旧作補遺大阪篇其ノ六(2004年撮影分)



上:本編は前編の続きである。よって2004年4月24日撮影分からスタートする。2009年1月31日に本稿を作成しているので、約五年前の写真となる。これは登録有形文化財となった芝川ビルヂング。現在は四階(屋上に建て増されたもの)が撤去され、フランス風ベトナム料理店や眼鏡店などが入居、非常にお洒落な雰囲気となっているので、これはそうなる以前の姿である。



 

左:芝川ビル玄関。角地に開口する、近代建築に多い姿である。装飾に傷みがあるのは、第二次大戦中の焼夷弾によるもの。米軍は非戦闘員たる一般市民が数多生活している地域を無差別に爆撃したのである。1927年、豪商芝川家が運営する芝蘭社家政学園(両家の子女のための花嫁修業学校=当時この界隈は「船場の豪商」が並ぶ職住一致の街であり、「大店のとうさん、こいさんが数多いたのである)として建てられた。設計は「日本のバウハウス」と呼ばれた大阪市立工芸学校教諭だった渋谷五郎(基本計画・構造設計)、本間乙彦(意匠設計) の二人で、マヤ・インカの装飾を取り入れた摩訶不思議な様式は当時流行していた「ライト式」ともいえる。
右:芝川ビルの東面。超芸術トマソンの一種、高所ドアがある。



上:南米風の装飾が入った窓。



 

左:一階外壁は石積みである。
右:玄関風除室の壁面装飾。



 

左:風除室。オパールセントグラスの窓が珍しい。
右:風除室天井。



 

左:一階廊下。
右:主階段。



上:外壁の装飾。大谷石か竜山石だろう。



 

左:昔ながらの町家建築。道修町の薬種問屋である。袖壁が見事。
右:一部だけ移築保存されている、旧大日本製薬ビルヂング。大日本住友製薬の新本社ビルにはめ込まれている。かつての建物は1930年、宗兵蔵の設計になる名建築であった。



 

左・右:道修町通りに面して聳える、タケチョーこと武田長兵衛商店(屋号は近江屋)、すなわち武田薬品工業の本社である、武田道修町ビル。松室重光の設計で1928年に建てられた。増築を重ねているが、不自然さを感じさせない。



 

左:武田ビル前にある、古い古いマンホール。右書きで「道修町 道親會」と刻まれている。
右:北浜、大阪證券取引所向かいにある小さな洋館、北浜レトロ。元々この界隈の株の仲買人の事務所として建てられたもので、登録有形文化財。今は英国風のちゃんとした紅茶が飲める店になっている。かつては西隣に更に二軒赤煉瓦西田三郎商店があったのだが、名古屋の悪徳先物詐欺会社「グローバリー株式会社」の所有となってまもなく破壊されてしまった。同社は当然破産、社長山田保弘も逮捕されたが、当然の報いといえよう。



上四枚:重要文化財となった小西儀助商店。世界的大企業、小西ボンドことコニシ株式会社の本社である。木工用ボンドの世話になったことのない日本人はいないだろう。明治末期に建てられた大規模な町家として、大阪都心部に現存する唯一のもの。一番上の写真には、今は亡き高麗橋三越(三越大阪支店)が写っている。



 

左:渡辺節の傑作だった旧北浜野村ビルのキュビズムなライオン。新築のビルの壁面に移されている。
右:土佐堀川沿いまで北上。これはモダニズムの素敵な物件、福原ビルである。旧国光生命保険相互会社大阪支店として南海ビルヂング(高島屋難波本店)の設計者久野節の設計で昭和初期に建てられたものとの由。一軒置いてその隣には大林組旧本社ビルも見えている。



 

左:撮影当時は料理学校として使われていた、旧大林組本店ビル。大林組設計部の小田島平吉・平松英彦の設計で、1926(大正15)年に竣工している。
右:ロマネスク調の玄関周り。これだけの規模で六階建てと高層なのに、基壇は一階全部ではなく半分となっているのが珍しい。



上:軒蛇腹(ロンバルディアバンド)もバルコニーもテラコッタ製である。美しい。



上:玄関には一対の鷲が置かれている。



上:北浜野村ビルの遺品がもう一箇所用いられている。こちらは土佐堀通沿いである。



上:北浜付近から土佐堀通を東進、西横堀川を渡ると大阪城内であった地区に入る。町名も高麗橋→内高麗橋、平野町→内平野町など「内」がつくようになる。更に東進し、松屋町筋(まっちゃまちすじ)を超えた辺りから、南側が急に高台となる。上町台地である。東京と違いほぼまったいらな大阪の街にあって、この上町台地の周辺だけはこのように坂が見られる。



 

左:この頃はまだ松坂屋だった、京阪天満橋駅ビル。松坂屋とそごうは日本の大手デパートの中で最も腐っていていいものは何もないので、つぶれて当然であった。
右:土佐堀通から南へ向かう道の中には、坂では間に合わず石段になっているところもある。



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