骨董建築写真館 廃墟篇・其ノ壱
骨董建築写真館

廃墟篇・其ノ壱

  

都市とは生き物であり、生きている限り常に新陳代謝が起こっている。僕はその中でも古い部分に目が行く人間なのだが、古くても生きている部分、作られた当時のままの用途で生きているところ、用途を変えつつ都市の中で活き続けているところのほかに、既に死んでしまった部分、朽ち果て消えゆくのを待つばかりの廃墟に、えもいえぬ風情を感じることがある。古いものにはいつまでも現役で残って欲しいと思いつつ、本編では朽ちゆくものの美にスポットを当てたい。
左:大阪市北区中之島、旧阪大医学部前にあった恐らく大正時代の今は亡きビル。角にとられた入口のアーチが優美であった。阪大医学部の移転とほぼ時を同じくして廃墟となり、数年に渡って放置されていたが、2001年に破壊されてしまった。この写真は既にネットが張られ幽鬼の棲み家といった雰囲気になっていた頃である。
中:この頁を作成している2002年6月現在はまだ現存している、大阪市中央区(旧南区)長堀橋交差点南東角の幽霊ビル。バブル期に建てられたらしいふざけた外観だが、バブル崩壊とともにオーナーも破産したのか、既に長きに渡って閉鎖されたままとなっている。
右:かつては大阪北港の中でも中心的な位置にあった、安治川沿いの埠頭。港としては一番上流、旧外国人居留地の川口地区の波止場である。元々大型船は入港、接岸できない上、地盤沈下による堤防の嵩上げで極めて使いにくい港湾になってしまい、時代に取り残されたまま朽ちつつある。

実際に廃墟探訪を志す方は、実行の前にこのサイトをご覧下さい⇒<増補>

 

左・右:震災前までは大阪港最大の、従って瀬戸内で神戸港中突堤並ぶ巨大旅客船ターミナルとして殷賑を極めていた、弁天埠頭の現状(とはいえ撮影は2000年3月)。震災後大阪北港の旅客船ターミナルはもっと下流の天保山埠頭に移り、弁天埠頭は巨大艀と大型タグボートの繋留場となってしまった。一日中人の絶えることのなかった賑やかな波止場が、今では人っ子一人いない完全な廃墟で、SF映画に出てくるゴーストタウンさながらの雰囲気である。大阪北港は日本では数少ない河川港で、三千瓲級の大型客船が安治川を数粁(地下鉄中央線の大阪港駅〜朝潮橋駅〜弁天町駅まで二駅分)も遡るさまは黄浦江の上海港、エルベ河のハンブルク港、メコン河のサイゴン(ホーチミン)港など大陸諸国の港を思わせる日本離れした光景であっただけに、滅多に大型船の遡行が見られない現在の安治川は大変寂しいものがある。

 

左:神戸市中央区(旧生田区)、異人館で有名な北野町・山本通地区はまた、風情ある細い路地の坂道が大変に多い地区である。蔦の絡まった木造二階の廃屋は、北野坂の一本西側の路地で発見した。
右:同じく神戸の異人館地区にて。不動坂を登りきった辺りにある、古い石塀。この辺りまで登ると下界の景色が美しい。かつては異人館が建っていたであろう美しい塀の内側は、無残にも醜悪この上ないプレハブ住宅と化している。この塀を残す美意識の持ち主が、どうしてこんな不細工な家を建ててそこに平気で住めるのだろうか?

上:神戸の異人館街は震災で大きな被害を受けたが、文化財指定を受けているところが多かったせいもあり、今では殆どが修復、復元され、かつての姿を取り戻している。しかし例外もあり、この洋館はいまだ無残な姿のまま放置されて久しい。庭も荒れ放題、山麓域だけに植物の生長が著しく、実に凄まじく「絵に描いたような」廃墟ぶりである。様式からみて、北野町とはいえ明治期の異人館ではなく、大正〜昭和戦前期の洋館であろう。
※2004年3月16日追記:この建物は旧波斯帝国総領事館(バジャージ邸)であると判明。やはり大正期の建築であった。参考⇒<増補>

 

左:ほぼ同じ角度から、ストロボを焚いてみる。
右:周囲のブロック塀にも蔓性の草が絡み付いている。

 

左:門前より。セピア調にしてみた。
右:震災までは観光施設として使用されていたようで、こんな間抜けなオブジェが放置されていた。

 

左・右:かつては観光客でにぎわったであろう入口付近も、今ではジャングルのように鬱蒼と木々に覆われている。

 

左:京都府八幡市の旧遊廓、橋本地区。京阪電車橋本駅の周辺に広がる一帯だが、街全体がひっそりと静まり返り、廃墟や空地も多く、“死の街”といった雰囲気が全体を覆っている。僕の大好きな街である。(橋本の写真は全て2000年7月頃撮影)
右:橋本駅前、旧遊廓の隣の空地。棟続きの遊廓が取り壊されたため、残った建物にその影が焼きついたように残っている。いわゆる“原爆型トマソン”で、階段の跡が面白い。

