骨董建築写真館 東京篇・其ノ壱
骨董建築写真館

東京篇・其ノ壱

二千二年の三月、早春の東下りを敢行した。本編ではその折の写真を幾つか公開することにする。

 

左・右:新宿区の老舗呉服屋系デパート、伊勢屋丹治呉服店こと伊勢丹新宿本店。内部はかつての火災のため旧状を殆ど留めていないが、外観は建設当初とほぼ変わらない素晴らしいアール・デコの装飾で埋め尽くされている。大正末から昭和初期にかけて、伊勢丹及び旧布袋屋百貨店として建てられたものらしい。

 

左:伊勢丹正面玄関付近の繊細な装飾。ここでもう二年の付き合いになるメル友タツヤ少年(19)と待ち合わせ、東京探検に出発したのである。
右:べたな喫茶店「ルノワール」にてタツヤ少年。彼が北海道で高校生している頃に知り合ったのだが、今は東京で美術の勉強をしている。

 

左:まずは新宿二丁目へ(^_^;)。これは二丁目仲通の入り口である。とはいえ午前中だったので、閑散としている。
右:堂山には一軒しかないが二丁目ではよく見かける、路面型のオープンな雰囲気のゲイショップ。

 

左・右:二丁目のすぐ近くにある画材店、「世界堂」。美術・芸術の世界を扱う店にしては、えらくべたべたなノリで、東京ってこんな街なのかぁって思ってしまう。これでも建て替えられて少しは垢抜けたのであって、僕がはじめて二丁目に行った頃はもっとべただった。

 

左:大阪駅、名古屋駅、神戸駅などは駅構内の中央コンコースが自由通路になっているが、東京では東京駅、新宿駅など主要駅の多くで中央コンコースが改札内になっており、不便である(関西では京都駅がそう)。この古風なトンネルは新宿駅西口と東口を結ぶ唯一の地下道で、前を歩いているのはタツヤ少年。
右:東口(アルタ前)から西口へ抜けると、いきなり敗戦直後の闇市の時代の雰囲気をそのまま伝えるこの「思い出横丁」に出る。ここは僕が東京で最も好きなスポットの一つである。大阪でも神戸でも十年ぐらい前まではまだこのようなバラックそのままの闇市が残っていたのだが、今やこの規模で残ってしかもいまだに栄えているのはここだけではなかろうか? 重要歴史的建造物群保存地区に指定する価値すらあると思える。

 

左・右:路地の連なる思い出横丁の街並み。

  

左:路地は狭いだけでなく、鍵状に曲がっている。店舗は殆どが飲食店、それも一杯飲み屋系か安い定食屋が多い。
中:トンネルのような薄暗い通路にも店がある。
右:大阪でも滅多に見られないようなすごいセンスの店名。確かにスタミナが付きそうではある。

 

左:同じく、すごいキャッチコピーである。どんな料理なのだろうか?
右:通路が狭いだけに、頭上も配線などでごちゃごちゃ、火事になると怖い。実際数年前に火災があり、この貴重な歴史的街並みの一部が失われてしまっている。今の日本の行政ではこの街並みを現状のまま保存するという発想などありようもなく、いつまで残るか大変に不安だ。

 

左:新宿駅新南口の階段でタツヤ少年がものすごいポスターを発見!! 通信教育で有名なゼット会の広告なのだが、「これはネタじゃないのか?」、「これを見て『よし、俺はゼット会で頑張るぞ』って思う奴がいるのだろうか?」と二人して大いに盛り上がってしまった(^o^)。彼はアート系の専門学生だけあって、こーゆーいちびりのセンスが僕とすごく共通するのだ。だからこそ、18歳の歳の差なんか全然感じない仲良しでいられるのだろう。
右:そして新宿駅から中央快速線にのって御茶ノ水駅で下車、まずはニコライ堂である。東方正教会系に属する日本ハリストス正教会教団の本拠地、府主教座が置かれているカテドラル(大聖堂)で、正式名称は日本ハリストス正教会東京復活大聖堂である。明治期に“お雇い外国人”として来日、鹿鳴館の設計をしたことで著名なジョサイア・コンドルの作品。
※ロシアの工科大教授ミハイル・シチュールポフが基本設計を担当、イギリスの建築家ジョサイア・コンドルが実施設計と工事の監督に当たる。1884年(明治17)着工、7年後に完成。1923年(大正12)の関東大震災でドーム部分などが崩落。復興に際し、岡田信一郎は当時の先端技術コンクリートで補強した。62年(昭和37)に国の重要文化財に指定される。92年(平成4)から6年間、約13億円かけて修復工事が行われた。参照⇒<増補>

 

左:ニコライ堂前にて僕の写真を撮るタツヤ少年。彼もこの日は随分沢山都市景観の写真を撮っていた。
右:ニコライ堂の表札。

 

左:逆光だが、敷地の外から鐘楼を望む。日本では珍しい、ビザンティン様式の大聖堂である。
右:正面入り口。イエス様の聖画が正教的である。

 

