旧作補遺大阪篇Z(2004年撮影分)

 

左・右:本章は前章の続きである。よってこれは、土佐堀通から南下、上町台地へ登る風情のある石段である。ホテルアバンティという看板が出ているが、この地下洋館ではなく、向かいにある普通のビルがホテルなんで、ちょっと残念。この洋館も店舗にすればいいのに、現状では廃墟である。といっても2004年4月24日撮影なので、2009年2月1日時点では何らかの活用がされているかもしれない。ちなみにこの洋館は崖地に沿った半地下構造で、屋上面が台地上の地面である。



 

左・右:このように、相当古い石段である。



上:上から見下ろすとこんな感じ。突き当たり、ライトバンが走っているのが土佐堀通。



上:石段を登ってしまうと、平坦な台地である。ビジネス街なのだが、古い住宅も結構残っている。



上:楽しげな会社があった。



上:あまりにもストレートな名前の病院。下にうっすらと乗車位置が写っている。つまりこれは駅のホームの広告なのだ。どうやらこの日は天満橋駅から地下鉄谷町線に乗ったようだ。更に南下するのである。



 

左:地下鉄は谷九で降りたらしい。「いくたまちょう」である。
右:町名の元となった神社はこれ。生国魂神社である。実は境内に、先の大戦中の大地下壕が眠っている。畿内の歴史ある神社なので、当然に式内社であり、官幣大社である。関東では滅多にない格式の高い神社だが、関西ではざらにあるのだ。地元での呼び名は「いくたまさん」。上方では神仏に対しても「さん」であり、「様」は田舎言葉だと笑われる。



 

左:神社やお寺の境内には、猫がよく似合う。
右:由緒ある寺社の周りに遊里があるというのは、珍しくない。生玉さんの周りはラブホテル街と化しているが、その名残なのだろう。上町台地の西端は北端とともに総じて急峻なのだが、特に千日前通から天王寺公園にかけては崖状になっている。ここからはその崖上の小道を南下した。大正末〜昭和一桁と思しき古い町家の向こうに、凄まじい造りのラブホテルが聳えている。



上:こんなジャイアントオーダー(笑)、見たことない。既製品はないから、特注したのだろうが、一体誰が設計したのやらσ(^◇^;)。面白いことは面白い。ラブホとしてはかなり旧式スタイルになろう。70年代のものか?



上:正面ファサード。これでもかと装飾されている。「ベル・デ・ベル」という屋号らしい。つまり「美中ノ美」か。



 

左:非常に狭い道しかないので全景を撮りにくいのだが、まぁこんな感じである。周りの町家群との対比が面白い。
右:何しろ周囲はこういう歴史的景観なのである。京・大阪では路地のことは「ろうじ」と発音する。何とも柔らかくて美しい関西語である。



上:震災前までは、阪神間の国道二号線沿いに多く見られたタイプの店舗付長屋住宅。大正二桁から昭和一桁にかけて、近代洋風建築ではスクラッチタイル張りが流行するが、このように和風建築にまで茶色のタイルが用いられたのだ。右への道路に「通り抜けご遠慮ください」と書かれているのは狭いためであり、車も通れないことはない。左への道路に「行き止り」「この先車通り抜けできません」と二つも書いてあるのは、本当に行き止りだからである。上町台地の西端の崖になるのだ。



 

左:崖上の小道からは、このように風情のある石段が崖下にかけて何本も通っている。全てが石段ではなく、学園坂、国道26号線である逢坂のように車の通れる坂道もあるが、天王寺七坂、天王寺八坂などと呼ばれ、それぞれに風情のある歴史的な名前がついている。崖下は「下寺町(したでらまち)」、崖上も寺町で、古寺が密集しているエリアでもある。大阪市内唯一の天然の瀧「玉出の瀧」もあり、修験の行場となっている。
右:坂の一つ、口縄坂。



上:台地の中央を貫く谷町筋にある、六万体交差点。いかにも寺町らしい、仏教的な地名である。



 

左:この界隈、車も自転車も通れないような路地が迷路のように絡み合っていて、散策するには絶好の場所。こんな不思議な建物もあった。戦後すぐぐらいに建てられた、元は連れ込み旅館だったのだろうか?
右:格坂にはこのように由来が書かれている。



上:上町台地西端崖上にある、家隆塚。歌人藤原家隆の墓だと伝承されている。塚の裏側に回ると眺望が素晴らしい。



上:家隆塚の頂上。この界隈は夕陽丘と呼ばれている。24日撮影分はここまで。



 

