弐千拾年關東下向記]



 

左・右:前章に引き続き、2010年4月の東下り旅行記である。ここから4月19日となる。この日は毎日新聞糸瓜句会の句友である横田虎木瓜氏と丸の内でランチのあと、一人で八重洲をうろうろした。これは東京建物ビルヂングの裏側。1929年の竣工で、設計は阿部美樹志



 

左・右:東京建物ビルの正面ファサード。ロマネスク風アーチが連なっている。



 

左:東京建物ビルの表札。
右:八重洲の裏通、高島屋日本橋支店の近くで見つけた寺田ビル。昭和戦前期のものだろう。モダニズム色が濃いが、シンメトリー名ファサードを持ち、街路樹が邪魔だがアーチ状のパラペットがあった。



 

左・右:寺田ビル。



 

左:それから早稲田方面へ。なんと学帽専門店があった。さすがというほかないが、今でも需要があるのだろうか? そしてこの店は屋号はないのか(笑)?
右:早稲田界隈も看板建築が多い。



 

左:同じ看板建築の煙草屋を、正面から。街路樹が邪魔。
右:非常に残念な改装を施してしまった公衆浴場「松の湯」。リンク先の「早稲田インフォ」はものすごくセンスの悪い人間が作っているらしく、松の湯がレトロ風呂屋だとわかる説明もなければ、写真もひどい。



 

左:ものすごく残念な松の湯。どれだけセンスが悪いとこんなひどい改装が出来るのか。
右:松の湯の正面をズーミング。丸く、唐破風屋根の玄関の址がある。全く持って信じられない愚行である。こんな風呂屋は潰れてしまっても全く惜しくない。



 

左・右:素敵な看板建築が並んでいる。



 

左:このサイトでは二度目の登場、馬場口交叉点のなかなかにモダンな木造ビルヂング。
右:なんだか怪しげな求人貼紙。



 

左:洋館附設文化住宅があった。

右:更に歩くと、甘泉園公園に至った。普通に子供が遊んでいる児童公園の奥に大名庭園があって、しかも無料であった。因みにリンク先は楽天が作っているサイトである。楽天といえば車内公用語を英語にした「売国企業」なのだが(笑)、さすが日本語を捨てた会社だけあって無茶苦茶稚拙な日本語で書かれている。オーバーステイの不法移民にでも書かせてるのかと言いたくなるレベルである。外国語を習う前に、まず母語力を何とかせよと言うほかない。所詮、吹けば飛ぶようなネット虚業なんてそんなもんなんだろう。



 

左:甘泉園の説明板は古くないのに掠れていた。
右:日本庭園の門。



 

左・右:庭園に入るとこんな感じ。静かでよかった。



 

左・右:御三卿清水家の下屋敷が明治以降相馬子爵家となり、更に早稲田大学から新宿区と所有者が変遷したらしい。



 

左・右:手入れが行き届いており、なかなか気持ちがいい。



 

左:但し借景はひどい。あちこちにビルが見える。
右:東京はでこぼこした街なので、この庭園も斜面をうまく利用している。



 

左・右:池泉回遊式庭園なので、小径が多かった。



 

左:池はなかなかの規模だった。
右:斜面の上、かつては子爵邸の母屋があったと思しきところは水稲荷神社となっていた。



 

左・右:水稲荷神社は1963年にここに遷座したらしいが、建物はもっと古いものだ。移築したのだろう。



 

左:まだ四月なので、八重桜が咲いていた。
右:斜面の方を見ると、鬱蒼とした森のように見える。



 

左:水源の瀧。
右:そして早稲田から、路面電車に乗った。



 

左・右:夜、龍丸邸にて。みぃあ様である。



 

左:更に深夜。旧浦和市内にて。「キンバリー」ではなく「キンパリー」である。何語か?
右:同じく。皆で変な人と遊ぼう、という意味に取れるが。



 

左:普通の集合住宅だったのだが、訳の判らん、しかも黒御影石の大きな表札が出ていた。えふぴぃ一家という不動産屋らしい。
右:テレビでもやっていた、カメラを積み上げている謎のカメラ店。



 

左:同じお店。深夜なのだが、出しっぱなしらしい。
右:犬を連れてなければ誰でも入っていいらしい。



 

左:一日一本、平日のみ!!!!!! どんな過疎地のバスじゃwwwwwwwwwwww
右:そして4月20日、電車で鎌倉へ行った。これは鶴岡八幡宮入口のハイテックなステンレス燈籠。しかしやはり古いものであった。



