二千八年関東下向記](横浜松坂屋最終日)



 

左:客用階段として使われているのはほぼこの主階段だけ、となっていた。擬石製である。
右:オリジナルかどうか、建物の雰囲気によく合っていた。



 

左:同じく。
右:主階段の壁面に、昔の写真が多数掲示されていた。



 

 

 

上六枚:撮影順に載せたので順番がばらばらだが、以上「思い出の中のイセザキ」。



 

左:混み合う店内。
右:ノブのみ交換されているが、古い扉。



 

左・右:内側から見たアーチ窓。



 

左:オリジナルの天井の下に配線、配管が通され、装飾が見えなくなっている。
右:オリジナルの装飾が見える部分。



 

左・右:天井の漆喰装飾。



 

左:絢爛たる装飾があってもよさそうなのだが、主階段はこのようにシンプルであった。後世の改装でこうなったのかもしれない。
右:六階は料理学校などが入っていた。



 

左:同じく六階。野澤屋時代のポスター展が開かれていた。僕が生まれる前年のポスターである。
右:年が書かれていないものが多かった。まぁポスターだから仕方ない。



 

左・右:折り込み広告やパンフレットなどもあった。



 

左・右:これらもチラシである。



 

左:70年代と思しきポスター。野澤屋は1974年にノザワ松坂屋となり入九マークが消え、、更に1977年に横浜松坂屋となっている。77年といえば僕が毎日ほぼ隅々まで新聞を読むようになった年なのだが、このことは記憶にない。名古屋のオリエンタル中村百貨店が名古屋三越になった記事は記憶にあるのだが、それは80年のことである。
右:恐らくこの少年、僕と同世代、ちょっと年上ぐらいだろう。



 

左:これも僕が生まれた頃のポスター。
右:屋上には見事に何もなく、デパートの屋上らしい要素皆無であった。普段は殆ど誰もいなかっただろう。



 

左:無名時代ゲイポルノに出演していたことで有名な「ゆず」の壁画。なぜこんなものがあるかというと、彼らは松坂屋前で路上ライブしていたらしい。どうでもいい話である。
右:屋上の煙突。古いビルにはつきものである。



 

左:この日ばかりは名残を惜しむ人々で賑わっていた。
右:なぜだかこういう壁画も。



 

左:屋上から見た、旧松屋横浜店。1977年より横浜松坂屋の別館となっていた訳だが、直接隣接するわけではなく間に別のビルを挟んでいるので連絡橋を架ける訳にもいかず、別館としては使い勝手が悪かったと思われる。それにしても耐震補強だろうか、窓から沢山の筋交いが見える。
右:同じく、旧松屋と伊勢佐木町通、そしてアントニン・レーモンドの作品である不二家。



 

左:屋上から駅のほう(東北側)を見ると、1928年竣工の伊勢ビルが見える。
右:一応客用階段なのだが、殆ど放置されていて廃墟感すら漂っていた南西側階段。



 

左・右:同じ階段。屋上から下を見たところ。



 

左・右:屋上光景。



 

左・右:塔屋も連続アーチ窓を持っていた。



 

左・右:屋上のお稲荷さん。伏見稲荷大社の分祀ではなく豊川稲荷=曹洞宗妙厳寺の分祀なので、仏式で参拝するのが正しいらしい。



 

左:小さな祠である。
右:写真を撮っている人がすごく多い。



 

左:屋上から主階段への出入り口。
右:当日、十月だというのにこのような簡易団扇が配られていた。こちらは松坂屋の紋章。



 

左:裏返すと、旧野澤屋の商標で、これを懐かしがっている年配の人が大勢いた。
右:主階段。



 

左・右:主階段踊り場に、古風な水飲み用水道があった。



 

左:物悲しいポスター。
右:ペット売場で出会った、物凄く可愛い仔猫。この子も寂しそうな顔をしていた。



 

左・右:階段の床は、壁とは少し違う擬石であった。



 

左・右:大食堂といえば、かつてはデパートの花形であった。



 

左:すっかり暗くなった屋上。テレビや新聞社など、マスコミの取材がすごかった。
右:地下食料品売場はスーパーみたいだった。



 

左:ライトアップされた夜のファサード。
右:こちらはライトアップされた旧松屋(エクセル伊勢佐木町)。かつては松屋と野澤屋が伊勢佐木町で覇を競う二大百貨店だったわけだ。



 

左:賑わう松坂屋附近の伊勢佐木町。
右:実に端正なファサードである。



 

左:神戸の元町は西端の三越が消滅して久しいが、東端の大丸は神戸の地域一番店として繁栄している。デパートが二つとも消滅してしまった伊勢佐木町の未来は極めて暗いというほかはない。
右:松坂屋前、異様な熱気に包まれつつあった。



 

左:続々群衆が押し寄せる横浜松坂屋。
右:このように、「株式会社横浜松坂屋」なのである。



 

左:このように横浜市認定歴史的建造物となっている。
右:閉店に伴う告知がいくつか張り出されていた。



 

左・右:読んでいて非常に物悲しい気分にさせられる。全くのよそ者である僕ですらそうなのだから、地元の人にとっては大変悲しい出来事であろう。



 

左:同じく。
右:店内の飲食店案内。小さなデパートなので、それほど沢山はなかったようだ。



 

いよいよ閉店間際。名残を惜しむ人々で立錐の余地もなくなってきた。



 

左:最後に社長以下幹部社員が登場、お別れの挨拶があった。
右:取材陣の数も半端ではない。



 

左・右:ついに144年の歴史に終止符を打つ時がきた。シャッターが下りる。内部では泣いている店員さんも数多。こうして古きよきもの、伝統あるものが次々に失われ、森ビルだの楽天だのオリックスだの、下品極まりない邪悪な政商ばかり蔓延るというのが今の日本である。



 

左:不二家のビルはライトアップされていない。
右:伊勢ビルも同じく。1928年竣工、設計は復興建築助成株式会社である。



 

左:伊勢ビル側面ファサード。
右:この小さなビルも古そうである。



 

左:横浜でラ・リュミエール女史と合流、東急電車東横線、目黒線を乗り継いで武蔵小山へ。僕が定期的にトークライブをすることになったライブカフェ「アゲイン」の下見である。パルム商店街は下町テイストのアーケード街でいい雰囲気だった。なお、たかだか総延長750メートルに過ぎないこの商店街を「日本一」と記載しているサイトを発見、失笑してしまった。天神橋筋商店街は三キロ近いし、鶴見橋筋商店街も一キロはあるのだ。
右:怖い防犯ポスター。



 

左:その夜は武蔵浦和の龍丸邸に宿泊。孫のみぃあ姫と再会した。悪さをしようとして捕まえられたところww。
右:さすがちはる姫の娘だけあって、大変な美人である。



 

左:そして伯爵の膝で甘えるみぃあ。
右:このときの関東下向の写真は以上。これは帰り道で撮影した浜名湖である。



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