上:ナンバープレートに注目。西区、土佐堀川沿いの倉庫前にて発見。
左:いよいよ川口地区に入る。川口地区は明治初期、旧外国人居留地として文明開化に彩られ、大阪でもっとも早く洋風文化に触れた地域である。港湾地区ではあるが河川(安治川)であるため近代化の波に乗り得ず、現在では大変寂れた、しかし僕ら都市探険家にとっては大変に趣き深いエリアとなっている。写真は昭和3年に住友合資会社工作部の設計で当時ととしては最新の技術で建てられた、住友倉庫本社である。無装飾なモダニズム建築としては最も古い例の一つ。住友倉庫は大阪港築港地区にも赤煉瓦倉庫をもっていた。参照⇒<増補> <増補> <増補>
右:住友倉庫の内部に無造作に置かれている、年代物の琺瑯看板。右から左に「たばこのめぬ」と書いてある。
左・中:住友倉庫のすぐ向い、安治川沿いの岸壁に接して建っている、望楼つき木造二階建ての事務所。おそらく戦前の建物と思われる。勿論海運会社のものである。
右:川口地区の安治川には、掘割式の船溜りがある。そこに面して、当時としてはさぞかしモダンであったろうと思われる鉄筋コンクリートの船会社のビルが残っている。これも昭和初期のものであろう。
上:英国国教会系のプロテスタント教派である日本聖公会の大阪主教座カテドラル、川口基督教会聖三一大聖堂。1934(大正九)年に米国人建築家ウヰルソンの設計で建てられた、見事なヴィクトリアン・ゴシック様式の大伽藍で、国の登録有形文化財である。2000年以来伯爵は毎年クリスマスイブの夜にはこの大聖堂の深夜礼拝に参列するのが恒例になっている。参照⇒<増補>
左:「其ノ弐」で紹介した日本基督教団大阪教会とともに、この日本聖公会川口基督教会も阪神大震災では大きな被害を受けた。ゴシックの鐘楼は完全に崩壊したので、多大なる努力により再建されたのである。新築の部分は煉瓦の色が違うので、それと知れる。
右:西側から見た全景。
左:川口基督教会の正面玄関に向い、教会と同時期に建てられたと思われる古い洋風の長屋が残っている。区分所有されているのか不見識な家主により一部寸断されているが、カフェーに文学青年が集まったというモダニズム華やかなりし大正時代の川口を髣髴とさせる光景である。この長屋の裏はすぐ木津川となっている。
右:安治川の波止場には、打ち捨てられた古い起重機が沢山残っている。港としての機能を完全に喪失している訳ではないので、時々現役も混じる。
左:波止場付近はこのように廃車が沢山不法投棄されており、なんともうらびれた雰囲気となっている。路面の「と」の字の辺りが若干盛り上がっているのは旧堤防。地盤沈下が進み、現在では川岸に直接堤防が築かれている。当然港としては不便な訳で、港湾としての利用が減っているのはそのせいもあるのかもしれない。
右:今や大変に貴重な存在である、大正建築の三井倉庫。赤煉瓦に御影石の白い帯が入った、典型的なネオ・クラシシズムである。
左:倉庫の裏手にも、同時期に建てられたと思われる古い二階建てのビルヂングがある。
右:倉庫の内部。天井を貼らず、小屋組みが直接見える構造である。現役の倉庫として用いられている。
左:前ページの洋館の内部。手入れは悪いが、天井や玄関周りなどオリジナルの美しい装飾や建具が奇跡的に残っている。
右:赤煉瓦倉庫の正面向かい、波止場に接する古い屋根を支える装飾鉄柱。倉庫と同時期か? 左側、車の後ろのコンクリート壁が現在の堤防である。本来、路面と同じ高さの埠頭で直接荷降ししていた訳であるから、大人の背丈ほどもある堤防は大変に邪魔。背後のビルは安治川の対岸、大阪中央卸売市場である。リドリー・スコット監督が「ブラックレイン」を撮影した古い市場ももう幻と消えてしまった。
左:上の洋館の正面。鉄筋コンクリートではなく木造であろう。
中:安治川沿いの倉庫街にある煉瓦屋さん。近年の建物だが、一階には本格的な煉瓦積みを施していて面白い。どうせなら四階まで全て様式建築にしてくれたら賞賛するのだが。
右:交叉点の名に、今はなき渡し舟の名前が残っている(但し大阪市内には現在でも七ヶ所の公営渡し舟が活躍している)。
左:源兵衛の渡しがなくなった跡を受け継いだ、安治川河底トンネル。戦時中、渡し舟では需要を賄いきれなくなったのだが、港であり相当の大型船も出入りする安治川には低い橋は架けられないため、河底にトンネルが掘られた。両岸に同じ建物が建てられ、エレベーターでトンネルまで降りる仕組みである。従って無装飾なインターナショナルスタイルの建物だが実はかなり古く、1944年頃の完成。左側、小さく人が写っているのが歩行者用エレベーター。右側の閉鎖されている二機の大型エレベーターは、永らく使用されていない自動車トンネル用のエレベーターである。
