2009年関東下向記T



 

左:2009年最初の東下りは、松の内も明けないうちであった。この写真は1月10日、甲麓庵歌会第12回関東例会である。まずは浅草の雷門に集合であった。
右:雷門の脇に、結構立派な三階建ての近代和風建築があった。但しこの辺は空襲で丸焼けになったそうなので、古く見えるが戦後のものかもしれない。



 

左:東京のローカルデパート、松屋は本当にセンスが悪い。銀座の本店、浅草店の二店しかないのだが、その両方が戦前建築であるのにどちらもこのように外観を醜悪に改変してしまっているのだ。内部写真はこちら。高島屋難波本店と同じ久野節の設計で、1931年に建てられた。東武電車浅草駅を内包するターミナルデパートである。
右:大阪麦酒醸造所(朝日麦酒株式会社)の東京本社。巨匠フィリップ・スタルクの作品だが、「金のうんこ」として有名である。



 

左・右:今回の吟行の目玉は、隅田川の水上バスである。ということで、吾妻橋の船着場から早速乗り込んだ。



 

左:船内は二階建てになっていて、結構広い。トイレもある。一月に水上バスなんて寒そうといわれたが、もちろんちゃんと暖房も効いている。
右:「塔」の歌人豊島ゆきこ女史と、「玲瓏」の歌人城山達郎氏。



 

左:船内から見た「金の大便」。
右:そして出帆。中之島界隈同様、隅田川も近代土木構造物たる渋い橋が多い。



 

左・右:吾妻橋と水上バス埠頭。



 

左:動く船の中からなのでさすがにぶれたが、吾妻橋をくぐる。
右:吾妻橋を下流側から見る。



 

左:松本零次デザインの水上バス「ヒミコ」とすれ違う。
右:駒形橋はなかなかの名橋であった。



 

左:堤防が煉瓦積みである。それにしても、木偏に「キ」で「機」だなんて、今時滅多に見かけない略字であった。
右:厩橋。



 

左:蔵前橋。
右:「蔵前」に合わせてるのだろうか、この辺りの堤防は海鼠壁風に仕上げてあった。



 

左:一階席に下りると、水面がすれすれに見える。
右:水門が見える。



 

左:清洲橋はなかなか美しい。
右:面白いビルがあった。理由も説明してくれたのだが、忘れてしまった。「水上バス」とはいえ単なる「路線バス」ではなく「観光バス」的要素があり、ガイドさん付なのだ。



 

左・右:この橋も古めかしい。



 

左:これは確か松尾芭蕉像。
右:船用ガソリンスタンド。



 

左:聖路加タワー。基督教ミッションが大金持ちだけのための施設を作って儲けている(>_<)。
右:渋い料亭があった。「つきじ治作」である。



 

左:有名な跳ね橋、勝鬨橋。
右:勝鬨橋の真ん中。ここから左右に開くわけである。



 

左・右:美しいアーチ窓を持つ、石造のオペレーションルーム。



 

左:下流から勝鬨橋全景。
右:「水上」の文字が入っていない臨港消防署。



 

左:汐留のオフィス街と浜離宮庭園が見えてきた。この水門から入って、直接浜離宮の船着場に接岸する。
右:レインボーブリッジが見えた。亡国的な名前であるσ(^◇^;)。



 

左:汐留の波止場。停泊している船は河船ではない。
右:堤防越しに浜離宮の樹木、そして東京タワーが見える。



 

左:いざ、水門を通る。
右:水門を抜けると、浜離宮の岸が直接見える。堤防が作られる前は直接隅田川に面していたのである。



 

左:水門を振り返る。レインボーブリッジが見える。
右:そして浜離宮庭園に上陸。東京に残る唯一の現役汐入庭園である。つまり、庭園の池は直接隅田川(川といっても河口の汽水域)につながっていて、汐の干満によって水位が変化するのである。かつての江戸には隅田川沿いに多くの汐入庭園があったのだ。珍しいところでは、彦根の松原下屋敷(お浜御殿)庭園も琵琶湖とつながった庭園なのだが、そこも「汐入庭園」とされている。淡水だし、潮汐もないのだが(´・ω・`)。



 

左:庭園の沿革が書かれた説明看板。
右:正門の近くに社があった。但し、現在は都立庭園のため、御神体はなく、ただの「元神社だった建物」ということである。



 

左:えらく低い鳥居であった。
右:梅が綺麗だったが、庭園としての借景は最悪。超高層ビル群である。右端はジャン・ヌーヴェルの電通本社ビル。



 

左:梅の花。
右:堀の水を抜いて石垣の大改修中であった。全てに番号が振られているのが判る。ここに海水混じりの川水が満たされるわけだ。



 

左:外部からの狭い水路が、庭園内に入ると大きく広がっている。
右:庭園外の堀割からの水門。手前に工事用の土嚢が積まれて、それでも内側に滲みだす水を常時ポンプで排出していた。泡立っているのはそのせい。



 

左:石垣の補修工事が終われば、ここから船で出入りできるのだ。
右:この辺りもこれから修理するのか、番号が振られていた。



 

