を経て、夙川、苦楽園、甲陽園地区も随分街並みが変わってしまった。この写真は甲陽園地区に唯一残る洋館、サン電器商会。


上:営業休止直前の「播半」。甲陽園地区にはかつて「甲陽園つる家」とこの「播半」と至近距離に二軒の超一流料亭があったのだが、「つる家」はバブル期に数奇屋の建物を田舎の温泉旅館のようなぎらぎらで悪趣味なビルに建替えたのが祟って本店を閉め、現在は千里阪急ホテルでのみ細々と営業している。それに対して「播半」は健在なので安心していたら、去年2005年の6月に急遽店を閉めてしまったのだ。買収した潟Nインランドは「播半」の商号も含めて買収しており、建物の価値を生かして活用したいといっているそうではあるが、どうなることやら……。僕の実家から歩いてすぐのところだし、何とか復活して欲しいものだ。


茅葺、逆さ瓢箪の門灯も数奇な「播半」の門。


上:竜宮城のような「播半」の離れ。2004年撮影分、西宮市の写真はここまで。

 

左:この章では芦屋、西宮の豪邸街ばかり巡ってきたが、ここからは阪神間の下町、尼崎である。まずは三和商店街から。阪神電車の尼崎駅と出屋敷駅の間、国道二号線と阪神電車の間のエリアには、三和商店街を縦軸に、尼崎中央商店街を横軸に、非常に広大な下町の庶民的な市場、商店街が広がっていて、僕らの子供の頃、よく母や祖母と一緒に、阪神電車の本線や路面電車に乗って、武庫川を渡って買い物に行ったものである。僕の最も古い記憶は一歳半の頃、この三和商店街で迷子になって、交番に連れて行かれた、というものなのだ。とても懐かしいところで、今でも当時の雰囲気がかなり残っている。写真のこの食堂も、大衆食堂の王道といった風格である。
右:文房具屋の店頭にて。


 

左:三和商店街のメインストリートから分岐するミニアーケード。震災後行き止まりになってしまったらしい。
右:尼崎中央商店街のアーケードに吊るされていたロボット。今はない。


 

左:阪神尼崎駅のすぐ南側で見つけた、雀荘の看板。「健全娯楽」の文字が楽しい。
右:国道二号線の難波バス停からちょっと北に入ったところにある、渋い整骨院。電話番号が三桁、交換手を通していた時代のものだ。


上:何を隠そう、僕が生れた産院。もう廃業されてしまったようだ。僕は根っからの西宮市民だが、生れた産院は尼崎なのだ。


 

左:場所が行ったり来たりするが、これも阪神尼崎駅すぐ南の風情のある路地。このすぐ近所に「廃墟篇・其ノ弐」で紹介している旧米沢病院、そして「独木舟」という文学喫茶店がある。
右:同じ路地で見つけた、笠付裸電球。


上:阪神出屋敷駅北側広場前にあった、大衆演芸場。2005年頃に取り壊された。


上:阪神出屋敷駅北側に残る、古風なアーケード。しかしこの道、都市計画道路で東側(右側)へ拡幅するらしく、右側に大量にある下町商店群が軒並み閉店、破壊を待っている。このアーケードも風前の灯である。


 

左:上のアーケードからわずかに脇道に入ったところの薬局。従って破壊は免れるだろう。モダンな全面硝子窓は1950年頃の建物か? 恐らく戦災を受けているエリアなので、戦前のものではなかろう。
右:敗戦直後の雰囲気が残る出屋敷駅前商店街。屋根も古風だが、道路拡幅ですべて破壊される模様。


上:同じ商店街にて。三洋、ナショナルともロゴが懐かしい。1970年代の看板だろう。


 

左:出屋敷線の西側歩道は屋根がない。一部屋だけの二階だろうか?
右:ところどころ、舗装もされていない路地が残る。

上:出屋敷線と三和商店街の間、二号線の少し南側に残っている、木造三階建てのバラック建築。恐らく元の赤線地帯の名残だと思われる。


上:外側はこんな感じ。一階は小さなスタンドバーで、二階以上は現在は住居だが、赤線時代は営業用の小部屋だったのだろう。


 

左:建物は角に面して正面玄関を開口している。「スタンドセンター」「暴力追放」「いらっしゃいませ」なども文字がかすれて残っている。
右:玄関に入ると、トンネルのような通路が裏庭まで通じている。


 

左・右:裏庭側から見た三階赤線。店舗と住居が混在している現況。「クロンボ」という屋号が時代を感じさせる。


上:震災ご修復したのか、かなり改装されているが立派な玄関を備えた長屋があった。昭和の初めだろう。


上:いきなり場所が飛ぶが、国鉄宝塚駅。これは2004年の撮影だから、あの大列車事故以前のものである。2005年の悲惨な脱線事故は、この国鉄福知山線(宝塚線)の塚口駅〜尼崎駅間で起こったのだ。駅ビル内にデパートやホテルも入っている巨大な阪急宝塚駅と国道176号線を挟んで向き合っている国鉄の駅は、かように可愛らしい駅舎である。恐らく昭和二桁戦前期の建物だろう。