 

左:雑草生い茂る空地の中にかろうじて姿を留めている遊廓。表から見るとまだ比較的ましな状態なのだが。
右:玄関のアップ。色硝子の半洋風ドアが遊廓を感じさせる。

 

左・右:裏に回るとこの通り、もはや完全に崩壊するのも時間の問題である。

 

左:上の廃墟の向かい側に置かれた、年代物の防火用水。
右:木に飲み込まれつつある廃屋。木は蔦に飲み込まれつつある。

上:大分県湯布院町にある通称“幽霊マンション”。地元では有名な心霊スポットとのこと。温泉で有名な由布院は盆地になっており、そのはずれの高台にこのマンションはある。鉄筋六階建て、かなり大規模な廃墟である。2002年4月現在ほぼ自由に出入りできる状態で放置されている。一旦は高級リゾートマンションとしてオープンしたものの、すぐに倒産閉鎖、廃墟と化したものらしい。

 

左:玄関付近の様子。白黒にしてみた。
右:玄関のアップ。ドアは全て開けっ放しになっている。

 

左:玄関ホール。すっかり荒れ果て、高級マンションだった頃の面影はない。しかし高級マンションだったわりには天井が低いロビーである。
右:正面から見て裏側に当たる、廊下。各階とも同じ構造で、荒れ方も似たようなもの。廊下側にもガラス窓が嵌められ絨緞が敷かれるなど、マンションとしてはかなり豪奢な造りだったことが窺える。

 

左:温泉リゾートマンションだけあって、各居室の風呂のほかに地下に大浴場を備えている。これは元脱衣室からの眺め。
右:大浴場の岩風呂。

 

左:大浴場を外側からのぞく。硝子は完全に失われている。
右:荒れ果てて、落書きだらけの階段。あくまでエレベーターが主役のビルで、このみすぼらしい階段がメイン階段である。

  

左・中・右:居室内三枚。とにかく一切鍵がかかっていないので、どこにでも入れる状態であった。

  

左:実に程度の低い落書き発見。「酒鬼薔薇参上」と書こうとして「薔薇」が書けなかったのであろう。
中:居室ベランダからの眺望。
右:とうとう屋上まで上ってしまった。

  

左:屋上からの光景。
中:更に塔屋のエレベーター機械室にまで上った。これはエレベーターの巻上機。
右:同じくエレベーター機械室にて。電源盤のようだ。

 

左:巻上機と配電盤。
右:天井から吊下がる無数の鍾乳石。

 

左:廃墟に佇む共同管理人風太。
右:国宝の磨崖佛で知られる大分県の城下町、臼杵市の旧市街で見かけた、崩れかけた商家。

 

左:臼杵の商家を隣から眺める。左手、車の向こうの赤い塀は煉瓦である。恐らく大正期の建物であろう。
右:同じ廃墟の内部。壁の隙間から撮影。

 

左:これはまだ廃墟にはなっていない空家だが、ぼろぼろになったカーテンが素敵だった。(臼杵市にて2002年3月)
右:これも九州大分。別府市である。八幡朝見神社というわりと大きな神社だったのだが、かつては参詣客で賑わっていたらしい参道商店街があり、その一角に廃墟が連なっているのだ。今でもそこそこ人通りもあるのに何軒もの廃墟が連なっており、ちょっと不思議な光景であった。後姿はアキ少年である。

 

左:レンズに指がかかってしまったが、上段右の写真の建物の並びである。この写真では右の建物はやや傾きながらも現役であるが、左の建物と奥の建物は廃墟である。
右:左の写真の右側、蔦の絡まっている建物である。このようにもう崩れかけている。

 

左・右:上段の写真の、蔦の絡まった廃屋。裏に回ると神社横の公園となっていて、敷地が一段高いのでこうやって二階内部を覗き込むことができる。内部は既に畳もなくなり、思った以上の荒れ方であった。

 

左:東別府駅裏側、もはや街中ではなく郊外といった風情の町並みにも、古い廃墟が何軒かあった。
右:東別府駅の表側、こちらはまだ市街地なのだが、かなり規模の大きい純和風の商家が破壊されている最中であった。

 

左:別府市公会堂のステンドグラスの窓から見下ろしたところにも、屋根に穴の開いた廃墟を発見。(以上別府市の写真は2002年4月撮影)
右:香川県高松市にて見つけた、崩れかけのしもた屋。琴電築港駅すぐの踏切前である。

 

左:名古屋の都心、納屋橋の袂で久しく放置されている、恐らく大正時代のビルヂング。可愛らしくも端正な建物である。(2001年クリスマス撮影)
※2006年5月10日追記:このビルは登録有形文化財『加藤商会ビルヂング』で、2004年からリニューアルされタイレストラン『サイアムガーデン』となった。
右:東京都台東区、地下鉄稲荷町駅前の古い病院。既に閉鎖され、鬼気迫る雰囲気となっている。参照⇒<増補>

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