左:このように、水門から引き込まれる部分だけ幅が狭い。
右:すごい松があった。後姿はラ・リュミエールさんと洋子ちゃん。


 

 

左:工事用車輛が出入りするためだろう、無粋な鋼鈑が敷かれていた。
右:城門のような浜離宮正門。「離宮」で歌会なので、甲麓庵歌会は今回とうとう「宮殿に進出」したわけだ(笑)。



 

左:折角庭園内に直接上陸したのだが、一旦庭園を出て、築地場内市場へ。洋子ちゃんとラ・リュミエールさん、後ろに城山さんと豊島さん。
右:城門前の石橋も近代のものだった。



 

左・右:「メタボリズム」で有名な黒川紀章中銀カプセルタワービル。メタボリックシンドロームと語源は同じなわけだが(笑)、「メタボ」が中年太りの代名詞になるはるか以前の思想である。なお、物真似阪急は実際には交換可能なカプセルではないのに見てくれだけ真似た、その名も「メタボ阪急」という超笑えるビルを建てている。



 

左:浜離宮沿いの運河はプレジャーボートだらけであった。
右:そして築地場内へ。なかなか渋い戦後モダニズム建築が並んでいる。



 

左:卸売市場だが、それ以外に市場関係者用の商店も多く、そして食事目当ての観光客も非常に多い。僕らもそうである(笑)。ということで、一旦解散して各自場内の食堂へ。
右:このように各所に寿司屋などあって、どこも大変な賑わいだった。僕は何とか行列のない洋食屋に入ったが、なかなか美味しかった。但し関西人の感覚からすると、特に安いというわけではない。



 

左:「めっ」と言われるだけで済むらしい。
右:食堂街の裏側。ダクト群がすごい。



 

左:市場の入口にあった、めっちゃモダニズムなポリ小屋「中央市場交番」。
右:倉庫街を通って、再度離宮へ向かう。



 

左:関西ではあり得ない無茶苦茶な違法駐車。これには驚いた。何しろ首都高の出口である。
右:これが離宮入口の石橋。美しい橋である。



 

左:石垣を傷めるからだろうが、掘割沿いの木々は随分切られていた。
右:歌会会場である芳梅亭を裏から見たところ。土塀の上から屋根が少し見えている。



 

左:正面に回る。
右:ここで歌會を催した。離宮内ではあるが、結構侘びた佇まいである。



 

左:座敷に荷物を置いてから、庭園内を散策。
右:お茶も飲めるようになっている。



 

左:日本庭園の池としてはかなりでかい。汐入なので、全て汽水である。
右:実は円池の島も護岸の改修をしていたので、周りを土嚢でぐるりと囲んで、その内側は水が抜かれていた。泡立っているのはポンプのせい。



 

左:こんな感じ。情趣には欠けるが、これはこれで面白かった。
右:島の茶店もなかなかよい建物。銅葺である。



 

左:広大な庭園で、手入れも行き届いているが、借景は「ひどい」の一言。
右:橋の途中から中島を見る。土嚢で囲われているのが判る。建物はかなり池に張り出している。



 

左:橋の名前は「お伝い橋」。城山さん、ラ・リュミエールさん、豊島さん。
右:ほぼ同じアングルで。



 

左・右:庭園内にはヌコ様がたくさんあらしゃった。



 

左:庭園の外れから。この水面も本来は隅田川の一部なのだが、堤防が築かれたので川とは切り離され、このように何ヶ所かの水門で川とつながっている。遊覧船が繋留されていた。
右:同じ場所から角度を変えて。



 

左・右:とにかく広いので、一通り回るだけでもかなり時間がかかってしまった。



 

左・右:ここは単に散策、鑑賞のためだけに作られた庭園ではない。鴨猟の猟場だったので、その施設が保存復元されている。立っているのはラ・リュミエールさん。



 

左:池にまで高層ビルが映り込む。なんともはや。
右:ようやく芳梅亭が見えてきた。



 

右:更に近づいて。
右:芳梅亭は塀で囲われているので、庭園の中に、更に庭園ということになる。しかし、汐入の池や堀に囲まれていて、しかも元々埋立地なのに、井戸である。真水が沸くのだろうか?



 

左:芳梅亭の縁側。
右:座敷からの眺め。



 

左:歌会中にも庭に猫様がお出ましになられた。
右:歌會後、銀座方面へ歩く。築地市場への貨物線の址。



 

左:説明が書かれている。線路も残せばよかったのに。
右:そしてもう一度メタボなビルを見にいった。寒い中、物好きである(笑)。



 

左・右:メタボなわりにスマートであるww。ともあれ、現代建築の寿命は短い。既に取り壊しが決まっているとのこと。



 

左・右:少しく離れて、歩道橋より撮影。遊園地的な面白さはあるが決して美しくはないし、「こういうものを未来的だとありがたがった世代」としては「昭和戦後レトロ」に対する懐かしさを感じはするが、しかし様式建築と比べると何一つ普遍性のない、せいぜい「時代の徒花」に過ぎない代物である。壊されると聞いてもなんら惜しいとは思わない。新陳代謝で消え行くのが相応しいとすらいえよう。



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