右:自動車トンネルの上に掲げられた銘板が、この建物が戦前のものであることを示す。黒御影石製で、右から左に「安治川隧道」と彫られている。
左:河底の人道トンネル。自転車、原付もエレベーターで降りて通行できるようになっている。夏涼しく、冬暖かいが、深夜はいささか不気味。
右:トンネルを抜けると、此花区に入る。西九条駅近くで見つけたアンティークショップ。なお西九条駅は、現在は阪神電鉄西大阪駅の終点で、JR環状線との接続駅である。はっきり言ってかなり場末感のある寂しい駅なのだが、今後はどんどん発展していく可能性も無きにしも非ず。まず第一に、ユニバーサルスタジオジャパンへの連絡線となるJR桜島線(愛称ゆめさき線)の分岐駅であり、にわかに脚光を浴びている。そして第二に、現在は盲腸線である阪神西大阪線の難波延伸が、いよいよ実現することに決定した(といっても開通は2010年予定)。西大阪線が難波に延びると、@神戸・阪神間から大阪ミナミまで鉄道で直結することになり、A1435ミリゲージ同士のため難波駅で近鉄に直結、相互直通運転することにより姫路〜神戸〜阪神〜大阪〜奈良、そして伊勢志摩・名古屋まで私鉄の路線で結ばれることになる。従って、西九条も少なくとも鶴橋、京橋と同レベルのターミナルとなる可能性を秘めているのである。なお、地下鉄中央線九条駅の近くに、阪神西大阪線の幻の地下駅が半ば完成した姿のまま、放置されているとのこと。西大阪線延伸が完成したら、この地下駅も阪神電鉄西大阪線九條駅としてようやく日の目を見ることになる。
※2003年5月21日追記・・・この写真のお店はアンティークショップではなく、というショットバーであることが判明。確かに看板にそう書いてある(^_^;)
※2006年7月20日追記・・・サイトがなくなっているので、廃業したのかもしれない。
左:西九条駅近くで見つけた長屋。決してそんな古いものではないのだが、タイル張り、それもかなりユニークな色使いであったので、思わずシャッターを切ってしまった。
右:関西電力春日出火力発電所。かつては五本の煙突が聳え、“お化け煙突”として親しまれていたそうである。お化け煙突というと東京都足立区のものが有名だが、大阪にもあったのだ。
※2004年3月18日追記:伝統ある春日出火力発電所は2002年3月を持って廃止されました。参照⇒<増補>
左:このように、安治川は今でも港として機能している。この埠頭は砂利の荷上場らしい。上流の橋はJR環状線。船舶航行のためかなりの高さである。
右:関西電力の火力発電所まで燃料を運ぶのであろう、可愛らしいタンカーが接岸していた。上流の橋は第二阪神国道(43号線)の安治川大橋、紅白の煙突は春日出発電所である。
左・右:安治川大橋の下の側道に、物凄いクラシックカーが路上駐車されていた。伯爵と同い年ぐらいではないかと思われる、マツダの軽自動車である。ナンバープレートもオリジナルのようだ。
左・右:巨大な太鼓橋のようだが、これは渡るための橋ではない。巨大台風時の高潮を防ぐために設けられている、安治川河口水門である。大阪北港の一部をなし大型船舶の遡行する安治川、尻無川、木津川等の河口部には、このような巨大アーチ型の水門が設置されている。いずれも上流から下流に向って撮影。ただし、実際の安治川河口はこの水門より更に数キロ下流である。
左:安治川河口水門よりすぐ下流にある弁天埠頭の現在。かつては瀬戸内海航路の拠点として神戸港の中突堤と並び殷賑を極めた旅客ターミナルだったのに、大震災後に客船埠頭としての機能を停止し、埋立用巨大艀の繋留場となってしまった。3000トンクラスの大型客船が安治川を数キロも遡るさまはあたかも上海・黄浦江を思わせる日本ではほかに見られない光景だっただけに、貨物船やタグボートしか航行していない現状は非常に寂しいものがある。
右:かつては大きな荷物を持った沢山の船客で賑わっていた波止場だが、現在は人っ子一人おらずゴーストタウンと化している。何隻もの客船が同時に接岸できる、非常に大きな埠頭であった。
上:弁天埠頭に打ち捨てられた、船舶コンテナ。実は埠頭の入口は全て閉ざされており、これは強引に入り込んでの撮影であった。かつては神戸港・中突堤からこの弁天埠頭まで、よく船に乗ったものである。約一時間の船旅を楽しめたのだ。関西汽船のまや丸やゆふ丸、加藤汽船のぐれいすやはぴねすという綺麗な客船であった。