左:破壊される明治大学の旧校舎。御茶ノ水の景観の中で大きな位置を占めていた明治大学だが、非常にセンスのないことに風格溢れる戦前の校舎を全て破壊し尽くし、そのあとに実に下らない現代建築を建てていっている。嘆かわしいというほかない。
右:その真向かいにある、主婦の友本社ビル。大正十四年に竣工したウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の名建築だった旧社屋を磯崎新氏が再生した素晴らしい建物である。内部にはパイプオルガンを備えた室内楽用コンサートホールとして著名なカザルスホールがある。

 

左・右:主婦の友本社ビル。全体像を撮影できなかったので解りにくいが、このように若干装飾の異なる北翼と南翼からなる旧社屋を外壁保存した上、接合部に高層棟を付け加えた建物である。

  

左:主婦の友本社ビルの外壁を飾るテラコッタ。旧社屋は一旦取り壊された上での復元だが、これらの装飾は丁寧に取り外され、再利用されている。
中:神田古書店街の入り口付近にある、古い消防出張所の入り口。明らかに昭和戦前期の建築だが、今でも大切に修理され使用されている。全体は装飾の少ないモダニズムスタイルだが、随所に古典様式の装飾も用いられ、建てられた時代の雰囲気を今に伝える。
右:愛用のキャノンEOSを片手にネタを探しているタツヤ少年。

  

左:上段中の消防出張所の全景。丁度改修工事中であった。
中:タツヤ少年と共に大喜びで撮影してしまった画材店「金玉堂」。恐らく「こんぎょくどう」と読むのであろうが(^_^;)。
右:古いいい建物だが、実は外壁保存による建て替えを経た古書店である。あまりいいできではないが、何も残さず破壊されるよりはましということか、千代田区の建築景観賞を受賞している。

 

左:同ビル上部。保存された外壁より新築部分の方が高層なので、結果としてこのように一見屋上に建て増しをしたみたいな外観になる。果たしてこれが美しいのかどうか、大いに疑問であるが…。
右:壁面を飾る、ライオンのテラコッタ。

 

左:同じビルのエンブレム装飾。テラコッタが華麗である。
右:神田古書店街に僅かに残る戦前の建築。かつてはこのような小規模なビルヂングが数多軒を連ねていたのに、ここ十年ほどで殆ど姿を消してしまったことに愕然とさせられる。

 

左・右:僅かに残る戦前の建造物。

 

左:古書店街を離れ一ツ橋方面へ歩くと、モスラのような建物が現れる。共立女子大学講堂で、裏手に続く校舎ともどもモダニズムスタイルながら戦前のものっぽい。
※と思っていたが、旧講堂は昭和十三年、それが昭和三十一年に火災で焼失し、昭和三十二年に再建という記述を発見⇒<増補>(2004年3月23日追記)
右:その向かいにある、學士會舘。時代遅れの官尊民卑思想の権化、旧帝大の内輪グループ「社団法人学士会」の建物だがが、スクラッチタイルの美しい戦前の様式建築。竣工は1928年(昭和3年)、設計は佐野利器と高橋貞太郎、国の登録有形文化財である。

  

左:ネオ・ロマネスク調の美しい外観。スクラッチタイルが夕日に映えて特によい時間帯であった。
中:ロマネスクアーチの玄関。
右:ガラス越しの撮影なので些か不鮮明であるが、玄関の天井装飾と古風な照明器具。

 

左:九段の旧軍人會舘(現九段會舘)。明治期以降西洋文化の受容吸収に努めてきた日本だが、ファシズム台頭期にはナショナリズムが力を持つようになり、それが建築界にも影響を及ぼした。その結果、西洋工法、西洋スタイルのビルヂングに和風の装飾が施され、瓦屋根が載るというこのような建築が誕生することとなったのである。このような様式を“帝冠様式”と呼ぶ。1934年、川本良一の設計にて竣工。
右:宿泊部門玄関。九段會舘はホテル、結婚式場、ホール(劇場)の三部門からなっており、各々が立派な玄関を持つ。なお、リンクはそれぞれ別のサイトにつながっているのでそれぞれを御覧あれ。

 

左:右側の庇がホール入口、左側の半分切れているのが宴会部門入口。元々昭和の初めに軍人會舘として建てられたこの古強者のようなビルヂングは2.26事件の際には戒厳司令部が置かれ、また満州国皇帝愛新覺羅溥儀の弟である愛新覺羅溥傑親王と日本の公家華族(五摂家、九清華に次ぐ格式を誇る三大臣家の一つ)である嵯峨家(旧姓正親町三條家)の当主嵯峨実勝(さねとう)侯爵の令嬢浩(ヒロ)の結婚式の会場としても用いられるなど、激動の昭和史の生き証人である。
右:随所に施された和風の装飾に注目のこと。

  

左:ホール入口の庇を支える石梁、石柱にも和のモチーフが用いられている。
中:ホール玄関の扉。
右:重厚な雰囲気のホール入口。

 

左:玄関内部。星型の飾り窓の下には、チケット売場や受付案内などに用いられたのであろう小窓が塞がれて残っている。
右:ホテル部門入口。なおホテル部門には新館もある。どうせ宿泊するなら絶対にこの本館の方がお勧めである。

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