 

左・右:源実朝暗殺現場の大銀杏。折れた直後だったが、既にいっぱい芽が出ていた。



 

左・右:そしてこの日の目的地、鎌倉投信株式会社本社へ。築八十四年の数奇屋風住宅である。



 

左:玄関前車寄せから庭へ入る門。非常に侘びた風情であった。
右:玄関のガラス欄間。



 

左:今では入手困難な模様入り硝子の使われた硝子障子。
右:美しい障子。



 

左:玄関の三和土は玉石の洗い出し仕上げであった。
右:座敷の床の間。



 

左:この部屋で社長とお話した。
右:非常に繊細な組み物。



 

左:縁側から庭が見える。
右:硝子障子の硝子は古いものであった。



 

左・右:長らく空き家だったお屋敷なので、庭のせせらぎも泥に埋まっていた。今、少しずつ掘り出して、玉砂利を洗い、再生が進んでいるところである。



 

左:中央付近が元の流れ。左の建物はお隣さんである。
右:すぐ裏が山なので、自然が豊かな庭であった。



 

左:うわ庭の畑。その奥はすぐに裏山である。
右:大きな井戸もあった。



 

左:装飾入りの井戸であった。
右:一枚板の大看板。



 

左:玄関前から門を見る。
右:玄関前、庭への門。



 

左:カビではないが、至るところ凝った造りであった。
右:座敷に飾られていた天豚。可愛い。



 

左・右:広くはないが、繊細な庭であった。これから更に美しくなるだろう。



 

左:鎌倉投信を辞したあと、雨の鎌倉を一人で散策した。
右:古い放浪看板があった。まだ川崎市が政令指定都市になる前のものである。



 

左:フクロウ小路という行き止まりの一角に入り込んだら、洋館が数軒あった。これは北脇家住宅。
右:これも下見板張り、手入れはいいが古い洋館である。三矢家住宅。



 

左:扉は変えられているが、北脇家の非常に洒落た玄関。
右:三矢家住宅。狭い路地なので、甚だ写真を撮りにくい。



 

左:北脇邸正面。大正後期ぐらいか? 大変美しい。
右:三矢家の門。



 

左:北脇邸前。とにかく道が細い。車が入っているのには驚かされる。
右:三矢邸細部。



 

左:三矢邸玄関。改装もあるのかそれほど古く見えないこの家にあって、この玄関はオリジナルをとどめているようでとても素敵であった。
右:昭和初期に建てられた提督の屋敷だという「ひさご亭」。豆腐料理屋なので絶対に入れない(>_<)。



 

左・右:北脇家住宅と三矢家住宅の間に、大量の古い石材やかわらの積み上げられている空き地があった。



 

左:町名は小町のようだが、この袋小路沿いは独自の町内会があるらしい。
右:このように、大量の瓦が。



 

左・右:このように、狭い路地の一番奥に結構広い空き地があって、そこに瓦や古い石材が大量に転がっているのだ。



 

左:ひさご亭。
右:洋風の門。



 

左:門柱の上には犬の瓦が。
右:フクロウ小路(袋小路とかけた洒落か?)の奥にあった、閉ざされた門。宝戒寺の裏門らしい。門に付けらた三つ鱗の紋章は北条氏のもの。この寺は北条氏の舘あとだそう。



 

左:裏門から覗いた宝戒寺。
右:フクロウ小路を一周してしまったので金澤街道に戻る。ちょっとフランク・ロイド・ライト調の洋館があった。新井家住宅である。



 

左:新井邸の門。
右:新井邸玄関附近。結構雨が激しく振っていた。



 

左:この装飾、明らかにライト的である。
右:そして可愛らしい洋館の写真館があった。「星野写真館」である。しかも、鎌倉にはもう一軒近代建築の「星野写真館」があるらしい。



 

左・右:いずれも星野写真館。これは素晴らしい。データ一切不明だが、昭和初期の看板洋館である。



 

左:写真館の玄関から、素敵な階段が見ている。
右:しかし、二階の窓は随分割れている。現役の建物なんだから、もう少し大切にして欲しい。



 

左:その真向いにあった新築洋館。「偽レトロ」としてはなかなかの水準である。
右:これも飾り瓦がある腰折れ屋根なので戦前の洋館かもしれないが、だとしても改装され過ぎで年代を特定しにくい。



 

左・右:今は普通の個人住宅らしいが、門前に「土佐坊昌俊邸址」の石碑が建っていた。



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