骨董建築写真館 廃墟篇・其ノ弐
骨董建築写真館

廃墟篇・其ノ弐


この章では「廃墟篇・其ノ壱」以降撮影した写真で構成する。よって撮影年度は2002年から2004年にかけてとなるので、廃墟だけに現存しないものもるかと思われる。その点御了承願いたい。

上:京都市下京区、旧赤線地帯である五條楽園にて。既に更地になった旧娼舘址から、崩れそうな旧娼舘が見える。


 

左:大分県別府市、八幡朝見神社近くの閑静な住宅地にて、門柱のみ残る空地があった。共同管理人風太が幼少期を過ごした街で、彼はここに住んでいたおばあさんを知っているそうである。
右:香川県高松市、旧県営桟橋。1927(昭和2)年に建てられた立派な建物だが、この写真を撮った2002年夏も、このページを作っている2004年春も、廃墟のまま放置されている。何とかリノベーションされることを願うばかりである。


  

左:高松県営桟橋。このように裏手はすぐに波止場である。
中:県営桟橋の柱頭装飾。
右:県営桟橋内部。円柱の柱頭装飾が外部と同じ様式でまとめられている。


  

上三点:京都市東山区、東山三條の近くに存在していた廃墟医院。


 

左・右:阪神・淡路大震災で大破して以来、2004年初めまで神戸の都心にあって廃墟のままに放置されていた第一グランドホテル。神戸市旧生田区の東門街である。

上:前面道路である東門街が狭いので全景写真は難しいが、第一グランドホテルを見上げる。クロス状に破断しているのがよく判る。


 

左:旧赤線、飛田新地にある登録有形文化財「鯛よし百番」と棟続きの旧娼舘「一歩」の裏側。既にガラスが割れているが、2004年春には更に軒が崩れ始めている。
右:西成区山王地区、阿倍野区と西成区の区境、つまり上町台地の崖線のすぐ下に建つ壮絶な雰囲気のアパート。撮影時(2002年夏)にはまだ住人がいた模様である。


 

左:阪神尼崎駅すぐ南側にある、旧米澤病院。現在では裏手に米澤医院が建てられそちらで開業しており、閉鎖されほとんど使用されていないという意味では廃墟に分類されるが、オーナーが見識を持ってきちんと保存しておられるので、廃墟と呼ぶのはためらわれることも確かである。内部には戦前の産婦人科の器具なども保存され、映画「岸和田少年愚連隊」のロケで使われたこともあるとのこと。参照⇒<増補>
右:米澤病院は庄下川に面する東側が正面である。正面北側には元の待合室であろうか、かわいらしいアーチ窓が並んでいる。南側の前面ガラス張りの部屋が診察室と思われる。


 

左:庄下川の堤防から正面ファサードを撮影。
右:北側は空地となっている。かつては別棟があったのか? 北壁は元はどうだったのか不明だが、きちんと補修されている。以上の米澤病院は2002年夏の撮影。


上:2004年3月の撮影。夕闇迫る時刻に撮影したので、ますますよい雰囲気である。

  

左・中・右:いずれも夕暮の米澤病院。


  

左・中・右:上の三点と同じような角度から撮った昼間の写真。夜の写真は2004年3月、日中の写真は2002年夏の撮影である。


上:大分県別府市の中心軸、流川通にあった廃墟。とてもいい雰囲気だったが、近年取り壊された模様。




 

左:別府市の中心部、駅前高等温泉の裏手の路地裏で見つけた廃墟。端っこに少しだけ写ってるのはアキ少年である。
右:別府市の中心部、昭和レトロな商店街に放置されていたジュークボックス。


 

左:別府の流川通。JR日豊本線のガードのすぐ山側にある、廃墟と化した数奇屋建築。元は旅館か?
右:同じ建物。裏手に回って撮影。

 

左・右:同じ旅館。このようにかなり広い敷地に数棟の廃墟が建っている。


 

左:別府、鐵輪温泉郷の旧別府国際秘宝館。つぶれたわけではなくすぐ近くに移転していたのだが、何とも安っぽい西洋風お城物件でいい感じに脱力できる。
右:廃墟ではないが、結構恐ろしげな光景である。別府、鐵輪の山地獄にて。立っているのは共同管理人の風太。


 

左:同じところでお得意のポーズの伯爵閣下。(風太撮影)
右:これも別府・鐵輪温泉にて。廃墟というか、再生工事中の元廃墟。2003年の撮影なので、これを書いている2004年4月現在ではもう復活して営業を始めていると思われる。冨士家旅館である。


 

左・右:これも鐵輪にて。空地に面して廃墟が二棟並んでゐた。

 

左・右:前ページの鐵輪温泉所在の廃墟の壁に残された、戦前のポスター。五十年以上も前のポスターが外壁に未だに残っているなど奇蹟である。左のものはほぼ判読できる。右は紙は殆ど残っておらず痕跡のみだが、性病薬の宣伝らしきことが微かに判読できる。


 

左:これも別府市。田の湯町にある年季の入った洋館。一応まだ現役のようだが、痛みが激しい。いくら古色を愛する伯爵でも、これはもう少し補修して、末永く現役で使い続けて欲しいと思う。
右:ここから大阪市内である。北区天神橋六丁目に近い、とある廃アパート。倉庫としてはまだ現役のようである。


 

左・右:同じアパートの玄関付近。丸窓がお洒落である。昭和初期の建築だろう。天六阪○アパートという旧称だったらしい。


 

左:浪速区、新世界のジャンジャン横丁にある廃墟。古地図から察するに、「新世界温泉劇場」という映画館の址のようだ。
右:ジャンジャン横丁を抜け、国道四十三号線を渡り、西成区山王地区に入る。じゃりン子チエ的ないい雰囲気の下町の中にある、曖昧宿「旅館明樂」。営業しているのかどうかも曖昧である。

 

左:旅館明楽、一階角の硝子看板。この旧漢字、恐らく戦前だろう。
右:明楽の看板と丸窓。微かに赤い温泉マークが残っている。


 

左:明楽の壁にあった、古風な人造大理石の流し台。
右:南海天王寺支線の跡。道路が低くなっているのはガードの下をくぐっていた名残である。左の壁、台形の古いコンクリートの部分が鉄道の道床で、かつては天下茶屋駅から分岐する支線が国鉄天王寺駅に乗り入れていたのだ。天王寺駅は大阪駅を凌ぐ大阪最大の駅で、19番線と20番線が南海のホームであった。今の天王寺駅は南海専用線の跡に新駅ビルMIOが建ち、18番線までしかない。なお、南海は関西の大手私鉄では珍しく国際標準ゲージではなくJRと同じ狭軌なので、JRの駅に乗り入れていてもあまり違和感がなかった。もっとも、何がなんでも絶対に国鉄とターミナルを共用しない(殆どの場合駅名すら異なる)のが関西私鉄の気概であり伝統であり特徴である中、関東私鉄のように卑屈に国鉄に乗り入れる大手私鉄の姿は極めて異質ではあったが。


上:大阪市旧南区、黒門市場の近くにて見つけた、鉄筋のビルにへばりつくような形で傾きながら辛うじて建っているパン屋。もう久しく営業していない様子である。


 

左・右:神戸市旧生田区北野町の異人館街にて。恐らく昭和三十年代前半までに建てられたであろう、関西語で言うところの「文化住宅」が廃墟然として残っている。まだわずかながら人が住んでいるようなので、現役のアパートである。

上:上二枚と同じ文化住宅の裏庭を、裏手の崖上から見下ろす。このように洗濯物が干されていることで、辛うじて廃墟ではないことが判別できる。

トップに戻る