上:しかし国鉄にも阪急にも乗らず、僕は阪神バスに乗って杭瀬に向かった。現在の県道尼寳線は阪神電鉄が阪急電鉄に対抗し、尼崎と宝塚を結ぶ路線を作ろうとした名残なのだ。よって今でも阪神バスの路線が、甲子園、尼崎、杭瀬などと宝塚を結んでいる。ということで、これは杭瀬の商店街。戦後とはいえ築五十年程度は経過した古い鉄筋のビルがいい味わいに寂びてきている。ここの商店街と市場も下町テイストでとても安く、賑やか。


上:杭瀬の街並み。もう廃業した商店建築。小さいながらも食堂だったようだ。置いてある看板もカッティングシートやプリントシートではない、手描きのちゃんとしたものである。


 

左:未舗装の路地にはなんと井戸!!!!! 21世紀に入ってからの光景である。
右:第二阪神国道に沿いながら、なぜか裏路地のほうに立派な玄関を開く古風なお風呂屋さんがあった。


上:同じ銭湯の唐破風のアップ。門柱まである。

上:前ページの公衆浴場の入口上部の飾り。


 

左:同じ銭湯の煙突を国道側から見る。
右:国道の歩道橋から見た、実に不思議な建物。中はどうなってるのだろう? この二階、せいぜい畳一畳程度の広さしかなかろうし、階段もあり得ない。梯子だろうか?


上:杭瀬地区、国道二号線より南側も基本的には下町で文化住宅や長屋が並んでいるのだが、一軒ものすごい大邸宅があり、邸内には昭和初期と思しき洋館も建っていた。


上:同じ邸宅。長屋門は小ぶりであった。一族何世帯もが敷地内に家を建てているようだ。


上:なかなか洋館を撮れるところがなく、これは隣接する文化住宅の外階段より。


上:阪神間雑記2004年撮影分の最後は、池田市である。この豪壮な長屋門は阪急グループの創始者として名高い逸翁・小林一三翁の旧邸“雅俗山荘”で、現在は逸翁美術館となっている。


上:純和風の門を入ると、チューダー・ゴシック様式の雅俗山荘本館が見えてくる。竣工は1937年。玄関は西面している。


 

左:雅俗山荘南面を庭園から見る。
右:洋室の出窓。


上:これも池田市。アーケードが取っ払われてよく見えるようになった、栄本町商店街の河村商店である。元々は辰野片岡建築事務所の設計になる加島銀行池田支店で、1918(大正7)年の竣工。これほど立派な銀行建築が商店となって生き残っている例は珍しい。


 

左:その並びの古い事務所建築。戦前物件だろう。
右:界隈で見つけた岡崎牧場特撰HOMO牛乳の木箱。電話番号が市内局番なしの時代のものである。

 

左:池田市中心部の商店街には、時折このように戦前物件が現存している。(但し撮影は2004年)
右:道路拡幅用地にかかっていたので今はどうなっているか(´・ω・`)。銅張りの立派な商家の軒先を建て増しして作られた喫茶お好み焼屋。


 

左:池田の銘酒、「暮春」の酒蔵に、右書きの琺瑯看板が現役であった。
右:商店街にて、「婦人服地と仕立」のキリンヤの看板。こちらは昭和でいう三十年代ぐらいか? 琺瑯ではなくブリキなので既に相当劣化している。


左:阪急電車宝塚本線の高架をくぐって南側に出ると、室町住宅地がある。「阪神間ブランド住宅地群」の元祖といえる、明治期に小林一三によって開発された、当時の新興住宅地である。明治維新後四十年ほどを経過し、それまでの上層階級=有産階級という図式からはみ出した、大学を卒業して都市で企業や官庁に勤める新しい階級=無産中流階級が勃興してきた。彼らのために、新たなる居住地として「郊外」が開発され、当時の新興住宅地が今では日本有数の高級住宅地群である「阪神間」となっているのだ。なお、室町住宅地は、同じく小林一三が開発した田園調布とともに、町内会が社団法人として法人格を持っていることでも知られている。


上:室町地区は明治末、開発当初の町割を残し、このように当時からの住宅が多数現存している、街並みとしても極めて貴重なエリアである。


 

左・右:日が沈んだのでひどい写真になっているが、いずれも室町地区の景観。


上:当時の流行を反映して、数奇屋建築に洋館を併設した住宅が多い。


上:室町のお屋敷街を一歩出たところにあった公衆浴場、池田温泉。当時既に廃業していたので、現存するかどうかは不明である。以上池田分も2004年撮影。


上:第63章の最後に、2002年6月16日に撮影した伊丹の写真を少々。これは重要文化財岡田家住宅。延宝2年(1674年)に建てられた町家と酒蔵である。


上:同じく岡田家住宅。古い町並みが残っているエリアだが、不細工なマンションもある。


 

左・右:界隈にはこのように洋館造りの商家や町家が現存している。


上:ユニークな屋根を持つ洋館造りの店舗兼住宅だが、既に空家となっている。再活用が望まれる。

トップに戻る