左:翌日、2004年4月25日の撮影だが、場所的には24日撮影分から更に南下した、同じく上町台地西崖線上である。これは阿倍野銀座・旭本通り商店街付近だが、この界隈は馬鹿な大阪市の愚かな阿倍野再開発でほぼ破壊されつくし、現状をとどめていない。つげ義春の「ねじ式」を思わせる眼科の看板はいかにも昭和的で、とてもよかったのだが。
右:阿倍野区から崖下に下ると、西成区山王地区である。この界隈は古い長屋や古いアパートがまだまだ大量に残っている。本町に本社を構える大阪の大総合商社と同じ名前の居酒屋。



上:下町の猫たち。とても可愛い。これは旧南海電車天王寺支線の路盤上に群れていた子たち。廃線後遊歩道化されたのになぜだか閉鎖され、猫の楽園と化していた。



 

左:「単なる下町」の山王地区と、「ドヤ街」「寄せ場」である釜ヶ崎地区を実質的に区切る、飛田本通り商店街。なぜだか「ウーピー」という屋号の店が何軒かあって、しかも喫茶だったり理髪店だったり業種はばらばらなのだ。ゴールドバーグとは関係なさそう。
右:大手百貨店の中では本当に最低最悪だった松坂屋大阪店のラストデー、2004年5月5日。全くもってつぶれて当然であった。この田舎の三流デパートは大阪店のみならずとうとう全体でも破産同然となり、大阪の超一流百貨店大丸に救済されて命脈を保っている。ビジネスライクで冷酷な高島屋と違い、おっとりと上品で「いかにも大阪の老舗」である大丸の社員が驚くぐらい、松坂屋の社員は無能で覇気がない屑人間ばかりだというインサイダー情報を得ているが、さもありなんというほかない。何しろ「マーケティング? 何ですかそれ? 適当に並べておいたら売れるでしょ」という調子なんだと。馬鹿の集団である。



上:日本橋(にっぽんばし)から天満橋に移転して四十年ほど、ただの一度も黒字化したことがなかったというんだから聞いて呆れる。



上:食堂街のテナントも全くやる気なし。



上三枚:「デパートの屋上」が「子供の楽園」として輝いていてのもすっかり「今は昔」であるが、それにしてもこの寂しさ。最終日だというのに閑散としていて、いるのは昔を懐かしむ中高年ばかりであった。



 

左:焼け糞と言うほかない張り紙。
右:旧淀川に面した部分。



上:天満橋から見た松坂屋大阪店。

 

左:徒歩で天神橋地区に入る。これは大正末頃に建てられた乾物問屋のビルを、現オーナーが一人でこつこつとリフォームしてよみがえらせたことで有名なフジハラビル
右:藤原ビルの裏手に残っている、古い防火壁。



上:これも防火壁。蔓草がすごい。



上:メゾン扇町らしいが、フランス語MAISONではなくローマ字であるσ(^◇^;)。大阪市内では、東成区今里付近でMEZONDO HANAというのを見つけたこともある。



上二枚:場所はフジハラビルのすぐ近くだが、日付は飛んで2004年7月25日天神祭の光景である。くれぴ少年と祭見物であった。



 

左:ここから更に飛んで、いよいよ2004年も終わり近い12月25日の写真となる。くれぴやイタリア在住の友人ヤコ女史、クッチーナ女史と大阪探索で、まずは飛田新地遊廓の「はまや」。洋館建ての妓楼である。
右:アール・デコ妓楼、「相生楼」。素晴らしい建物である。



上四枚:「相生楼」細部。



上:紅色のタイルが艶かしい「梅ヶ枝」。



 

左:遊廓を出てすぐ、北側の商店街にある総タイル張りの旅館、「末広」。
右:「末広旅館」の看板。「内湯」と書いてある。一度泊ってみたい。



 

左:北上し、国道を渡り、新世界地区に入った。廃業した古い古いラブホテル(というより連れ込み宿)の硝子ドア。紫色なのが妖しげで素敵。
右:新世界の路地裏はゲイバー(それも老け専)の密集地帯である。くれぴと、後ろに写ってるのはヤコ女史。



上:更に北上。恵美須町にあったフジ医療器本社ビル。あまり有名ではないが、マッサージ椅子のトップメーカーである。1938年に建てられたこの旧三和銀行恵美須町支店である本社、大切にしていたはずなのに2007年にいきなり破壊されてしまった・゚・(ノД`)・゚・。ウワァァァン!



上:僕の大好きな日本橋(にっぽんばし)五階百貨店。



 

上:五階百貨店の古道具屋にて。東京芝浦電気という表記が渋い。右の電話機も欲しいタイプである。



上:ユニバーサルスタジオジャパンの入り口は、よく見ればモダニズム化したマイアミ・アールデコといった感じになっていた。この一枚だけ2005年に入ってから、1月30日の撮影。



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