骨董建築写真館 甲子園界隈・下篇
骨董建築写真館

甲子園界隈・下篇

左:南甲子園ニ丁目で見つけた、昭和初期らしい洋館風の住宅。写真では判りにくいが、二階の木製手すりの彫刻が美しい。
右:同じ家の門から玄関を望む。三角屋根の一階部分は恐らく天井に漆喰レリーフのある洋間であろう。玄関の柱がタイル貼りなのも嬉しい。

甲子園篇のラストは、僕の母校西宮市立南甲子園小学校の校区を歩いた。甲子園地区の南西部、阪神電車より南、海岸に至るエリアである。甲子園浜は僕が生まれるほんの数年前に遊泳禁止となるまでは白砂青松の海水浴場だったそうで、僕が幼少の砌はまだまだ古いお屋敷街の様相が色濃く残る静かな住宅地であった。しかし山手より地価が高い分環境の破壊がひどく、現在では一軒のお屋敷の跡がひどいところでは十数筆ほどにも細分化され一軒二十坪に満たないマッチ箱のような建売住宅に化けてしまったり、マンションなどに変わってしまっているところが非常に多い。震災の被害も阪神本線北側よりひどかったようだ。ということで懐かしの街を散策してみると、かつて目を楽しませてくれた古い住宅が殆ど消えてしまっており、愕然とさせられる。その中で辛うじて残っている数軒の写真を紹介したい。



上左:浜甲子園三丁目、校区でも一、二の豪邸であるI邸二階丸窓のステンドグラス。判りにくいが、一階玄関の天窓もステンドグラスである。
上右:そのすぐ南隣にも、玄関向かって右側に三角屋根の洋館を付設した大正〜昭和初期の典型的郊外住宅が残っている。
下:I邸全景。

左:通称「住友の時計台」。僕にとって物心つく前から毎日みていた時計台である。恐らく1950〜1960年代前半の建物であろう。甲子園一帯は矢鱈と社宅、寮などの多いところで、中でも殊のほか住友関係の建物が多い。泉屋=住友の本店が大阪であり、住友男爵本家の土地が阪神間のあちこちにあったことと関係しているようだ。ここは南甲子園小学校の南側、海岸にいたるまで広大な敷地を有していた住友銀行の大運動場の中央棟である。毎年一度、住友銀行の巨大な運動会が開かれていたが、時流には逆らえず運動場は売却され、現在はこの中央棟のみが研修センターとして残っている。
右:変わり果てた姿となった甲子園浜。高度成長期に埋め立ててコンビナートとする愚かな計画が打ち出され、さすがにそうはならなかったものの、結局沖合いは埋め立てられて阪神高速湾岸線が通るようになってしまった。子供頃打ち寄せる波と戯れた浜は、今では埋立地と本土の間の運河のようである・・・・・・。これでも大阪湾唯一の自然海浜だというのが哀しい。

左:甲子園浜連絡橋の下から西宮港甲子園地区、そして六甲連山を望む。
右:甲子園海浜公園で3on3に興じる高校生達。もう少し近づいて撮ればよかった・・・・・・。

ここからは番外編。甲子園地区の西側に隣接して、今津地区がある。市内最大の下町で、大震災で激甚な被害を被った地区ではあるが今でも活気のある庶民的な市場があり、浜手は工場街、中でも造り酒屋が多い。灘の生一本で知られる灘五郷の一つ、今津郷なのだ。震災前までは黒壁の木造酒蔵や赤煉瓦の酒蔵も多かった。掘割式の古い港である今津港は、かつては江戸に下る菱垣廻船や樽廻船で賑わったそうである。

左:西宮市指定文化財今津燈台。1810年(文化七年)に大坂屋(現大関酒造)五代目長部長兵衛により建立された燈台である。安政年間に同家七代文治郎(以降同家は代々文治郎を襲名しているらしい)により改修されるなど長部家によって維持されたきた燈台で、今も現役として海図に載っている。
右:今津燈台から真っ直ぐ海に伸びる防波堤の突端より、港を望む。左側すぐに東川の河口があるので、港の入口に土砂が入るのを防ぐ役割もあるようだ。

左:現在はプレジャーボートの専用港と化している今津港であるが、実際に貨物船が出入りしていた頃の木造起重機が二基残っており、ヨットやクルーザーを港に上げるのに活躍している。
右:銘板。昭和32年、大坂正和製作所の文字が見える。

左:起重機本体。
中:高校の制服姿で東川の堤防を歩く真一少年。
右:阪神今津駅前商店街で見つけた「あやかり虎虎殿」。タイガース優勝祈願と書いてある。

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