大阪篇'10年撮影分2(富田林寺内町)
左:2010年2月12日撮影。当サイトでは何度も紹介している登録有形文化財、生駒ビルヂング一階に入っているイタリアンバール「チェントラル・バンコ」のホットチョコレート。
右:これより2月21日撮影分となる。既に大半が破壊されてしまった旧大鐵百貨店(1939年竣工)。近鉄百貨店阿部野橋本店となっていたが、建替えのために殆ど破壊され、戦前の雰囲気が残っているこの部分だけ、かろうじて残されているが、これもいつまで残るかどうか。
左・右:大鐵百貨店は大阪鉄道(現近鉄南大阪本線系統)のターミナル駅、阿部野橋駅のターミナル百貨店である。この空間は地下鉄御堂筋線天王寺駅と近鉄阿部野橋駅を結ぶコンコースであった。
左:阪急梅田の大コンコースがなくなり、今また近鉄阿部野橋駅も失われようとしている。
右:大阪阿部野橋駅から急行に乗って古市へ。そこから近鉄長野線に乗り換えて富田林駅に到着して、トイレに入って驚いた。なんと汲取便所であるσ(^◇^;)。大都市圏の私鉄の主要駅でこれはないだろう。阿倍野に無駄な超高層ビルを建てる金をあっても、こういうところには一銭も使いたくないらしい。まぁ僕らの年代の者にとっては「懐かしい」光景だし、若い連中に見せたい気はするが(笑)。
左:富田林駅前、金剛バスの営業所にあった古い観光案内図。同社は近鉄系でも南海系でもない、珍しい独立系のバス会社で、悪辣な不当労働行為で有名である。
右:金剛バスの回数券・定期券売場。近代建築であった。
左:金剛バスが停車している富田林駅南口。こちらが本来の「駅前」で、旧市街に面している。明治34年のの石碑があった。
右:定期券売場は川の上に建っていた。
左:駅前にあった萌え系美容院。「田中美容室」と書いてあった。実は創業六十年の老舗らしい。
右:看板建築といっていいだろう、木造三階建て洋風町家。
左:駅前にあったとても渋い大衆食堂、「ニカツ」。
右:ニカツ食堂のショーケース。
左:今では駅北口の方に大きなバスターミナルができているのだが、伝統的に南口側が市の中心部なので大手都市銀行の支店がが連なっている。この道路は国道170号線旧道であり、北口側には国道170号線バイパス(外環状線)が通っている。
右:えらく鋭角な建物があった。
左:駅前からこのように狭い道に入って南下すると、すぐに旧寺内町に到達する。
右:最近になって再活用されたと思しき、なかなかいい雰囲気の店舗。但し僕の大嫌いな自然食品店&レストランなので、僕が入ることはあり得ないσ(^◇^;)。
左・右:いい感じに古びている町家。
右:渋い仕立屋さん。「男子専科」という言い方も最近はしないなぁ。
右:まだ寺内町の外だが、道沿いには古い町家が沢山あった。
左:黒漆喰のお宅。店舗ではないので町家ではない。
右:いい雰囲気の裏路地。
左:卯達のある町家。
右:町工場なのだが、電鍍という社名は初めてみた。中学の理科の時間に電解鍍金を習ったことを思い出す。
左:奥が富田林駅。寺内町へいたる道筋である。
右:これはもう人は住んでいないだろう、廃墟化しつつある裏長屋。
左:新築の建物の奧に、古い町家が見えている。
右:「角の煙草屋」そのものの町家「中村商店」。
左:古風な玄関。
右:この日の目的地、「じないまち交流館」に到着した。なんと新築の町家である。
左:じないまち交流館。この日はここで大阪芸術大学「池田組」による錦影絵の公演があったのだ。
右:真新しい白壁が交流館。道路を挟んで南側も「八町茶屋」「なな菜」などとして活用されている。
左:「なな菜」の裏には土蔵のギャラリーがあった。
右:交流館前の街並み。富田林寺内町は1560年から浄土真宗興正寺派富田林別院(富田林御坊)を中心に栄えた寺内町で、今でも戦前までの景観をよく残しており、大阪府内で唯一国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
左:「八町茶屋」。この日は入れなかった(早く閉まりすぎ)のだが、後日再訪を果たした。非常に美味しかった。
右:右が交流館、左が「八町茶屋」。錦影絵公演が終わってからも、ガイドマップを片手に散策する人が非常に多かった。
左:同じ場所から。高い無線塔ははNTTか関西電力のものと思われるが、それに重なって、その向こうにPLタワーが見えている。正式名称は「超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔」というらしい。そう、富田林市はPL教の本拠地なのだ。
右:伝建地区の街並み。
左:観光化は殆どされておらず、住居として使われている町家が大半なのだが、一部にこのような活用が始まっている。
右:富田林屈指の旧家、奥谷本家の裏側。町家とはいえ裏手には広大な庭園があるようだ。道路を挟んで隣の銅張りの町家が見えている。この道が寺内町のメインストリート「城之門筋」で、「日本の道百選」に入っているとのこと。
左:城之門筋を挟んで、こちらは東奥谷家住宅。
右:城之門筋以外は電線地中化は行われていない。
左:城之門筋の景観。
右:銅張り町家の壁に設置された鍾馗像。
左:夕暮れてきた。PLタワーがシルエットになっている。
右:城之門筋の北端より。かつてはここに門があり、濠もあったのかもしれない。
左:銅張りの立派な町家。
右:奥谷家本家(岩瀬屋)の北東角。奥谷家は19名の大組衆(杉山家、仲村家、奥谷家などの有力町人衆)のメンバーとして寺内町の自治を担っていた旧家である。
左・右:東奥谷家住宅。
左・右:そして南奥谷家住宅。
左:南奥谷家。
右:街並み、つまり線として、面としてこの景観が保たれているのがすごい。
左:大変な大邸宅である。
右:地の一角に小さな門があった。
左:覗いてみたら、なんと内部は長屋だった。大きな商家の奉公人が住んでいたのだろう。
右:街路に面してる部分はつまり長屋の裏である。防犯性に優れた造りといえよう。
左:長屋の入口とは気づかない造りである。
右:手前、煙出しのある立派な町家は杉田家住宅(杉田醫院)、その向こうが富田林御坊である。杉田家は屋号を樽屋という油商だったそうである。
左:杉田家の説明。
右:その隣りには黒山屋田守家住宅があった。木綿商である。
左・右:田守家住宅。
左・右:順番が前後するが、杉田家住宅。PLタワーが遠くに霞んでいる。
左:杉田家住宅の煙出し。
右:田守家住宅から登録有形文化財中内眼科醫院を見る。
左:浄土真宗興正派の寺内町であるが、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の末寺もあった。妙慶寺である。
右:興正寺別院(富田林御坊)の山門。立派な年代ものだが、かなり傷んでいた。
左・右:既に閉門していて境内には入れなかったのだが、御坊の伽藍である。
左:説明板。
右:城郭のような鼓楼。
左:こちらは妙慶寺。
右:非常に美しい硝子の引き戸。
左:どこを切り取っても絵になる美しい街並み。奧は木口家住宅である。
右:木口家住宅。屋号は「木綿庄」で、その名の通り河内木綿を扱う旧家だったが、今は瀬戸物商となっている。
左:木口家の説明板。
右:木綿庄の入口。
左・右:木綿庄の入口。
左:木口家住宅。
右:その近くの別の町家。
左・右:同じ住宅。
左:中井家の説明板。
右:、呉服商の「布屋」、中井家住宅である。
左:布屋。
右:大きな土蔵。
左:城之門筋のほぼ南端附近より。
右:路地の奥になにやら書いてある。
左:とのことである(笑)。
右:同じ路地の奧にて。
左:寺内町の南端近く、再生された古民家「陶工房飛鳥」があった。
右:いきなり視界が開けて吃驚する。駅から歩くと気づかないが、ここは防備を固めた寺内町なのである。南東側は石川に沿って断崖となっていて、天然の要害になっているのだ。
上:この地形だから、城壁がなくとも堅固である。